第16話「牧野の折衝」
時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ
2025年2月下旬。
予算可決まで一週間を切っていた。
牧野俊介は横須賀線の車内で資料を見ていた。向かいのサラリーマンがスマートフォンでニュースを見ていた。画面にドランプの顔が映っていた。
追浜駅で降りた。
改札を出ると、海が見えた。東京湾の入口。灰色の空の下で、タンカーが一隻動いていた。
日産自動車の追浜工場は、駅から歩いて十分だった。
正門の前で、牧野は少し立ち止まった。
ここに来るのは二度目だった。最初は経産省の若手時代、自動車産業の視察で来た。あの頃、この工場は三交代でフル稼働していた。
今は違う。
正門を入ると、広い駐車場が見えた。止まっている車が多かった。稼働していないラインがある証拠だった。
受付で名刺を出した。
「経済産業省の牧野です。安田執行役員にアポを取っています」
会議室は三階だった。
安田誠治は既に座っていた。五十四歳。追浜工場の叩き上げで、三十年この工場にいる男だった。ゴーン時代に海外赴任を経験して、工場の合理化を推進してきた。今は国内製造統括の執行役員だった。
目の下に隈があった。
「経産省の方が直接来られるとは思いませんでした」牧野が座ると、安田は静かに言った。「しかも事前の説明が『非公式な相談』だけで」
「正式な話になれば、正式な手続きを踏みます」牧野は資料を出さずに言った。「今日はまず、安田さんの話を聞きに来ました」
安田が少し目を細めた。
「私の話?」
「追浜の現状を」
安田はしばらく黙っていた。窓の外に工場の建屋が見えた。
「ホンダとの統合の話は、ご存じですよね」
「知っています」
「破談になりました。次の手を考えています。ただ——」安田は言葉を切った。「正直、見えていません。EV化の波に乗り遅れた。中国メーカーに価格で勝てない。このままでは追浜は——」
彼は窓の外を見た。
「三年以内に、難しい判断を迫られます」
牧野は頷いた。
「工場を閉めるという判断ですか」
「そうならないように考えています。でも稼働率が上がらなければ、維持できない」
「何人いますか。この工場に」
「直接雇用で約三千人。関連企業を含めると一万人近い」
牧野は少し間を置いた。
「安田さん、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「自動車以外の製造ラインを持つことについて、どう思いますか」
安田が牧野を見た。
「どういう意味ですか」
「この工場の製造技術と設備を、別の製品の量産に転用する。雇用はそのまま維持される。安定した発注が継続的に入る。自動車の稼働率に左右されない収益の柱ができる」
安田が静かに言った。
「別の製品というのは」
牧野は資料を一枚だけ出した。
09式の概念図だった。装輪車体に砲塔が載っている。
安田はそれを見た。長い沈黙が落ちた。
「防衛装備品ですか」
「装輪車体の量産です。自動車の製造ラインと親和性が高い。追浜の技術で作れます」
「うちは自動車メーカーです」
「そうです。だからこそお願いに来ました」牧野は静かに言った。「日産以外に、これだけの規模の装輪車体を量産できる民間企業は国内にありません」
安田は資料から目を離さなかった。
「防衛省からの発注ということになりますか」
「表向きは経産省の製造業基盤強化事業として処理します。発注の名目は国内製造業の多角化支援です」
「表向きは、ということは——」
「実態は防衛装備の量産ラインです」牧野はそれだけ言った。「ただし、それはこの部屋の外では言わない話です」
安田がようやく牧野を見た。
「経産省の方がそういうことを言うんですね」
「言わざるを得ない状況です」
また沈黙が落ちた。
安田は窓の外を見た。工場の建屋。三千人の雇用。三十年間、この工場を守ってきた男が、窓の外を見ていた。
「技術者の問題があります」安田が静かに言った。「装輪の軍用車体は、自動車とは違う設計思想が必要です。うちの技術者では——」
「UDトラックスから来てもらいます」
安田が眉を上げた。
「UDが?」
「いすゞへの統合で余剰になる技術者がいます。大型車体の設計と製造に精通した人間たちです。追浜の製造ラインと組み合わせれば、必要な技術は揃います」
安田はしばらく考えていた。
「UD側はそれを了承しているんですか」
「これからです」牧野は静かに答えた。「ただし、いすゞへの統合でポストを失う技術者にとって、悪い話ではないはずです」
安田が小さく笑った。
「随分と手回しがいいですね」
「段取りが仕事ですから」
安田は資料をもう一度見た。
「一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「これは——日本にとって必要なことですか」
牧野は少し間を置いた。
「必要です」
安田はそれ以上聞かなかった。
「社内での手続きが必要です。私一人では決められない」安田は立ち上がった。「ただし——」
彼は牧野を見た。
「検討します」
牧野も立ち上がった。
「それで十分です」




