表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/95

第13話「ドネツクの機関室」

時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ

第6.5話「ドネツクの機関室」


2023年11月。


ディミトリ・ヴォルコフは艦艇の機関室ではなく、塹壕の中にいた。


ウクライナ海軍の機関科将校が、なぜ東部戦線の歩兵部隊にいるのか。理由は単純だった。海がなかったからだ。


クリミアを取られた。黒海艦隊の拠点を失った。ミサイル艇は沈んだか、オデーサの港で動けなくなった。ウクライナ海軍の将校たちは、銃を持って陸に上がった。


機関科の将校が銃を持っても、それほど役には立たない。でも体は丈夫だった。エンジンルームで鍛えた腕と、狭い空間で動ける体は、塹壕では意外と使えた。


ドネツクの冬は底冷えがした。


ディミトリは塹壕の壁にもたれて、エンジンの音を聞いていた。遠くで戦車が動いている。ディーゼルエンジンの音は分かる。何千時間も聞いてきた音だ。あれはT-72の改良型だ。どのくらい整備が行き届いているか、音だけで分かる。


「ヴォルコフ、何聞いてる」


隣の若い兵士が言った。二十二歳のキリルだった。


「エンジンの音だ」


「敵のか?」


「ああ」


「で、何が分かる」


「整備が悪い。燃料フィルターが詰まりかけている」


キリルが笑った。


「それ知ってどうする」


「どうにもならない」


二人で少し笑った。


砲撃が来たのはその五分後だった。


ディミトリが目を覚ました時、空が見えた。塹壕の壁が崩れていた。左足に感覚がなかった。キリルの声は聞こえなかった。


後で聞いた話では、後送までに三時間かかったという。


2024年2月。イタリア・ミラノ近郊。


病院の窓から、アルプスの稜線が見えた。


ディミトリは左足を見た。膝から下はある。動く。ただし、走れない。甲板の上を駆け回ることは、もうできない。


イタリアのNGOが運営する療養施設だった。ウクライナから後送された負傷兵が十数人いた。みんな静かだった。戦場の音が頭から離れない者は、静かにしているしかなかった。


窓の外で、イタリア人の老人が庭を歩いていた。犬を連れていた。のんびりした足取りだった。どこにも急いでいなかった。


ディミトリはそれを見ていた。


戦争が終わったら何をするか、考えたことがなかった。終わる気がしなかったからだ。でも今は、終わる前に自分が終わったかもしれなかった。


左足は動く。でも海軍には戻れない。機関室の狭い梯子を、この足では駆け上がれない。


キリルは助からなかった。後でそれを聞いた。二十二歳だった。


病室のベッドで、ディミトリはエンジンの音を思い出していた。


LM2500。艦艇用ガスタービンエンジン。ウクライナ海軍のフリゲートに積まれていた。起動時の独特の唸り、巡航時のリズム、限界まで回した時の高音——目を閉じれば全部聞こえた。


それだけは取られなかった。


庭の老人が立ち止まった。犬が花の匂いを嗅いでいた。冬なのに、南イタリアの陽光は柔らかかった。


「静かな場所に住みたい」


声に出した言葉は、病室の壁に吸い込まれた。


ウクライナに帰っても、静かな場所はなかった。ミラノに残っても、外国人だった。どこに行けばいいのか、分からなかった。


ただ、エンジンの音なら、どこでも聞いていられる気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ