第13話「ドネツクの機関室」
時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ
第6.5話「ドネツクの機関室」
2023年11月。
ディミトリ・ヴォルコフは艦艇の機関室ではなく、塹壕の中にいた。
ウクライナ海軍の機関科将校が、なぜ東部戦線の歩兵部隊にいるのか。理由は単純だった。海がなかったからだ。
クリミアを取られた。黒海艦隊の拠点を失った。ミサイル艇は沈んだか、オデーサの港で動けなくなった。ウクライナ海軍の将校たちは、銃を持って陸に上がった。
機関科の将校が銃を持っても、それほど役には立たない。でも体は丈夫だった。エンジンルームで鍛えた腕と、狭い空間で動ける体は、塹壕では意外と使えた。
ドネツクの冬は底冷えがした。
ディミトリは塹壕の壁にもたれて、エンジンの音を聞いていた。遠くで戦車が動いている。ディーゼルエンジンの音は分かる。何千時間も聞いてきた音だ。あれはT-72の改良型だ。どのくらい整備が行き届いているか、音だけで分かる。
「ヴォルコフ、何聞いてる」
隣の若い兵士が言った。二十二歳のキリルだった。
「エンジンの音だ」
「敵のか?」
「ああ」
「で、何が分かる」
「整備が悪い。燃料フィルターが詰まりかけている」
キリルが笑った。
「それ知ってどうする」
「どうにもならない」
二人で少し笑った。
砲撃が来たのはその五分後だった。
ディミトリが目を覚ました時、空が見えた。塹壕の壁が崩れていた。左足に感覚がなかった。キリルの声は聞こえなかった。
後で聞いた話では、後送までに三時間かかったという。
2024年2月。イタリア・ミラノ近郊。
病院の窓から、アルプスの稜線が見えた。
ディミトリは左足を見た。膝から下はある。動く。ただし、走れない。甲板の上を駆け回ることは、もうできない。
イタリアのNGOが運営する療養施設だった。ウクライナから後送された負傷兵が十数人いた。みんな静かだった。戦場の音が頭から離れない者は、静かにしているしかなかった。
窓の外で、イタリア人の老人が庭を歩いていた。犬を連れていた。のんびりした足取りだった。どこにも急いでいなかった。
ディミトリはそれを見ていた。
戦争が終わったら何をするか、考えたことがなかった。終わる気がしなかったからだ。でも今は、終わる前に自分が終わったかもしれなかった。
左足は動く。でも海軍には戻れない。機関室の狭い梯子を、この足では駆け上がれない。
キリルは助からなかった。後でそれを聞いた。二十二歳だった。
病室のベッドで、ディミトリはエンジンの音を思い出していた。
LM2500。艦艇用ガスタービンエンジン。ウクライナ海軍のフリゲートに積まれていた。起動時の独特の唸り、巡航時のリズム、限界まで回した時の高音——目を閉じれば全部聞こえた。
それだけは取られなかった。
庭の老人が立ち止まった。犬が花の匂いを嗅いでいた。冬なのに、南イタリアの陽光は柔らかかった。
「静かな場所に住みたい」
声に出した言葉は、病室の壁に吸い込まれた。
ウクライナに帰っても、静かな場所はなかった。ミラノに残っても、外国人だった。どこに行けばいいのか、分からなかった。
ただ、エンジンの音なら、どこでも聞いていられる気がした。




