第5話
膝をついたまま顔を上げると、木立の奥から三人が出てきた。
三人。
見覚えがある。青空高校。初日なのに、もう顔は覚えていた。
レイコが数歩手前で止まる。腕を組んで、目はもう答えを出していた。
「……あんた、あっち側でしょ」
ヴォイドは彼女を見る。「何言ってんだ」
声がおかしかった。空洞みたいで、まだ自分が息をしていることに追いついていない。
レンが隣に立ち、ヴォイドを頭から足まで見る。血に染まった服、自分のじゃない暗い染み。
「とぼけんなよ、転校生くん」
ヴォイドの目が細くなる。「どういう意味だ」
レンが横を向く。「なあ黒木、こいつ頼んでいい?」
ヴォイドの視線が三人目に動く。
同じクラスの黒髪。背景として処理して終わりにしていた存在。
その認識を改める。
黒木がヴォイドをしばらく見る。
それから一度、息を吐く。
「……面倒だな」
手の中で何かが形成される。闇が内側に引き寄せられ、圧縮され、刃の形が決まる。最初からそこにあることになっていたみたいに。
ヴォイドは慌てて立ち上がり、後退る。「待て、俺まだ何が起きてるか——」
黒木は歩みを止めない。
黒木が先に動いた。
合図も構えの変化もない。刃がただそこにあって、ヴォイドは純粋な本能で後ろへ引く。喉に掠めるほどの距離。空気が裂ける感触だけが残る。
動き終わる前に次が来る。さらにもう一つ。後退しながら体を捻り、屈んで、逃げる。思考の半秒前に体が動いていた。全部外れる。でも、ギリギリで。いつもギリギリで。
「……なんなんだよお前——!」
黒木は答えない。脇腹を掠める一閃、顔面へ走る刃、ヴォイドは後ろへ跳んで滑って倒れかけ——ギリギリで片手を地面について止まる。
「……全部避けてる……?」レンの声が左から聞こえる。いつもより低い。
ヴォイドは立ち上がる。呼吸が乱れている。
黒木が距離を詰める。今度は速い。低い軌道の斬撃が持ち上がり、スイング中に圧縮されて短くなり、動きを止めずに短剣へ変わって、そのままヴォイドの頭部へ一直線に突き出される。
ヴォイドは後ろじゃなく前に出て、手首を掴んだ。
短剣が止まる。
完全に。
腕が震える。自分の手を見る。まるで他人のもの。
「……は?」
黒木はその手を一瞥して、次の瞬間には拳をヴォイドの肋に叩き込んでいた。掴みは一瞬で崩れ、続く蹴りが腹に入って体が土の上を滑る。
片膝で止まって顔を上げる。黒木はもう動いている。
次の一撃が胸を裂く——血が溢れる前に傷が塞がった。肉がただ引き寄せられて閉じる。間違いを直すみたいに。
沈黙。
「……は……」レンが息を漏らす。それだけ。
レイコの目がわずかに細くなる。「……再生能力」
ヴォイドは自分の胸を見る。手が震えている。
「……何なんだよ、この体……」
心臓の音の下、そのさらに奥から、何かが笑った。低く、ゆっくりと、ずっと待っていてそれが長くなっても気にしなかったみたいに。
……出てきたか。
……遅かったな。
黒木が一度息を吐く。そしてまた動く。今度は違う。圧でも試しでもない。ただの破壊。正確で無駄のない連撃。傷が開く速度が閉じる速度を上回る。次の一撃が塞がりかけた傷をまた裂く。視界が揺れる。膝が折れる。蹴りが胸に入って木へ叩きつけられ、幹が軋んで、そのまま滑り落ちて動かない。
口から血が流れる。再生が鈍る。止まる。
黒木が背を向ける。「……終わった。行くぞ」
レンは木にもたれた体を見たまま言う。「……早くない?」
レイコはすぐに動かなかった。視線はヴォイドに向いたまま。意識を失ったようには見えない静けさと、塞がりかけて止まった傷を見ている。
「再生してた」
レンが彼女を見る。「……まあな、それで?」
「そういうやつがこんな簡単に終わると思う?」
黒木の声が前から返る。「不安定だった。出力を維持できていない。あの損傷量で十分だ」一歩進む。「行くぞ」
レンが後頭部を掻く。「……まあ最後かなりキツそうだったし——」
「レン」
「……はいはい行きます」
レイコが最後にもう一度だけヴォイドを見る。それから振り返って歩き出す。
四歩進んだところで——後ろの空気が変わった。
音じゃない。ただの圧。首の後ろを引かれるような感覚。
レンが足を緩める。「……今の、感じたか?」
黒木が止まる。
傷が一斉に塞がった。徐々にじゃない。一瞬で。何かがただそう決めたみたいに。ヴォイドの指が動く。木から体を押し上げて立つ。そしてほんの一瞬だけ、重心がずれた。
次の瞬間には完全に静止していた。
「……もう帰るのか?」
声は同じだった。
抑揚が違う。
最初に振り向いたのはレンだった。「……マジかよ」
ヴォイドが顔を上げる。その口元に広がった笑みは落ち着きすぎていて、馴染みすぎていた。ずっと座りたかった場所にようやく腰を下ろした人間みたいに。
「まだ終わってないだろ」
空気が変わる。わずかだが確か。嵐の前みたいに圧が落ちる。
レイコが鼻で息を吐く。「……だから言った」視線が鋭くなる。「死んでない」
レンが一歩下がる。「……後からだとめちゃくちゃ分かるな、それ」
黒木はヴォイドを見ていた。しばらく何も言わない。
そして静かに一度息を吐く。
「……面倒だな」
手の中で闇が再び集まる。さっきより濃く、重く。
ヴォイドの奥にいる何かが、わずかに首を傾げる。笑みは消えない。
「……いいね」一拍、声がわずかに低くなる。「……もう一回やってみろ」
黒木は迷わず踏み込む。
大きな斬撃。ヴォイドは気負いなく身を傾けて避ける。二撃目は低い、流す。三撃目は速い。だがその内側へ踏み込んで刃の腹を掌で受け止める。
止まる。
完全に。
そのまま保持して刃を見る。何かを読み取るみたいに。
「……それが限界か?」
黒木は答えない。攻め続ける。軌道を変え、間合いを詰め、タイミングを削り、侵入点を変える。そのすべてに対してヴォイドは同じ調子で対応する。最低限だけ。それ以上しない。外から見れば黒木が押されているように見える。
違う。
黒木は二度目の交差からずっとあの腕を見ていた。わずかな遅れ。意思に対して体がほんの一瞬遅れて追いつく。誰でも誤差として流す程度の差。黒木は流さない。
わずかに遅すぎる餌を置き続ける。リズムを作る。慣れさせる。
次の交差。踏み込む。ほんの少しだけガードを開ける。
来る。
喉へ向かう手。
予定通り。
黒木は落ちた。
ヴォイドの足元から地面が割れる。裂け目から闇が噴き出す。形成でも拡張でもない。ただそこにあった。触手が脚、胴、腕に絡みつき、遅れが補正される前に全部を固定する。即座に締め上げる。余裕はない。
ヴォイドはそれを見下ろす。
それから黒木を見る。すでに立ち上がっている。表情は変わらない。
沈黙。
「……レイコ」
視線がわずかに動く。それだけで十分だった。
光はすでに放たれていた。白い収束光が空間を一直線に裂く。軌道も予兆もない。避ける距離じゃない。
それでも思考は止まらない。
右腕が拘束を引きちぎって前に出る。
直撃。
白が視界を埋める。熱、衝撃、焼ける匂い。
全部呑み込む。
収まった時、手首から先がなかった。完全に消えている。
だが次の瞬間、骨が突き出る。筋肉が層を重ねて編まれ、最後に皮膚が閉じる。ゆっくりと指を動かす。確認するみたいに。
小さな音が漏れる。痛みじゃない。興味に近い何か。
「……面白い」
視線がレイコに定まって、そこで止まる。
「……エネルギー操作か」わずかに首を傾げる。「……久しぶりに見たな」
レイコは動かない。
でも思考はもう別の場所にあった。途切れかけていた再生、立つのもやっとだった体、黒木に一方的に崩されていた状況——それが今、何事もなかったみたいに腕を再構築している。
同じやつか?さっきまで立つことすら怪しかったのに……今は?
レンの声が静かに漏れる。「……腕ごと消し飛んだはずだぞ……もっと持っていかれてもおかしくなかった」
触手はまだ拘束している。でも限界に近い。震えている。内側から何かが押し返している。
ヴォイドはそれを一瞥する。退屈そうに。
そして顔を上げる。
同じ笑み。
「……それじゃ足りないな」
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触手が弾けるように崩れた。
崩れ終わる前にレンはすでに踏み込んでいた。顎を引いて片手を上げる。「……ふざけんな」
重力が一気に落ちる。集中して、圧縮されて、息を詰まらせるような重圧。足元の地面が割れ、落ち葉が押し潰され、空気自体が歪む。レンは持てる全部を叩き込んで一切加減しなかった。
その中に、立っている。
ただ立っている。
そして一歩踏み出す。
足元で地面が裂けると同時に脚の内側で何かが弾ける。湿った鋭い音。レンの胃がひっくり返るような感覚。脚があり得ない方向に折れ、崩れ、そして戻る。最初から処理済みだったみたいに。もう一歩。同じ音が今度は腰のあたりから。さっきより酷い。耐えられるはずのない圧力で骨が軋む。それでも止まらない。同じ速度。同じ表情。体は壊れながらその場で修正されていく。ダメージは吸収されて切り捨てられる。ただの天気みたいに。
レンの顎が強張る。さらに出力を上げる。
今度は肩から音が鳴った。離れた場所にいるレイコにもはっきり聞こえるほどの音。
止まらない。
「……なんでそれで——」
笑みが広がる。
それだけだった。
答えはない。言葉もない。ただその表情だけが、異様なほど落ち着いたまま、重力に引き裂かれながらも歩き続ける。
レンの集中が揺らぐ。
その瞬間、そこにいた。
溜めもない。ブレもない。予兆もない。さっきまで数メートル離れていた距離が次の瞬間には消えていた。レンがそれを認識する暇もないまま、胸に掌底が叩き込まれる。ほとんど気軽に放たれた一撃で、レンの体は完全に宙へ弾き飛ばされた。地面を跳ね、草を薙ぎ、木に叩きつけられる。樹皮が割れる。
そのまま滑り落ちる。
立ち上がらない。
「……ずるいだろ……」かすれた声が、ほとんど無意識に漏れる。
レイコはまだ動きを処理しきれていなかった。目を見開いて、何も追えないまま、思考だけが空回りしている。
その喉に、手がかかった。
距離を詰めた瞬間を見ていない。瞬きをした次の瞬間にはそこにいた。ヴォイドの顔がヴォイドじゃない何かになっていることを理解する前に体が持ち上げられていた。
両手で手首を掴む。引く。びくともしない。
指の位置がわずかに動く。調整するみたいに、正確に。親指が首筋のある一点に当てられる。絞めるためじゃない。もっと速く終わらせるための位置。
レイコの目が見開かれる。
ヴォイドはわずかに首を傾げる。興味もなさそうに、考えの続きを終わらせるみたいに。
その瞬間、背後から何かが貫いた。
胴体を一直線に。綺麗な刺突。闇で構成された刃の先端が胸から突き出る。口から血が溢れる。握りが緩む。
レイコは落ちる。地面に倒れ込んで、しばらく何もできず、ただ呼吸だけを繰り返す。
ヴォイドは自分を貫いているそれを見下ろす。
表情は変わらない。
「……へえ」
ゆっくりと、意図的に振り返る。
黒木が背後に立っている。腕はまだ突き出されたまま。顔には何もない。
ヴォイドはその刃を片手で掴んで、躊躇なく引き抜く。痛みへの反応は一切ない。地面に落とす。
傷が閉じる。
視線が黒木へ向く。
この場で唯一価値のあるものを見るみたいに。
「……ここで相手になるのはお前だけだな」
黒木はすでに動いている。
交差は速い。低い軌道から上へ、ヴォイドはわずかに体を動かすだけで流す。受け止めるんじゃなく、逸らす。必要最小限だけ。それ以上しない。黒木は絶えず調整する。角度、タイミング、武器の形。刃はスイングの途中で形を変え続ける。それでもヴォイドは同じ調子で対応し続ける。結果が最初から決まっているみたいに。黒木が何を見せるのかに興味があるだけみたいに。
襟を掴まれる。
そのまま地面へ叩きつけられる。衝撃で大地が割れる。
見下ろされる。
「……惜しいな」
黒木は何も言わない。すでに短剣が手にある。そのまま顔面へ突き上げる。至近距離。
その手首が掴まれる。
止まる。
一瞬の静止。
次の瞬間、武器が変形する。伸び、歪み、黒く満ちて、同じ握りのまま長剣へ変わり、そのまま頭があった場所を貫く。
わずかに、ほんのわずかに体が逸れた。一瞬遅れて。
刃が顔に細い線を刻む。血が滲んで、落ちきる前に塞がる。
その目が再び黒木へ向く。何かが変わっていた。退屈が消えて、代わりに鋭さがある。意識が前に出てきたみたいな、どこかの扉が開いたみたいな。
「……今のは良かった」
一拍。
「……そこで止まるな」
黒木は動きを止めない。
それが最初のルールだ。止まれば死ぬ。だから押し続ける。角度を変え続ける。何も返ってこなくても交差を作り続ける。刃は振るう途中で形を変える。長く、短く、広く、細く。意味はない。仕掛ける前に全部対処される。
あの速度。
思考が一瞬で通り過ぎる。速いという話じゃない。純粋な速度じゃない。何かが違う。反応じゃなく意志で動いている。判断と実行の間に隙間がない。
腕に遅れがある。左側の反応が右より僅かに遅い。三手目で腰の回転を崩せば——
「……無理するな」
黒木の足が止まる。
一拍。この戦いで初めて、自分の意思とは無関係に体が止まった。
「……影山」
その名前はただそこに置かれた。強調もない。ただ、昔から知っている相手の名前を呼ぶみたいに。
黒木の顎は動かない。表情も変わらない。でも目の奥が完全に止まる。
名乗っていない。口にしていない。考えてもいなかった。いや、考えていた。戦闘中ずっと回していた計算の流れ、その裏側、意識すらしていなかった層で——
遮断する。
全部だ。計算も、整理も、読み取りも。戦闘開始から回り続けていた思考を引き剥がして閉じる。頭の中を空にして、ただ呼吸する。
三秒。
そして——
「……面白いな」
その声にわずかに温度があった。
「思考を切り分けたか」わずかに首を傾げる。その表情はヴォイドじゃない。「思ったより賢いな、影山」
黒木は何も言わない。
刃を下げたまま、ただ見ている。ヴォイドの目の奥にいる何かを。そして一切何も渡さない。
沈黙が伸びる。
どちらも動かない。
思考を捨てて動く。
刃が形成される。すでに振り下ろしている。予備動作も読みもない。ただ最短距離で頭を断つ軌道。
外れる。
避けられたからじゃない。そこに頭がなかった。ただわずかにずれていた。道の上の障害物を避けるみたいに。
二撃目に移ろうとした瞬間、拳が叩き込まれる。
予兆もない。溜めもない。ただ一直線に腹へ。肺の空気が一気に抜ける。体が後方へ滑る。足が辛うじて地面を掴む。
見えていなかった。
衝撃を処理している最中、前屈みで膝に手をついて息を取り戻そうとしたその時、腕が来る。
横薙ぎ。速い。頭部狙い。
考える時間はない。
跳ぶ。
すでに空中。体を捻って反射だけで動く。全部の回転を乗せた一撃。脚を伸ばしてヴォイドの側頭部へ叩き込む。
その手は、すでにそこにあった。
足首を掴まれる。
回転が、止まる。
投げられたボールを掴むみたいに、あまりにも簡単に。
一瞬、黒木の体が空中で固定される。完全に伸び切った状態で、行き場を失う。
次の瞬間、掴みが回る。
体が回転する。勢いがそのまま返ってくる。理解する前に、木へ叩きつけられる。
樹皮が割れる。空気が抜ける。地面に落ちる。口の中に血の味。額からも流れている。
視界が安定するまで少し時間がかかる。
幹を掴んで体を起こす。背中を預けたまま立つ。荒い呼吸だけが静けさの中に響く。
……なんだ、あの速さ。
計算じゃない。ただそれだけが残る。
口元の血を拭う。
向こう側、ゆっくりと、何事もなかったように立っている。
「……もうそれだけか?」
わずかに首が傾く。
「……お前は違うと思ってたんだがな」




