第4話
光はない。
森もない。
足元の地面すら存在しない。
ただ、どこまでも続く闇だけが広がっていた。
その中を、ヴォイドは漂っている。
重さはない。
感覚もない。
思考だけが、壊れた信号のように闇の中を這っていた。
……なんだ……
ここは……どこだ……?
息を吸おうとする。
だが、空気はない。
動こうとする。
――体が、ない。
ゆっくりと、恐ろしい理解が広がっていく。
心臓が……
鼓動がない。
リズムも、脈もない。
ただ、静寂だけがある。
……俺は……
死んだのか……?
焦りが一気に込み上げる。
違う。
違う、違う……!
こんな終わり方のはずがない。
思考が軋む。
闇が、さらに濃く、重く、押し潰すように迫ってくる。
その時――
笑い声が響いた。
低く。
歪んだ。
まるで、墓の底から響くような声。
「……へぇ」
「……ハハハ……」
音が、闇の中に波紋のように広がる。
ヴォイドの意識が、そちらへ引き寄せられる。
……なんだよ……
誰だ――!?
笑いは、やがて歪んだ笑みに変わる。
「見ろよ、お前」
声は歪んでいる。
楽しんでいる。
愉しげに。
「腐りもしない死体みたいに、闇に浮かんでやがる」
ヴォイドの思考が震える。
……何者だ……?
鋭い笑いが返る。
「驚くなよ」
「ずっとお前の中にいたんだからな」
声が、近づく。
さらに近く。
闇の中で、周囲を回るように。
「なあ、ヴォイド」
一瞬の間。
重い沈黙。
「生きたいか?」
その問いが、闇に沈む。
そして、ゆっくりと続く。
「こんな状態でもか?」
「体はズタズタ……」
「血は流れ続け……」
「骨も砕けて……」
「心臓は、もう止まってる」
耳元で囁くような声。
「お前は死んだんだ、ヴォイド」
冷たい笑い。
「それでも」
「まだしがみついてる」
「そのみっともない“生”に」
闇が締め付ける。
「なあ……」
声がさらに低くなる。
「もう死んでるのに――」
「なんでそんなに生きようとしてる?」
ヴォイドの思考が揺れる。
「……何を……言ってる……」
沈黙。
そして、小さな笑い。
「本当に分かってないのか」
「哀れだな」
一拍。
「自分の中に何が封じられてるかも知らない」
封じ……?
「お前――」
言葉は途中で断ち切られる。
冷たく。
決定的に。
「……今、心臓が止まった」
ヴォイドは凍りつく。
遠くで、音が聞こえる。
――ピーーーー
二度と戻らない鼓動の音。
満足げな吐息が漏れる。
「終わりだな」
「……お前の抵抗も」
わずかな笑みが滲む。
「じゃあ――」
「次は俺の番だ」
闇が震える。
壊れたような笑い声。
「ハハハ――ハ――ハハハハハ……」
音が崩れる。
ノイズのように砕け散る。
そして――
静寂。
森は静まり返っていた。
冷たい空気の中に、鉄のような血の匂いが漂っている。
ヴォイドの体は、倒れたまま地面に半ば埋もれていた。
壊れたまま。
動かない。
――死んでいる。
数秒が過ぎる。
何も、動かない。
だが――
指先が、わずかに動いた。
ゆっくりと。
体が起き上がる。
ヴォイドは、再び立ち上がる。
だが、その動きはおかしい。
最初はぎこちなく――
次の瞬間には、不自然なほど滑らかに。
まるで、今まさに糸を引かれた人形のように。
闇が、彼の体から滲み出す。
煙ではない。
影でもない。
もっと濃く――
もっと重い。
“生きている何か”。
それが地面を這い、黒い血管のように広がっていく。
ヴォイドはゆっくりと頭を下げ、自分の手を見つめる。
指を曲げる。
戻す。
確かめるように。
「……これが器か」
口から漏れる声は、静かで冷たい。
わずかに歪んでいる。
肩を一度回す。
関節が収まり、最後の傷が閉じていく。
「……チッ」
「脆いな」
小さな笑いが漏れる。
「そりゃ死ぬわけだ」
「まあいい……使えはする」
その時――
ぐちゃり、と湿った音が響く。
ヴォイドを殺した化け物が、再び体を引き起こす。
刃のような腕が小さく痙攣しながら、こちらを見ている。
――一瞬、躊躇した。
空気が違う。
重い。
息苦しい。
ヴォイドの周囲だけ、何かがおかしい。
ヴォイドはゆっくりと首を向ける。
しばらく、ただ見つめる。
やがて――
口元が、わずかに歪む。
「……ああ」
一拍。
「まだいたのか?」
化け物が飛びかかる。
喉元を狙った一撃。
ヴォイドの手が、気だるげに持ち上がる。
――止まる。
掴まれた。
刃が、彼の手の中で激しく震える。
押し込もうとするが、動かない。
ヴォイドは掌の中の刃を見下ろす。
「やっぱり脆いな」
指に力が入る。
――バキッ。
刃が砕ける。
破片が地面に散る。
化け物が固まる。
ヴォイドは声をわずかに落とす。
「……つまらないな」
ヴォイドが一歩踏み出す。
――その瞬間。
バキッ。
鈍い音が、体の内側から響いた。
腕がわずかに歪む。
皮膚の下で、筋肉が裂ける。
だが、止まらない。
止める気もない。
「……チッ」
舌打ち。
裂けた箇所が黒く蠢く。
無理やり、繋がる。
骨が軋み、押し戻される。
不完全なまま。
それでも、動く。
ヴォイドは自分の腕を見下ろす。
一瞬だけ、眉をひそめる。
「……遅い」
低く、苛立った声。
「この体――」
わずかに笑う。
「使えねえな」
踏み込む。
地面が弾ける。
――さらに裂ける。
肉が耐えきれず、引きちぎれかける。
だが、それでも構わない。
「壊れるなら――」
笑みが深まる。
歪んでいる。
「壊れなくなるまで使うだけだ」
化け物は理解できない。
確かに、この人間を殺したはずだった。
なのに――
目の前にいる。
生きている。
それどころか。
空気が違う。
重い。
森そのものが、息を止めているような圧迫感。
ヴォイドは静かに観察する。
首をわずかに傾げながら。
「なあ」
声が、ゆっくりと森の中へ流れていく。
「今まで色々戦ってきたが」
視線が、その歪な体をなぞる。
「これは……」
小さく息を吐く。
「……期待外れだ」
化け物の腕がうごめく。
砕けた刃が再生する。
黒い肉が捻じれ、再び刃へと形を変える。
ヴォイドはそれを見つめる。
わずかに興味を示すように。
「それは新しいな」
化け物が再び飛びかかる。
再生した刃が、首を狙って振るわれる。
ヴォイドは動く。
速くはない。
ただ――突然。
斬撃は空を切る。
化け物が止まる。
その背後から、声が落ちる。
静かに。
楽しむように。
「手間をかける価値もない」
反応する間もなく――
閃き。
砕けた刃の破片が、ヴォイドの手にある。
一振り。
それだけ。
首が、綺麗に断ち切られる。
体が理解するより先に、頭が地面に落ちる。
遅れて、胴体が崩れ落ちる。
再び、森に静寂が戻る。
ヴォイドは親指で頬の血を拭い、わずかに眺める。
「……それだけか?」
その時――
ガサリ、と木々が揺れる。
枝が軋み、葉が震える。
闇の奥から、新たな気配が現れる。
血の匂いに引き寄せられた化け物たち。
ヴォイドはゆっくりと顔を上げる。
「……ああ」
口元に笑みが広がる。
「まだいるのか」
足元の死体を一瞥する。
「さっきは一匹かと思ったが」
視線が、周囲へ流れる。
「どうやら違うらしいな」
化け物たちが、ゆっくりと包囲する。
体が歪み、波打つ。
黒い肉が液体のようにうねり、腕が武器へと形を変えていく。
刃。
鉤。
歪んだ大鎌。
蠢く触手。
森は、血の鉄臭さで満たされていく。
ヴォイドは半分閉じた目でそれを眺める。
「……面白い」
一体が飛びかかる。
振るわれた刃――
だが、その場所にヴォイドはいない。
斬撃は空を裂くだけ。
その背後に、手が置かれる。
後頭部へ。
「……それだけ走って、この程度か?」
暴れる。
もがく。
だが、ヴォイドは動かない。
「……少しは抵抗しろ」
――ゴキッ。
鈍い音。
首が捻じ切れる。
体はそのまま崩れ落ちる。
ヴォイドはしばらく頭を掴んだまま――
無造作に放り捨てる。
「……次」
別の化け物の腕が変形を繰り返す。
刃。
棘。
鉤。
まるで最適な形を探しているかのように。
やがて決まる。
無数の毒刃が放たれる。
同時に、二体が突っ込んでくる。
ヴォイドが踏み込んだ瞬間――
地面がわずかに沈む。
だが、その時にはもういない。
刃は背後の木に突き刺さり、瞬時に腐食が広がる。
次の瞬間。
ヴォイドは、放った個体の目の前にいる。
投擲動作すら終わっていない。
顔を掴む。
そのまま――
地面へ叩きつける。
――バキッ。
地面がひび割れる。
視線すら落とさない。
「……二体目か」
残りが同時に襲いかかる。
だが――
ヴォイドは動かない。
刃が胴体を貫く。
もう一つが脇を裂く。
血が溢れる。
化け物たちが、わずかに止まる。
――次の瞬間。
ヴォイドが、自分の体を見下ろす。
「……それが狙いか?」
腕が、そのまま掴まれる。
食い込んだままの腕を。
力がこもる。
骨が軋む。
――引き抜く。
悲鳴。
だが、ヴォイドは無反応。
「……くだらない」
腕を失った個体がよろめく。
絶叫しながら後退する。
横から、別の個体。
遅い。
ヴォイドが一歩踏み出す。
それだけで十分。
手が伸びる。
突進の最中の顔を掴む。
「……全部同じだな」
叩きつける。
強く。
地面が砕ける。
体が一度震え――止まる。
ヴォイドは見ない。
背後では、腕を失った個体がまだ叫んでいる。
這いずりながら逃げようとしている。
土を引きずりながら。
ヴォイドは肩越しに視線を向ける。
苛立ったように。
「……まだ生きてるのか?」
ゆっくりと歩く。
一歩ずつ。
無駄のない足取り。
化け物は焦る。
必死に逃げようとする。
無意味だ。
数秒で追いつく。
頭を掴む。
わずかに持ち上げる。
暴れる。
醜く。
必死に。
ヴォイドはしばらくそれを見つめる。
無言で。
そして――
「……退屈だな」
――バキッ。
頭蓋が潰れる。
そのまま崩れ落ちる。
再び、静寂。
ほんの一瞬だけ。
血が、葉の上に広がる。
ヴォイドは手の血を顔に擦りつける。
「さっきの勢いはどうした?」
一体が、後退る。
警戒している。
観察している。
適応しようとしている。
だが――
瞬き。
それだけで十分だった。
世界が、わずかにズレる。
何かがおかしい。
ヴォイドが、いない。
視界のどこにも。
次の瞬間。
体が、分かれる。
あまりにも綺麗に。
ヴォイドは背後に立っている。
すでに別の方向を見ている。
「……少しはマシか」
一拍遅れて、死体が崩れる。
森は再び静まり返る。
ヴォイドはその中心に立つ。
死体が、周囲に転がっている。
バラバラに砕けた肉。
引き裂かれた四肢。
まだ微かに痙攣しているものもある。
濃い血の匂いが、空気を支配していた。
足元を見る。
肉片。
まだ温かい。
まだ、わずかに動いている。
しばらく見つめる。
そして――
ゆっくりと笑みが広がる。
「……ああ」
しゃがみ込む。
それを拾う。
手の中で軽く回す。
思考。
好奇心ではない。
計算。
「試してみるか」
躊躇はない。
噛みつく。
小さく、裂ける音。
咀嚼。
静かに。
何事もないように。
やがて、飲み込む。
一瞬の間。
わずかに笑みが深くなる。
「……悪くない」
低い笑いが漏れる。
そして――
拍手。
ぱち、ぱち、ぱち――
ゆっくりとした拍手が、森に響く。
ヴォイドは顔を上げる。
影の中から、一人の男が歩み出てきた。
黒いスーツ。
深紅のネクタイ。
傾けられたマジシャンハット。
口元には、薄い笑み。
「ブラボー」
滑らかな声。
どこか楽しんでいるような響き。
「実に見事だ」
血を滴らせたまま、ヴォイドは睨む。
「……誰だ、お前」
男は軽く両手を広げる。
「見て分からないか?」
帽子のつばを指で軽く叩く。
「マジシャンさ」
ヴォイドは一瞬だけ見つめ――
興味なさそうに吐き捨てる。
「……興味ねえな」
男は小さく笑う。
「つれないな」
「もう忘れたのか?」
ヴォイドの目が細くなる。
「お前もあいつらの仲間か?」
男は肩をすくめるだけ。
ヴォイドは口元の血を拭い、ゆっくりと笑う。
「……なあ」
「そいつらと同じように転がりたいか?」
男が口を開きかけた、その瞬間――
ヴォイドは動いた。
「遅い」
一瞬で距離を詰める。
拳が顔面へ叩き込まれる――
だが。
止まる。
男の手の中で。
衝撃が周囲に叩きつけられ、木々が揺れる。
男は首を傾ける。
軽く手首を捻るだけで――
ヴォイドの体が吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられ、滑る。
男は静かに袖を整えた。
「本当に変わらないな」
ヴォイドはゆっくり立ち上がる。
苛立ちが滲む。
「……何言ってやがる」
男はため息をつく。
「無駄だよ」
ヴォイドの体を指す。
「その体には限界がある」
ヴォイドの腕が、わずかに震える。
無理やり引き出した動きの代償。
裂けた肉が遅れて蠢き、繋がろうとする。
だが――追いついていない。
男はそれを見て、薄く笑う。
「ほらな」
「もう壊れ始めてる」
一瞬の沈黙。
そして――
ヴォイドが笑う。
低く。
歪んでいる。
「……だからどうした?」
血を拭う。
興味すらなさそうに。
「壊れる?」
肩を鳴らす。
「それが何だ」
一歩、踏み出す。
骨が軋む音すら無視して。
「この程度で止まると思ってんのか?」
口元が吊り上がる。
完全にイカれてる笑み。
「壊れたら――」
わずかな間。
「壊れなくなるまで使うだけだろ」
「超えれば――止まる」
沈黙。
男は続ける。
「そうなれば、主導権は戻る」
「本来の“持ち主”にな」
周囲の死体を見渡す。
「この状態じゃ――」
「すぐに崩れるだろうな」
視線が戻る。
「その一瞬」
「お前は何もできなくなる」
静寂。
ヴォイドは首を鳴らす。
そして笑う。
低く。
歪んでいる。
「……知るかよ」
笑みが深まる。
「その前に――」
「お前を壊せばいい」
遠くの街の灯りへ視線を向ける。
「その後は……」
「どこまで壊れるか、試すだけだ」
男は黙って見ている。
笑みは消えない。
ヴォイドが踏み込む。
拳が再び襲いかかる。
男は片手で受け止める。
捻る。
投げる。
ヴォイドの体が宙を舞う。
だが――
着地。
片手で地面を掴み、衝撃を殺す。
低く構える。
顔を上げる。
男の姿は――ない。
背後から声。
「まだその突っ込み方か?」
視線だけ動く。
「……壊れるぞ」
「その体じゃな」
振り返る。
男が数歩後ろに立っている。
ポケットに手を入れたまま。
笑っている。
ヴォイドは血を拭う。
「……うるせえな」
再び踏み込む。
空気が弾ける。
だが――
届かない。
男は一歩引くだけ。
そのまま上へ消える。
掴んだはずの空間は空。
影が落ちる。
見上げる。
男はすでに着地している。
汚れ一つない。
「思ったより早いな」
「消耗の速度が」
ヴォイドの笑みが歪む。
「なら――」
「先に殺すだけだ」
男は肩を落とす。
「仕方ない」
指を一本立てる。
空間が歪む。
圧縮される。
小さな球体。
だが不安定で、危険な歪み。
脈打つように震える。
地面が軋む。
男はそれを眺める。
「ここまでだな」
ヴォイドが動く。
だが――
指が弾かれる。
球体が放たれる。
一直線。
男の声だけが残る。
「また会おう」
直撃。
――一瞬、静止。
次の瞬間。
空間が内側へ崩壊する。
森ごと飲み込むような圧縮。
そして――
爆発。
衝撃が森を引き裂く。
風が唸る。
炎と破片が舞う。
やがて。
静寂。
男の姿はない。
――数秒後。
ヴォイドの目が開く。
「……っ!」
息を吸う。
肺が焼ける。
地面に手をつく。
見渡す。
クレーター。
そして――違和感。
口の中。
嫌な味。
重く、腐った感覚。
手が口へ。
「……なんだ……これ……」
吐き気。
膝をつく。
こらえきれず――吐く。
激しく。
だが。
消えない。
味が残る。
まとわりつく。
「……なんだよ……これ……!」
息が乱れる。
止まる。
思考の奥。
何かがいる。
見ている。
そして――
声。
低く。
楽しそうに。
「……へえ」
小さな笑い。
「……思ったより上手くいったな」
凍りつく。
「……誰だ……!」
静かな笑い。
「見せてやりたかったな」
間。
「……まあ、やめておくか」
拳を握る。
「……何した……」
囁き。
すぐそばで。
「大したことじゃない」
「少し遊ばせただけだ」
吐き気がぶり返す。
「……何を……」
笑い。
「安心しろ」
「ただの“肉”だ」
沈黙。
「……お前のな」
呼吸が乱れる。
「……黙れ……」
「お前は死んだ」
即答。
「俺は死んでない」
「死んだ」
間。
「残りを使っただけだ」
視線が落ちる。
血に染まった手。
傷はない。
「……嘘だ……」
「……死んだ……」
「そうだな」
「……じゃあなんで――」
答えはすぐに来る。
「まだ終わってないからだ」
低い笑い。
「……まだな」
頭を掴む。
「出てけ……!」
「無理だな」
「お前が生きてる理由は――俺だ」
沈黙。
「考えるな」
体を起こす。
ふらつきながら、クレーターを抜ける。
息が荒い。
震える。
「……俺……壊れてきてんのか……?」
即答。
「まだだ」
地面に足がつく。
――音。
足音。
止まる。
顔を上げる。
三人。
遠くに立っている。
こちらを見ている。
その瞬間――
声が、囁く。
楽しそうに。
「……面白い」




