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第3話


ヴォイドは眉をひそめた。


「……最悪だ。」


背後で鳴り響いていたサイレンは、街の喧騒に飲み込まれ、次第に遠ざかっていく。目の前には、細い小道だけが残されていた。


錆びた柵の隙間が、内側へと歪んでいる。まるで昔、何かが無理やりこじ開けたかのように、金属が引き裂かれていた。その先には木々が密集し、頭上では枝が絡み合い、小道を覆い隠そうとしている。


廃れた森。


青空寮への唯一の近道。


ヴォイドはゆっくりと息を吐いた。


やっぱりこうなるか。


初日から、ついてない。


手にした買い物袋を持ち直す。静まり返った通りに、ビニールの擦れる音だけがやけに響いた。引き返せば遠回りになる。もう疲れているのに、さらに二十五分も歩く羽目になる。


小さく息を吐き、足を踏み出した。


――森へ。


踏み入れた瞬間、闇が一気に押し寄せてきた。


街灯の光は木々に遮られ、不規則な影と、わずかに差し込む月光だけが残る。


空気が冷たい。


いや、重い。


肌にまとわりつくような圧迫感。


静かすぎる。


本来なら鳴いているはずのセミの声が、一切ない。


耳に残るのは、足元で葉が砕ける音だけ。


一歩。


パリッ。


一歩。


肩に力が入る。


おかしい。


明らかに、この場所はおかしい。


視線が木々の間をさまよう。どの影も異様に濃く、幹の隙間には何かが潜んでいるように見える。


袋を握る手に、無意識に力がこもった。


……なんでこんなに静かなんだ?


奥の方で、枝が軋む音がした。


ヴォイドは足を止める。


一瞬、呼吸が止まった。


落ち着け。


風だ。ただの風。


――それでも。


嫌な感覚が消えない。


首筋にまとわりつく、圧迫感。


見られている。


はっきりと、そう感じる。


見えない何かが、ずっとこちらを追っているような。


ヴォイドは喉を鳴らした。


「なんだよ……これ……」


「……見られてる」


森は、何も答えない。


ただ、沈黙だけが重く沈んでいく。


もう一歩、踏み出した。


その瞬間――


空気が裂けた。


黒い影が、目の前をかすめる。


ほんの一瞬。


何も起きない。


――次の瞬間。


痛み。


熱。


鈍い音と共に、刃が木に突き刺さった


頬を、血が伝う。


ヴォイドは動けなかった。


木が、ただ割れたわけじゃない。


腐っていく。


衝撃点から黒い筋が広がり、樹皮が縮み、崩れ落ちる。まるで命そのものを吸い取られているかのように。葉は地面に落ちる前に枯れ、砕けた。


頬に手を当てる。


指の隙間から血が滴る。


「……なんだよ、これ……」


声はかすれていた。


ゆっくりと。


恐る恐る。


振り返る。


影が、動いた。


――何かが、いる。


一歩、前へ出てくる。


背が高い。


異様に高い。


木々の間から現れたのは、歪な人型。


体は不揃いで、皮膚は内側の何かを無理やり押さえつけているように張り付いている。


顔には何もない。


ただ一つ――


裂けたような笑みだけが、そこにあった。


異常なほどに広い。


本来の形を無視して、無理やり引き伸ばされたような口。


それが、首を傾げる。


腕が、ねじれる。


骨と肉が軋みながら組み替わり、巨大な刃へと変形する。


黒い霧が、刃先から滴る。


ヴォイドは後ずさる。


足がもつれる。


「……なんだよ、あれ……」


答えはない。


ただ、距離が詰まる。


森が、さらに静まり返る。


化け物が腕を持ち上げた。


だが――形が定まらない。


刃。


鉤。


鋸。


棘。


形が、狂ったように切り替わり続ける。


視界が追いつかない。


「な……?」


――止まった。


そして、振り下ろされる。


空気が悲鳴を上げた。


斬撃が、弾けるように放たれる。


無数の黒い刃が、空間そのものを引き裂いた。


ヴォイドは反射的に飛び退く。


足がもつれ、地面に叩きつけられた。


直後――


バキッ。


背後の木々が裂ける。


黒く変色し、朽ちていく。


森そのものが、侵食されていく。


息が詰まる。


呼吸が速い。


「……なんなんだよ……」


刃が霧に溶け、腕へと戻る。


再び形を変える。


巨大な刃。


それでもなお、安定しない。


化け物が一歩、近づく。


ガリッ。


――動けない。


逃げろ、と頭では分かっている。


なのに、体が言うことを聞かない。


動け。


動け。


動け。


指先だけが、震える。


また一歩。


ガリッ。


近い。


近すぎる。


心臓が暴れる。


呼吸が詰まる。


なんで動けない――!?


刃が持ち上がる。


月光が、歪んだ刃をなぞる。


視界が揺れる。


だめだ――


いや、いや、いや……


体が、わずかに下がる。


遅い。


遅すぎる。


化け物が、こちらを見ている。


刃が振り上げられる。


「くそっ……!」


その瞬間、体が弾けた。


無理やり立ち上がる。


足が震える。


痛みが走る。


でも――


もう、目の前にいる。


刃が落ちる。


考える暇もない。


両手で受けた。


あり得ない選択。


それでも。


止めた。


一瞬だけ。


骨と皮膚が軋む。


限界まで力を込める。


歯を食いしばる。


――だが。


押し潰される。


一瞬で。


腕が崩れる。


そのまま――


吹き飛ばされた。


体が木に叩きつけられる。


肺の空気が抜ける。


血を吐く。


地面に落ちる。


視界が揺れる。


暗くなる。


――ドクン。


心臓が跳ねる。


意識が戻る。


立て。


立て。


無理やり体を起こす。


走れ。


それだけを考える。


刃が振り下ろされる。


横に転がる。


木が裂ける。


振り返らない。


走る。


ただ走る。


どこでもいい。


逃げろ。


血が落ちる。


足跡が赤く染まる。


呼吸が壊れる。


足がもつれる。


それでも走る。


――限界。


転ぶ。


地面に叩きつけられる。


痛み。


息が詰まる。


起きろ。


動け。


腕が震える。


力が入らない。


それでも。


這う。

土を掴む。

引きずる。

――進む。


――後ろから。


ガリッ。


ガリッ。


ガリッ。


来る。


ゆっくりと。


確実に。


逃げられないと、分かっている動き。


なんで俺が……!


くそ……

くそ、くそ、くそ……


無理だ……


ここで死ぬわけにはいかない!


「こ、これは現実じゃない……!」


「死にたくねえ……!」


刃が、ゆっくりと振り上がる。


逃げられる距離じゃない。


分かっているのに――


体が、動かない。


視界の端で、あの“笑み”が歪む。


楽しんでいる。


完全に。


――貫かれた。


衝撃。


理解が追いつかない。


次の瞬間。


激痛。


体が跳ねる。


血が噴き出す。


止まらない。


視界が崩れる。


笑っている。


あれが。


見ている。


心臓が鳴る。


ドクン。


ドクン。


ドクン。


――弱くなる。


指が動く。


嫌だ。


こんな終わり方。


「……俺は……」


声が出ない。


「……死にたく、ない……」


土を掴む。


しがみつく。


離したくない。


消えたくない。


手を伸ばす。


何もない。


それでも。


掴もうとする。


ただ一つ。


その思いだけが、残る。


――死にたくない。


視界が消える。


森が沈む。


意識が落ちる。


唇が、かすかに動く。


……これで――


終わりなのか……?




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