第2話
朝のチャイムが鳴り響く。
青空高校は、一気に騒がしくなった。
生徒たちが門から溢れ出し、声が重なり、笑い声が廊下に反響する。ロッカーの扉がバタンと閉まり、靴が床を擦る音が続く。
こんな朝っぱらから、よくこんな元気があるもんだ。
ヴォイドも流れに乗って校内へ足を踏み入れたが、人混みの中でふと足を止めた。
「……ああ。これは間違いだったな」
首の後ろをこすりながら、周囲を見回す。
人が多すぎる。
うるさすぎる。
みんな、ちゃんと目的地がある顔をしてる。
ヴォイドだけが違った。
スマホを取り出し、時間割を睨む。
「……2階か。まあ、だろうな」
ポケットに突っ込み、人混みをかき分けて歩き出す。
誰かにぶつかり、別の誰かに行く手を塞がれる。
小さく息を吐いた。
初日から帰りたい。最高のスタートだ。
角を曲がった瞬間――
正面から誰かにぶつかった。
本の山が傾く。
止まる。
少女は、何事もなかったかのように本を持ち直した。
ヴォイドはわずかに背筋を伸ばす。
「悪い。気づかなかった」
少女が顔を上げる。
鋭い目。
まっすぐな視線。
愛想はない。
ヴォイドは軽く本を指さした。
「落ちてないし……なかったことにしとくか」
少女は舌打ちした。
「前見て歩け」
――一瞬だけ。
少女の視線が、わずかに止まる。
何かを測るように。
だが、すぐに逸らされた。
「ああ、気をつける」
彼女はそれ以上何も言わず、視線だけ残して通り過ぎていった。
あっけない。
ヴォイドはその背中を少しだけ見送る。
……なんだったんだ、今の。
数分後。
まだ歩いている。
まだ探している。
完全に迷った。
2-A……左か? 右か?
なんでどの廊下も同じに見えるんだ……
あるドアの前で足を止めた。
「ここだろ」
スライドドアを開ける――
凍りついた。
低学年の生徒たちが整然と並び、こちらをじっと見ている。
沈黙。
ヴォイドはまばたきをした。
「……違った」
ゆっくりドアを閉めながら呟く。
「方向音痴か、俺」
教師が立ち上がる。
「ちょっと待て――!」
ドアが閉まる。
ヴォイドはしばらくその場に立ち尽くした。
息を吐く。
「最高だな。初日から迷子。完璧すぎる」
「なんで階段が三つもあるんだよ……」
「設計したやつ、正気かよ」
認めたくないくらいの時間を彷徨った末――
また別のドアの前で止まる。
「……よし。ここだ」
一瞬の沈黙。
「ここも違ったら、帰る」
ドアを開けた。
きしむ音。
教室が静まり返る。
視線が、一斉に向けられる。
ヴォイドは入り口で立ち止まった。
……なんでそんな見るんだよ。
教壇の教師が微笑む。
「はい、静かに」
ざわめきが収まる。
「今日、転校生が来ています」
手招きされる。
「ヴォイド・カズキ君です。今日から2年A組に入ります」
ざわめきが広がる。
「ヴォイド……?」 「変な名前」 「偽名じゃね?」 「本名なのか?」
ひそひそ声が重なる。
ヴォイドは肩の力を抜いた。
「……ああ。よろしく」
気まずい拍手。
その時――
視線が止まる。
窓際。
腕を組み、気だるそうに座っている。
あの少女だ。
さっきの。
同じクラス。
彼女もすぐ気づいた。
一瞬だけ視線が合う。
鋭く、冷たい。
そして――逸らされた。
最初から存在していなかったかのように。
ヴォイドは小さく舌打ちした。
チッ。初日からこれかよ。
「後ろの空いてる席に座って。窓際ね」
列の間を歩く。
やけに足音が響く気がした。
足が止まる。
その席は――
彼女の真後ろ。
……マジかよ。
椅子に腰を落とした。
彼女は反応しない。
振り返りもしない。
完全に無視。
「よお」
横から声。
ちらりと見る。
赤毛の男がニヤリと笑っている。
「新入りだろ? 俺レン。レン・タケル」
いきなり背中を叩いてくる。距離感がおかしい。
「よろしく」
ヴォイドはまばたきした。
「ヴォイド」
一瞬の間。
レンの笑みがさらに深くなる。
「いいねえ、そのノリ」
通路の向こう。
黒髪の生徒が静かに座っている。
顔を上げず、ただペンを走らせている。
――だが、一瞬だけ。
ペン先が止まった。
わずかに。
本当に、わずかに。
正確で、無駄がない。
反応もない。
それでも――
妙に気になった。
静かすぎる。
授業が始まる。
チョークの音。教師の声。
ページがめくられる音。
レンのくだらない囁き。
ヴォイドはわずかに身じろぎした。
その時――
背筋に寒気が走る。
寒さじゃない。
恐怖でもない。
ただ。
何かがおかしい。
体が勝手に強張る。
見られている。
後ろじゃない。
前でもない。
それでも確かに――
見られている。
顔を上げる。
教室はいつも通り。
教師が板書し、生徒が聞き、レンがまだ喋っている。
何も変わらない。
なのに。
消えない。
静かで、重たい違和感。
ヴォイドはゆっくり息を吐いた。
……寝不足だろ。
視線を落とし、無理やりペンを動かす。
感覚は薄れていく。
――いや、無視しているだけかもしれない。
ふと視線が動く。
止まる。
黒髪の生徒。
変わらず、ノートに向かっている。
ペンを走らせる手は一定で、迷いがない。
こちらを見ている様子はない。
最初から――ずっと。
何も、おかしくない。
……なのに。
時間が這うように過ぎていく。
授業の内容は頭に入らない。
机に差し込む日差しだけが、やけに現実感を持っている。
……初日からこれか。
ヴォイドは息を吐いた。
めちゃくちゃだ。
終業のベル。
一気に騒がしくなる教室。
椅子の音。カバンの音。
生徒たちが流れ出ていく。
「おい、ヴォイド!」
レンが身を乗り出す。
「放課後ゲーセン行かね? 初日恒例ってやつ」
答える前に――
椅子がきしむ。
「あんたさ」
あの少女が立ち上がる。
腕を組み、冷たい目で睨む。
「授業終わっただけで騒ぎすぎ。うるさい」
視線がヴォイドへ。
「巻き込まないで」
レンが苦笑する。
「え? いや、ただ誘ってるだけだろ」
空気が張り詰める。
ヴォイドは立ち上がった。
「今日はいい。用事ある」
カバンを肩にかける。
レンが肩を落とす。
「マジかよ……初日で振られた……」
通路の向こう。
黒髪の生徒が動く。
静かに本をまとめ、立ち上がる。
その視線が――
一瞬だけヴォイドを捉えた。
鋭い。
測るような目。
そして何も言わず、出ていった。
ヴォイドは眉をひそめる。
……なんだあいつ。
教室を出る。
人混みが流れていく。
声がぼやける。
だが――
あの感覚が。
また、かすかに戻る。
ヴォイドは何もなかったように歩き続けた。
校門を出る頃には、空は薄暗くなっていた。
オレンジが灰色に溶けていく。
背後の喧騒が遠ざかる。
「……やっとか」
肩をすくめる。
体が重い。
人が多すぎた。うるさすぎた。
初日はやっぱりクソだ。
寮のドアを開ける。
中は静かで、まだ生活感もない。
ベッド。机。小さな冷蔵庫。
ヴォイドはカバンを椅子の横に放り、冷蔵庫を開けた。
……
何もない。
しばらく見つめる。
「……マジかよ」
扉を閉める。
戸棚を開ける。
空っぽ。
カップ麺すらない。
ヴォイドは顔を覆った。
「……マジで食い物買い忘れてたのか俺」
「……最高だな」
ため息。
ポケットから財布を取り出す。
中身を確認する。
「……まあ、足りるか」
数分後。
自動ドアが開く。
軽いチャイムが鳴る。
コンビニの中は明るく、静かだった。
妙に普通だ。
ヴォイドはカゴを取り、適当に商品を放り込んでいく。
おにぎり。カップ麺。卵。
適当でいい。
飲み物コーナーで手を止める。
缶コーヒーを取る。
「これでいいか」
レジ。
店員は顔も上げずにバーコードを通す。
「1280円になります」
ヴォイドは支払い、袋を受け取る。
「どうも」
外に出る。
夜はもう完全に落ちていた。
街灯が淡く光る。
ヴォイドは缶コーヒーを開け、一口飲む。
「……マシだな」
歩き出す。
袋が軽く揺れる。
普通の夜。
静かな帰り道。
少しだけ、落ち着く。
その時――
赤と青の光が、前方で点滅していた。
人だかり。
規制線。
救急車。
ヴォイドは足を止める。
少しだけ近づく。
ただ、見るだけ。
車が二台。
一台は横転。
もう一台は壁に突っ込んでいる。
ガラスが散乱している。
だが――
違和感はそこじゃない。
切断面。
車体の側面が、一直線に“切られている”。
不自然なほど綺麗に。
まるで事故じゃない。
何かに“斬られた”みたいに。
ヴォイドは目を細めた。
「……なんだよ、これ」
救急隊が負傷者を運び出す。
警官たちは小声で話している。
理解できていない顔。
誰も、説明できていない。
ヴォイドはさらに一歩近づく。
「……普通の事故じゃねえだろ、これ」
警官は面倒そうに手を振る。
「下がってくれ」
ヴォイドは動かない。
「……原因、分かってんのか?」
一瞬の間。
「……調査中だ」
――つまり、完全にお手上げってことだ。
ヴォイドは小さく舌打ちした。
前方の道は完全に塞がれている。
「……マジかよ」
疲れが一気に増す。
「なあ、青空高校戻るにはどうすりゃいい?」
警官が道を指さす。
「そっちを回れ。ぐるっと回れば繋がる」
「……どれくらいだ」
「20分から30分」
沈黙。
心が死んだ。
「……近道ならある」
背後から声。
ヴォイドは振り返る。
いつの間にか、老人が立っていた。
静かに。
動かずに。
最初からそこにいたみたいに。
「青空高校に戻るんだろ?」
「……ああ」
老人は暗い脇道を指す。
「そこを抜ければ早い」
警官が即座に遮る。
「やめとけ。整備されてない。危険だ」
老人は笑った。
「何でも安全である必要はない」
ヴォイドは二人を見る。
苛立つ警官。
静かな老人。
ため息。
「……30分か」
暗い道を見る。
遠回りの道を見る。
肩が落ちる。
「……いや、やめとく」
袋を持ち直す。
ビニールが静かに鳴る。
「おい、坊主――」
遅い。
ヴォイドはもう歩き出していた。
背後の光が、ゆっくり遠ざかっていく。




