第九話 残された言葉
ディアルが手を離すと、白い魔獣は名残惜しそうに頭を上げた。
近くで見ると、やっぱり大きい。頭に生えた一本角も、足元の爪も、そのままだ。けれど、真っ白なたてがみから電気が弾けることは、もうなかった。
ディアルが一歩動く。
魔獣も一歩ついていく。
ディアルが止まる。
魔獣も隣で止まった。
「本当についてくるね」
「そうだな」
俺が横から手を伸ばすと、白い鼻先が指の匂いを確かめた。少し待ってから頭に触れる。逃げない。
指をたてがみへ入れると、思った以上に深く埋まった。
「おお……」
これはいい。
「わたくしも」
アリスが隣に並び、同じように手を伸ばした。
魔獣はその手を一度見て、ディアルの反対側へ顔を向ける。
アリスの手が、何もないところで止まった。
「どうしてですか」
「今はディアルがいいんじゃない?」
「フィルは触っているではありませんか」
「それは、そう」
理由を聞かれても、俺にも分からない。
アリスが頬を膨らませる横で、魔獣はディアルの手へ鼻先を押しつけた。
◇◇◇
広場の周りを確かめていたイーサックが戻ってきた。
「里の者にけがはない。家も無事だ」
「こちらも問題ございません」
アリソンが障壁を解く。
広場には砕けた岩壁や、爪で抉られた地面が残っていた。二つの泥沼も、そのままだ。
さっきまで夢中だったけれど、改めて見るとひどい有様だ。人や家まで巻き込まずに済んだのは、周りを守ってくれていた三人のおかげだった。
「ありがとうございます」
「礼より先に、次はもう少し周りも見ろよ」
イーサックが俺の頭へ手を置く。
「さて。あちらも確かめねばならんな」
ハーバード様が、大岩を見上げた。
まだ浮いている。
模様を薄暗く光らせた岩の下には、暗い入口が開いたままだった。
「まず、わしらが中を見る。少し待っておれ」
ハーバード様が入口へ向かい、イーサックとアリソンが続く。
待っている間、ディアルが魔獣の首元を撫でていた。アリスはその手を、少し羨ましそうに眺めている。
ほどなく、入口からイーサックが顔を出した。
「入っていいぞ。足元には気をつけろ」
中は外よりひんやりしていた。
アリソンが灯した魔法の火が、短い石の通路を照らしている。奥ではハーバード様が待っていた。
俺たち三人にウルスナとカリーナが続き、最後にイーサックが入る。白い魔獣も、ディアルの隣を歩いてきた。
通路の先は、小さな部屋になっていた。
壁の表面がところどころ剥がれ、床には細かな欠片が落ちている。
「何か描いてあります」
アリスが指さした先に、色の残った壁画があった。
白い髪を持つ人物が、片腕を前へ向けている。その先から伸びた光は、ひび割れを越えたところで途切れていた。
何かを攻撃しているように見える。
そばに描かれているのは、樹の幹と枝の一部だ。隣の人物と比べると、途方もなく大きい。
俺は壁へ近づき、光の先を目で追った。
けれど、その先は表面ごと欠けていた。何を攻撃しているのか、相手がどんな姿だったのかも分からない。
「白い髪……」
つい、小さく呟いた。
ウルスナとカリーナも壁画を見上げていた。二人とも、何も言わない。
ハーバード様が俺たちへ振り返った。
「伝承については知っているな」
「はい。白い髪を持つ男が神を殺し、この世に災いをもたらした」
俺が答えると、ハーバード様が頷く。
「その災いって、もう終わったんですか?」
「大地が裂け、街が失われるほどの災いじゃったと伝わっておる。じゃが、それがいつまでも続いたわけではない。人々は長い年月をかけ、街を建て直し、暮らしを取り戻したそうじゃ」
「じゃあ、今はもう何も?」
「何も残らんわけではない。その時にできたとされる深い谷や、人の戻らぬ廃墟もある。そして、白い髪への恐れもな」
ハーバード様の視線が、俺の髪へ一度向いた。
「もっとも、わしも伝えられた話を知っておるだけじゃ。あの絵が何を描いたものかは、まだ分からぬ」
俺も壁画へ目を戻した。
白髪の男が災いを起こした。その話なら、何度も聞いたことがある。
けれど、今ここに残っているのは、相手すら分からない絵だった。
「こちらにも、文字がありますよ」
アリスが壁際に屈み込んでいた。
その前に、低い石碑がある。表面には埃が積もっていたが、深く刻まれた文字は残っていた。
入口の大岩にあった、読めない文字とは形が違う。少し崩れた形を目で追えば、俺にも読むことができた。
『白き髪を憎むな、たとえ再び刃を向ける日が来ようとも。』
俺は、もう一度最初から読んだ。
読み間違いではなかった。
「白い髪を、憎むな……?」
さっき聞いた話と、目の前の文字を交互に考える。
神を殺し、街を壊すほどの災いをもたらした男。
その話を知っていて、この言葉を残したのだろうか。
「ハーバード様。これは、誰が書いたんですか?」
「分からぬ。誰へ向けた言葉なのかもな」
ハーバード様も石碑の前に屈み、端まで確かめた。書いた人の名前らしいものは、見当たらなかった。
ディアルが俺の隣に立つ。
「何か分かる?」
「いや」
ディアルも、刻まれた文字をじっと見ていた。
その足元で魔獣が座り、長い尾を体へ寄せる。
俺は顔を上げ、壁画と石碑を見比べた。
同じ白い髪の話なのだろうか。それとも、別の誰かへ向けた言葉なのか。
分からないことばかりだった。
ただ、憎むなという文字だけは、欠けずに残っている。
「ここは閉めておこう」
立ち上がったハーバード様が言った。
「岩を動かした途端に、あの騒ぎじゃ。確かめもせず、人を入れるわけにはいかん」
俺たちは通路を戻り、外へ出た。
広場へ差し込む日差しに、思わず目を細める。
全員が出たことを確かめてから、イーサックが入口の前へ立った。土と岩がせり上がり、暗い穴を塞いでいく。
大岩は、その上で浮いたままだった。
「フィル。行くぞ」
ディアルに呼ばれ、俺は歩き出した。
白い魔獣がその隣に並ぶ。アリスはまだ諦めていないらしく、反対側からそっと手を伸ばしていた。
俺は一度だけ、塞がれた入口を振り返った。
たとえ再び刃を向ける日が来ようとも。
そこまで書いて、それでも憎むなと言ったのは、誰だったのだろう。
白き髪を憎むな…
下の☆ボタンで応援していただけたら幸いです!




