第二話 黒髪の王子
草むらの向こうで、何かが息をしている。
荒く、低い音だった。
枝がまた折れる。
籠の縁の向こうから、大きな影が一つ、ゆっくりと顔を出した。
犬にも狼にも見えない。口から突き出した牙は長く、濁った目がまっすぐ俺を見ている。
影は一つではなかった。
草が左右に分かれ、その奥にも同じような姿が動いている。
こちらは、生まれたばかりの赤子が一人。
ずいぶん公平な勝負だ。
一体が右へ回り、別の一体が左から籠へ近づく。
獲物が逃げられないと分かっているらしい。飛びかかってくるのではなく、逃げ道を塞ぐようにゆっくり距離を詰めてくる。
逃げ道なんて、最初からない。
遠くから聞こえる馬車の音は、まだ小さい。
もう一度泣いて知らせようとした。
「あ……」
かすれた声しか出ない。
籠の中で手足を動かしても、布が揺れるだけだった。逃げることも、身を隠すこともできない。
せめて籠の外へ転がり出られないかと体をひねる。頭さえ持ち上がらず、背中が少しずれただけで終わった。
三十三歳の頭があっても、使える体がこれではどうにもならない。
先頭の一体が鼻を鳴らす。
湿った息が、頬に届いた。
大きな前脚が籠の縁へかかる。
重みで籠が傾き、背中が底へ押しつけられた。
来るな。
やめてくれ。
牙の並んだ口が開く。
嫌だ。
今度こそ、まだ何も始まっていない。
名前を一つもらっただけだ。
何でもいいから、ここからいなくなれ。
そう思った瞬間、胸の奥にあった何かが、一度に全部引き抜かれた。
音も光も確かめる前に、俺の意識は消えた。
◇◇◇
林の一角が白く光った。
馬上のアダムスは、即座に手綱を引いた。
直後、轟音が街道を打つ。
風が木々を大きく揺らし、離れた場所の地面が突き上がった。水が砕けるような音と、雷鳴まで重なる。
どれが先だったのか、判断できる間はなかった。
馬がいななき、馬車が大きく揺れる。
「馬を抑えろ! 馬車から離すな!」
護衛の騎士たちが馬を押さえ、馬車を囲む。
外交を終え、王都へ帰る途中だった。車内には第一王子マルティンと、その弟ディアル、そしてディアル付きのアリソンがいる。
マルティンの騎士団を預かる身として、正体も分からぬ異変へ主人を近づけるわけにはいかない。
「アダムス団長」
扉の内側から、十六歳のマルティンが呼ぶ。
「ただいま確認します。殿下方は中に」
「分かった」
返事は短い。扉が開くこともなかった。
馬車を守る騎士を残し、アダムスは二人を連れて林へ入った。
焦げた臭いがする。
それだけではない。濡れた土の臭いと、雷の後に残る鼻を刺すような空気が混じっていた。
鳥の声が消えていた。
聞こえるのは、葉から落ちる水滴と、何かが燃える小さな音だけだ。
すぐに、五体の魔物が倒れているのが見えた。
街道を守る騎士なら、問題なく対処できる相手だ。
だが、一体はまだ炎に包まれ、その隣では水の塊がほどけ、傷のない身体が濡れた地面へ落ちた。無数の切り傷を刻まれた死骸の奥には、土の槍に貫かれたものがある。残る一体には、炎とは違う枝分かれした焦げ跡が走っていた。
アダムスは剣を握り直した。
「術者を捜せ。上も見ろ。罠に触れるな」
命令を受け、騎士たちが周囲へ散る。
アダムスは倒れた魔物の間を慎重に進んだ。
その先に、大きな木がある。
根元へ置かれた籠を見た瞬間、足を止めた。
布の隙間から、小さな手が見えている。
「子供……?」
同行した騎士が呟く。
アダムスは片手で制し、籠の周囲を確かめた。目に見える仕掛けはない。魔法の痕跡は魔物の倒れている側に集中している。
布を少しずつめくる。
中にいたのは、生まれて間もない赤子だった。
籠の布は乱れ、片側が土に沈んでいる。そのすぐそばに魔物の足跡があり、縁には新しい爪痕が残っていた。
目は閉じられ、呼びかけても反応しない。
すぐに首元へ指を当てる。
脈はある。呼吸もしている。
だが、頭に生えた髪を見て、アダムスの手が止まった。
白い。
雪のように白い髪だった。
そばにいた騎士が息を呑み、剣を握り直す。アダムス自身も、背筋に冷たいものが走るのを止められなかった。
もう一人の騎士も声を失い、籠から半歩離れた。
それでも、籠にいるのは意識を失った赤子だ。
「剣を下げろ」
アダムスは命じた。
「しかし、団長。この魔物は」
「この状況を、この赤子が――」
そこまで口にして、止める。
あり得ないと切り捨てるには、ほかの術者が見当たらない。だが、見ただけで事実と決めることもできなかった。
「周囲の確認が先だ。馬車へ報告を」
周囲を確かめた騎士が戻った。近くに潜む者も、別の魔物も見つからない。
籠のそばには人の足跡もあった。だが、それが赤子を運んだ者のものか、先ほどの異変に関わる者のものかまでは分からなかった。
アダムスは馬車まで戻り、マルティンへ状況を伝えた。
「赤子が?」
「はい。息はありますが、意識がありません。術者や罠の有無は引き続き確認させます」
「まずは助ける。アリソン、診てくれ」
「承知しました」
マルティンの判断は早かった。
アダムスが先導し、騎士たちに守られながらマルティンとアリソンが籠のそばへ向かう。
三歳のディアルも、その後ろを歩いていた。
幼い王子は先ほどまで馬車の中で一言も発していなかった。艶のある黒髪の下から、周囲の木々と倒れた魔物を順に見ている。
「ディアル殿下は、馬車でお待ちください」
アダムスが告げると、ディアルは足を止めた。
「危険ですか」
「まだ、すべてを確認できたわけではありません」
「ここで待ちます」
ディアルは兄へ視線を向けた。マルティンが頷くと、それ以上は近づかなかった。
アリソンが籠の横へ膝をつき、赤子の呼吸と手足を調べる。
「外傷は見当たりません。体は冷えていますが、呼吸は安定しています。早く馬車へ運びましょう」
籠の中の布を直した時、小さく折られた紙が落ちた。
アリソンが拾い、開く。
「名前と生年月日が書かれています」
「名は?」
マルティンが尋ねる。
「フィル、と」
ディアルが、その名前に反応した。
「フィル」
確かめるように口にし、籠へ一歩近づく。
「殿下」
アダムスはその前へ腕を出した。
「生存は確認できました。ですが、白髪です。先ほどの魔法との関係も分かっておりません」
ディアルは止まったまま、籠の中を見た。
目を閉じた赤子は、呼ばれても動かない。
「兄上」
ディアルがマルティンを見上げた。
「この子を連れて帰ります」
「ひとまず馬車へ乗せ、治療は受けさせる。保護した後のことも、俺が手配する」
「王宮までです」
三歳の声は小さかったが、聞き返す必要はなかった。
マルティンはすぐに答えず、白い髪を見つめた。
「昔から、白髪の男が神を殺したという伝承がある」
騎士たちの空気が固くなる。
「この子を王宮へ連れ帰れば、反対される。父上がお許しになるとも限らない」
ディアルは黙って聞いていた。
アダムスも口を挟まない。
「どこへ預けても、この髪は変わりません」
ディアルは、籠の前から退いた騎士へ一度だけ目を向けた。
「なら、俺のところへ連れて帰ります」
長い理由は続かなかった。
マルティンは三歳の弟と、意識のない赤子を交互に見る。
しばらく黙った後、布の上に出ていた赤子の手へ目を留め、アリソンに包み直すよう促した。
やがて、静かに頷いた。
「分かった。連れて帰ろう。父上には俺から話す」
「ありがとうございます、兄上」
「アダムス」
「はっ」
「フィルを馬車へ。警戒は解くな」
「承知しました」
決定が下れば、従うだけだ。
不安が消えたわけではない。あの魔法の術者も、赤子がここにいる理由も分かっていない。白髪を見た騎士たちの緊張も残っている。
それでも、保護すると決めた者を危険にさらす理由にはならない。
アダムスは馬車までの経路を先に確認し、騎士を左右へ配置した。
アリソンがフィルを布ごと抱き上げる。頭と首を支えたまま、ディアルの前へ膝をついた。
「殿下、こちらへ腕を。私が下から支えます」
ディアルは教えられたとおりに腕を出した。
アリソンの手に支えられ、白髪の赤子が黒髪の幼い王子の胸元へ近づく。
フィルは目を覚まさない。
ディアルはその小さな顔を見下ろし、覚えたばかりの名前を呼んだ。
「帰るぞ、フィル」
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