第一話 二度目の始まり
大幅リニューアルです。
死ぬ時は、誰かが手を握ってくれるものだと思っていた。
家族がベッドを囲んで、名前を呼んで、最後に伝えたいことを聞いてくれる。
映画やドラマでは、だいたいそうだ。
現実の俺の左手には細い管がつながり、右手のそばには看護師を呼ぶためのボタンがある。枕元の機械が一定の間隔で音を鳴らしていた。
ベッドの脇の椅子は、空いたままだ。
「連絡しておきたい方はいませんか」
点滴を確かめていた看護師が尋ねた。
今日に入って、これで三度目だ。
「大丈夫です」
「でも、今夜は――」
「俺の寝顔を見ながら朝まで過ごすのも、相当退屈だと思いますよ」
笑ってみせる。
看護師は笑わなかった。
うん。死にかけの患者が言う冗談ではなかったな。
「気が変わったら、すぐ呼んでください」
「ありがとうございます」
看護師が病室を出ていく。扉の閉まる音が、やけに大きく響いた。
二年前に見つかった悪性リンパ腫は、一度は治療が効いた。これならまた働けると思った頃に再発し、良くなっては悪くなるのを繰り返した。
そして三十三歳の今日、もうできる治療はない。
枕元の携帯電話へ目を向ける。
呼ぶ相手が、本当に一人もいないわけではなかった。
じーちゃんとばーちゃん。
本当の祖父母ではない。俺が育った児童養護施設で、みんながそう呼んでいた二人だ。
親のいない俺を食べさせ、学校へ通わせ、悪いことをすれば叱ってくれた。病気になってから、一度だけ見舞いにも来てくれた。
心配そうな二人の前で、俺は「今なら病院から走って逃げられそうだ」と笑った。じーちゃんには馬鹿なことを言うなと叱られたが、大丈夫、治療も効いているからと答えた。
二人はもう若くない。施設には今も子供たちがいる。夜中に電話を鳴らして、ここまで来てもらって、それからどうする。
今さら、あれは全部強がりでしたと言うのも格好が悪い。
「……まあ、いいか」
口にすると、本当に平気になった気がした。
目を閉じる。
息を吸っても、胸の奥まで空気が入ってこない。少し休めば戻ると思ったのに、次の息はもっと浅かった。
右手の指を動かす。
呼出ボタンまで、あと少し。
腕が持ち上がらない。
困ったな。
どうやら、思っていたより早いらしい。
誰かを呼ばなかったのは俺だ。一人で平気な顔をしてきたのも俺だ。
それでも最後くらいは。
本当は、誰かにここにいてほしかった。
「だれか……」
声になったかも分からない。
返事はなかった。
それが、一度目の人生で最後に覚えていることだった。
◇◇◇
うるさい。
次に意識が浮かび上がった時、最初に思ったのはそれだった。
何人もの声が、すぐ近くで重なっている。
しかも、一番うるさいのは俺だった。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
自分の口から、人生で一度も出した覚えのない声が出ている。
いや、人生で一度くらいは出していたはずだ。覚えていないだけで。
止めようとしても止まらない。目を開けているのに、何もかもがぼやけている。腕を動かそうとすれば、小さな手が頼りなく揺れた。脚にも首にも力が入らない。
この体、まるで言うことを聞かない。
手だけを見るなら、どう考えても大人のものではなかった。
死んだはずの三十三歳が、生まれたばかりの赤子になっている。
もう少し順序を踏んで説明してほしい。
もちろん、誰に苦情を言えばいいのかも分からなかった。
体が持ち上げられる。
柔らかな布に包まれた俺を、長い髪の女性が抱いた。
顔には疲れがにじんでいる。それでも俺を見た途端、嬉しそうに笑った。
その笑顔だけは、ぼやけた視界でも分かった。
腕の中は温かかった。
胸に寄せられると、耳元で速い鼓動が聞こえる。女性の指が頬に触れ、それから、そっと頭を撫でた。
部屋の空気が変わった。
誰かが短い悲鳴を上げる。重なっていた声が消え、代わりに衣擦れと、後ろへ下がる足音が聞こえた。
女性も俺の頭を見て、目を見開いている。
どうやら、髪を見られているらしい。
まだ寝癖がつくほど生えていないと思うんだけどな。
重い音を立てて扉が開いた。
入ってきた男が、低い声で何かを言う。
一言も分からない。
どこの言葉なのかさえ分からないまま、男の声だけが強くなった。こちらを――俺の頭を指差し、怒鳴る。
周囲の人たちは息を潜めていた。
俺を抱く女性の腕に力が入る。
彼女は俺を胸元へ隠すように抱き寄せ、男をまっすぐに見返した。そして、震える声で何かを言った。
言葉の意味は分からない。
けれど、俺を差し出そうとしているのでないことは分かった。
男がさらに声を荒らげても、女性は腕を緩めなかった。
やがて男が部屋を出ていく。
扉が閉じた途端、女性の肩から力が抜けた。温かい滴が、俺の額へ落ちる。
泣いている。
彼女は何度も同じ音を繰り返しながら、俺の頭へ頬を寄せた。
意味は、まだ分からなかった。
でも、その声を聞いているうちに、不思議と泣き声が止まった。
◇◇◇
次に目を覚ました時、部屋は暗くなっていた。
小さな灯りの向こうに、昼間の女性がいる。
その前には、フード付きのマントを着た三人が膝をついていた。一人は女性で、ほかの二人は男性に見える。
俺を抱いた女性が、小さな紙片を布の内側へ忍ばせた。落ちないように何度も指で確かめてから、俺を強く抱き締める。
温かい。
昼間よりもずっと強く、苦しいくらいだった。
それなのに、離してほしいとは思わなかった。
女性は俺の額へ唇を当てた。
それからマント姿の女性へ差し出そうとして、途中で腕を止める。
胸元へ戻す。
また差し出し、もう一度止める。
三人は急かさず、頭を下げたまま待っていた。
最後には、俺の体が別の腕へ渡された。
何が起きているのかは分からない。
ただ、離れようとしていることだけは分かった。
元の腕へ戻りたくて体を動かす。けれど、小さな手は布の端を押しただけだった。
女性が俺へ笑いかける。
泣きそうな顔で、何度も同じ音を呼ぶ。
「フィル」
昼間にも聞いた音だった。
「フィル」
彼女の視線は、ずっと俺に向いている。
フィル。
どうやら、それが二度目の俺の名前らしい。
扉が閉じる直前まで、彼女はそこに立っていた。
◇◇◇
それからどれほどの時間が過ぎたのか、俺には分からなかった。
赤子の体はよく眠る。
起きるたび、俺は籠の中にいた。
揺れと一緒に車輪が回る音が聞こえ、外では馬の蹄が地面を打っている。どうやら、三人と一緒に馬車で移動しているらしい。
目が覚めた時に見える顔は、どれも疲れていた。
女性は何度も外を確かめ、男たちは小さな音にも振り向く。馬車が止まっている時に目覚めても、誰かが必ず外の様子をうかがっていた。
楽しい旅ではなさそうだ。
だからといって、事情を聞くこともできない。
「あー」
試しに声を出してみた。
返ってきた言葉は、やっぱり一つも分からなかった。
こちらの語彙が一文字なのだから、会話が成立しないのは仕方ない。
男の一人が、時々、俺の体へ手をかざした。
指先に淡い光が集まり、温かさが染み込んでくる。長く揺られて重くなっていた体が、そのたび少し楽になった。
手品にしては、効き目が良すぎる。
どうやら、ここには魔法があるらしい。
死んで、赤子になって、知らない言葉の世界で魔法を見る。
説明してもらいたいことばかりだ。
ある時、馬車が止まった。
外から強い声が飛んでくる。何人もいる。金属同士がぶつかる音もした。
三人の顔がこわばる。
籠の布が深くかけられ、男の一人がその上へ手を置いた。
俺も静かにしようと息を潜める。
「ふあ……」
赤子の体に期待した俺が悪かった。
馬車の中が静まり返る。
外では短いやり取りが続いた。言葉は分からないが、聞いているだけで喉が乾く。
しばらくして、馬車はまた動き始めた。
けれど、安心する間もなかった。
三人は街道を離れ、馬車を置いて森へ入った。女性が俺の籠を抱え、男たちが前後を歩く。
枝がマントを引っかき、足音が湿った地面へ沈む。
時々、木々の隙間から街道が見えた。そこには、武器を持った人影が立っている。
近づいてはいけないらしい。
それだけは、言葉が分からなくても伝わった。
◇◇◇
空が暗くなり始めた頃、三人は街道脇の林で足を止めた。
マント姿の女性が道を見つめ、それから籠を抱え直す。
木々の間を進み、街道から見える大きな木の下へ俺を運んだ。張り出した枝が屋根のようになっていて、多少の雨なら防げそうだった。
籠が地面へ置かれる。
女性は布の内側へ手を入れ、胸元の紙片を確かめた。俺を包む布も直し、端を握ったまま動かなくなる。
男の一人が声をかける。
女性は顔を上げたが、すぐには立たなかった。
「フィル」
名前を呼び、頬へ指を触れる。
その指が離れた。
女性は立ち上がり、何度もこちらを振り返りながら、二人の男と林の奥へ歩いていく。
「あう……」
待ってくれと言ったつもりだった。
出てきたのは、情けない赤子の声だけだ。
三人の足音が遠ざかる。
戻ってくる気配はない。
胸の内側が、病室で扉の閉まる音を聞いた時と同じように冷たくなった。
また、独りにされた。
そうとしか思えなかった。
前の人生でも、親のいないところから始まった。
二度目の人生なら、今度は家族と一緒にいられるのかもしれない。ほんの少し、そんなことを期待していたらしい。
名前を呼びながら、離すまいと俺を抱き締めていた腕を思い出す。
あれがなくなるのは、嫌だった。
俺は体を起こそうとした。
首が動かない。手足をばたつかせても、籠と布がわずかに揺れるだけだ。
三十三年分の知識があっても、生まれたばかりの体では木の下から一歩も動けない。
それなら、今できることをするしかない。
息を吸い込み、力いっぱい泣いた。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
声は街道へ届いているはずだ。
誰か。
ここにいる。
見つけてほしい。
泣いて、息を吸って、また泣いた。
喉が痛くなっても続けた。泣くことしかできないなら、今日はそれが俺の仕事だ。
やがて声がかすれ、息だけが漏れるようになった。
誰も来ない。
空はさらに暗くなり、冷たい風が布の隙間から入ってくる。
泣き疲れて目を閉じかけた時、遠くから音がした。
馬の蹄。
続いて、車輪が街道を進む音。
誰かが来る。
俺はもう一度泣こうとした。けれど、喉から出たのは小さな息だけだった。
頼む。
気づいてくれ。
遠い車輪の音に耳を澄ます。
その時、すぐそばの草むらで、枝の折れる音がした。
近い。
籠の縁の向こう、見えない暗がりから、荒い息遣いが聞こえる。
助けが来るかもしれない。
けれど、それよりずっと近くに――何かがいる。




