幕間 ヴェルツの決意
ディアルたちがアストールを発つ前夜、ヴェルツはハーバードのもとを訪ねた。
開いた窓から、竹の葉が擦れる音が聞こえていた。
「こんな時間にどうした」
「お聞きしたいことがあります」
ハーバードは手元の杯を置き、向かいの椅子を示した。
ヴェルツは礼をして腰を下ろす。膝へ置いた手を一度握ってから、口を開いた。
「あの魔獣との戦いを、見ていました」
「そうか」
「ですが……何が起きていたのか、ほとんど分かりませんでした」
声にすると、思っていたよりも情けなく響いた。
里へ来たフィルに手合わせを求め、敗れた。以前にはディアルにも負けている。
二人が自分より強いことは、認めていた。
それでも、剣を振り続ければ、いずれはもう少し長く打ち合える。そう考えていた。
「フィル様が刀を振ったのは見えました。でも、刃がどこを通ったのかは追えませんでした。ディアル様の方を見れば、もう別の場所に岩が出ていて……」
思い返しても、浮かぶのは途切れた光景ばかりだ。
砕ける岩。舞い上がる土煙。地面に刻まれた溝。
その間を、二人と魔獣が動いていた。
「いつ魔法を使ったのかも、次に何をするのかも分かりません。目を離さないようにしていたのに、気づいた時には魔獣が泥へ落ちていました」
ハーバードは、途中で口を挟まなかった。
ヴェルツは顔を上げる。
「あの二人は、いつもあのような戦いをするのですか」
「相手次第じゃな。稽古で見せるものが、あやつらのすべてではない」
ヴェルツは膝の上の手を見下ろした。
稽古でさえ、ついていけないことがある。その先に、まだ知らないものがある。
「それでも、二人はまだ幼いです」
低い声が出た。
「あれほど大きな魔獣なのに、誰も止めませんでした。イーサック様も、アリソン様も。怖くはなかったのですか」
「何がじゃ」
「二人が、戻ってこなくなることです」
ハーバードがヴェルツを見た。
その目を受け止めながら、ヴェルツは続ける。
「俺には、飛び出していくのを見るだけでも恐ろしかった。なのに、皆様はすぐに二人の指示で動いていました」
「普段から、あの二人の力を見てきた者たちじゃ。戦えると判断したからこそ、任せたのじゃろう」
「任せる……」
「ただ眺めておったわけではないぞ。危うければ、わしが割って入るつもりでおった」
魔獣が人家の方へ向いた時、広場を横切ったハーバードの姿を思い出す。
あの時は、また誰かが動いた、と目で追うだけだった。
「おぬしは、広場の周りも見たか」
「はい。家は、どこも壊れていませんでした」
あれだけ地面が抉られ、大きな岩が砕けたのに。
戦いの跡を見た時、ヴェルツには、その境目がひどく不思議だった。
「アリソン様の障壁に、何度も石が当たっていました。雷もです。それでも、外へは出てこなかった」
飛んでくるものを見つけるたび、肩が強張った。だが、アリソンの姿に、同じような慌てた動きはなかった。
「あの方は、二人の方を見ていました。飛んでくる石だけを見ていたわけではありません」
「周りを守る役目を引き受けておったからな」
「イーサック様もです。あれほどの岩壁を作って、人家の前から動かなかった。俺には、どちらを見ればいいのかも分からなかったのに」
里にいる間、何度も剣を見てもらった。
踏み込みを直され、構えを崩され、何度打ち込んでも届かなかった。
そのたびに強い人だと思っていた。けれど、剣を教わるだけでは、あの人が何を守れるのかまでは分からなかった。
「俺は二人を見るだけで精いっぱいでした。あの方たちは、何を見て動いていたのでしょうか」
「二人と魔獣、それから守るべきものじゃろうな」
短い答えだった。
ヴェルツはすぐには頷けなかった。
そんなに多くのものを、同時に見る。
自分には追えなかった戦いの中で。
窓の外で、竹の葉が鳴った。
ハーバードが杯を手に取る。ヴェルツは、その指先をぼんやり見つめてから、もう一度顔を上げた。
「アリス様の魔法も、初めて見ました」
「回復か」
「はい。花びらが、傷を治していました」
魔獣が小さくなり、静まった広場へ近づいた時のことだった。
アリスが二人へ手を向けると、桜色の花びらが舞った。
触れたところから傷が癒えていく。ヴェルツがその光景に見入っている間に、フィルは礼を言い、アリスは得意そうに胸を張っていた。
「二人のそばへ行くことにも、迷っていませんでした。俺はまだ、魔獣が動くのではないかと気になっていたのに」
「あの子にとっては、けがをした兄と弟がおったのじゃ」
言われてみれば、それだけのことなのかもしれない。
それでも、自分にはできないことだった。
「フィル様は、いつものように話していました。ディアル様も、あの魔獣の頭を撫でていて……誰も、大騒ぎしていませんでした」
「無事に済んだからの」
「はい。でも、俺には、それも信じられなくて」
ヴェルツはようやく、自分が何に戸惑っていたのかを掴みかけていた。
ディアルとフィルだけが、遠いのではない。
二人の周りにいる者たちも、自分には想像のつかなかったことを、ごく自然に行っていた。
「強いというのは、剣が届かないことだけではないのですね」
ハーバードが、わずかに目を細めた。
「見えるものが増えたようじゃな」
「追えなかったものばかりです」
「何もかも見えたつもりでおるよりは、よほどよい」
ヴェルツは黙った。
胸の奥に残っているのは、恐ろしさだけではなかった。
あの時、どこを見ればよかったのか。どうすれば、あれほど速く動けるのか。
聞きたいことが、まだいくつもあった。
「悔しいです」
「うむ」
「ですが、見なければよかったとは思いません」
ハーバードは、しばらくヴェルツの顔を見ていた。
そして、静かに頷いた。
◇◇◇
礼を言って外へ出ると、夜風が頬に冷たかった。
明日になれば、あの一行は里を発つ。
ヴェルツは家へ向かって歩いた。
何度も通った道だ。暗くても、曲がり角に迷うことはない。稽古を終えた日は、いつもこの道を通って帰った。
家の窓に、明かりが見えた。
戸口で一度足を止め、腰の剣を見下ろす。
柄には、握り続けて馴染んだ跡があった。
ヴェルツは顔を上げ、扉を開けた。
母がこちらを向いた。卓についていた父も顔を上げる。
二人の前まで進み、背筋を伸ばした。
「父さん、母さん。俺、明日この里を発つ」




