3話 メイド兼食事としての生活 初日
朝になりました。
薄く差し込む光に目を細めながら、私はゆっくりと身を起こします。
昨夜の出来事が夢ではないことを、嫌でも思い知らされながら。
今日から始まるのです。
あの男の——吸血鬼のメイド兼食事としての生活が。
貴族令嬢であり、王子殿下の婚約者であるはずの私が、どうしてこんなことに――。
そんな思いが胸を過ぎらないわけではありません。
けれど相手は吸血鬼。
この森の奥深くにある屋敷から逃げ切れるとは、とても思えない。
もし失敗して、捕まってしまったら——。
そのときに何をされるのか、想像するだけで背筋が冷たくなりました。
だから今は従うしかない。
大丈夫。きっといつか、この屋敷から出られる機会は訪れるはずです。
その時まで生き延びる。
そう心に決めて、私は身支度にかかりました。
用意されていたメイド服に袖を通し、髪を整える。
鏡に映る見慣れない姿に、ほんの一瞬だけ戸惑いを覚えながらも、部屋を出ました。
向かう先は厨房。
主人である吸血鬼は血以外を口にしない。
ではなんのために向かうのか。
自分の食事を作るためです。
「美味い血を保つには、健康的な食事が不可欠だ」
彼はそう言って、私に料理の手ほどきをしました。
他生物に美味しく食べてもらう肉体を作るための食事——。
今の私は、さながら家畜です。
そうして出来上がったものは——。
真っ黒な物体でした。
皿の上に鎮座するそれは、もはや料理とは呼べない何か。
焦げた匂いだけが、やけに主張してきます。
「……おい。俺は野菜のソテーを作れと言ったはずだが。どうして炭の塊が出来上がる?」
呆れを隠そうともしない声音に、肩がびくりと跳ねました。
「も、申し訳ありません。言われた通りにしたつもりなのですが……」
慌てて形だけの謝罪をしたものの、自分でも何がどうしてこうなったのか分からないのです。
火加減も、手順も、教わった通りにやったはずなのに。
ですがこうなるのも仕方のないことでしょう。
私はこれまで一度も料理などしたことがなかったのですから。
貴族の娘として育ち、厨房に立つ機会など、与えられたことすらありません。
「はぁ……もういい。見てられん、俺がやる。お前は食堂で待っていろ」
深いため息とともにそう言い放たれ、私は小さく「はい」とだけ返して厨房を後にしました。
しばらくして、彼が料理を運んできました。
テーブルに並べられたのは仔牛のローストと、色鮮やかな野菜のソテー、そして香草の香りがふわりと立ち上るポタージュ。
どれも目にも美しく、焼き色は均一で艶やか、立ち上る香りは食欲を大変そそりました。
「残さず全部食えよ」
ぶっきらぼうに言われ、ナイフとフォークを手に取ります。
まずはローストから。
見た目は普通ですが、もしかしたら何か変な物が入っているのでは。
懸念を抱きながら恐る恐る一口。
口に入れた途端、目を見開きました。
柔らかく焼き上げられた仔牛の肉は、噛むほどに旨味が広がっていきます。
続いてソテーとポタージュもいただきました。
野菜はそれぞれの甘みを最大限に引き出されており、ポタージュは舌に優しく絡みつき、香草の風味が後を引いて――。
どれも実家のシェフが作る料理と遜色のない、いえ、それ以上かもしれないほどの完成度でした。
驚きと感動に押されるまま、気付けば夢中で食べ進めていて。
あっという間に、皿の上は空になっていました。
「――大変美味しゅうございました」
ナプキンで口元を拭いながら告げると、彼は特に感情を見せることなく――。
ドンと、机の上に大きな箱を置きました。
中にはぎっしりと詰め込まれた大量の本。
「ご満足いただけたようで何より。それじゃあ、早速仕事に取り掛かってもらう。まずはこれを図書室に片付けろ。その後は廊下の掃除だ」
「かしこまりました」
私は形だけの素直な了承を口にすると、箱を抱え上げました。
そして箱の重みに僅かに身体をよろめかせながら、図書室へと向かったのです。
◇
重たい荷物を抱えながら階段を上るのはとても骨が折れました。
辿り着いた図書室は、紙とインクの匂いが漂っていて、どこか落ち着く空間でした。
私はひとまず、近くの机の上に箱を置きます。
その拍子に――。
ぱさり、と。
一冊の本が箱の中から滑り落ち、床へと落ちてしまいました。
「あ……」
慌てて拾おうと手を伸ばした、そのとき。
ふと、表紙に書かれたタイトルが目に入ります。
『囚われ姫の刺激的な新生活』
私は読書が好きで、これまで多くの本に触れてきましたが……この題名には、どうにも覚えがありません。
気付けば私はその本を手に取り、適当なページを開いていました。
————————————
『や、やめて……何を……っ』
『反抗的お姫様にはお仕置きをしなければな』
男は手にしていた鞭を振るい、しなる音とともに、姫の身体を打ち据えた。
バシン、バシンと打たれるたびに、姫の口から嬌声にも似た悲鳴が上がる。
布が裂け、白い肌には次第に赤い線が刻まれていく。
破れた服の隙間からは乳房が露わに——。
————————————
バンッ!! と私は思い切り本を閉じました。
あまりにも勢いよく閉じたせいで、大きな音が静まり返った図書室に響き渡ります。
けれどそんなことを気にしている余裕など、今の私にはありませんでした。
閉じた本を握りしめた手にはぎゅっと力がこもり、指先が震え、身体まで小刻みに揺れていました。
——な、なんですか……これは……!
書かれていた内容に、頭の中は真っ白です。
――もしや、これは俗に言う……。
官能小説、というものでは……?
断定した途端に、じわりと顔に熱が集まっていくのが分かりました。
これまで私は、こういった類のものとは無縁の生活を送ってきたのです。
幼い頃から厳格に育てられ、王子の婚約者に選ばれてからは妃教育の日々。
こうしたものに触れる機会など、一度たりともありませんでした。
——な、なんてものを読んでいるのですかあの男は……!!
信じられない、という思いが胸いっぱいに広がっていきます。
——こ、こんな破廉恥なものを……!
これは一刻も早くここを出なければ。
頭が警鐘を鳴らします。
相手はこんな有害図書を平然と読む人物。
何をされるか、分かったものではありません。
——まずは機会を探さないと。
そのためにも今は、早急に仕事を終わらせるのが先決。
あの男の生活習慣を観察し、隙を見つける時間を作るのです。
「……よし」
小さく息を整え、私は本の片付けに取り掛かろうとしました。
しかし。
ふと、手に持ったままの一冊に視線が落ちる。
そうして気付けば、指先が表紙をめくろうとしていました。
——な、何をしているのですか、私は……っ。
こんなことをしている場合ではないのに……っ
だ、だめ……身体が、言うことを聞かない——。
ゆっくりとページが開き、目に飛び込んできたのは挿絵でした。
天井から垂れた鎖に両腕を繋がれた女性。
背には鞭によって刻まれたと思しき痛々しい痕。
女性の表情は、苦しみに歪んでいますがどこか熱を帯びていて。
見る者の心を掻き乱すような、異様な艶を孕んでいて——。
私は再び乱暴に本を閉じました。
一心不乱に手を動かし始めます。
ただ何も考えないように。
余計なものを見ないように。
これ以上心が何かに蝕まれないように。
その一心で、本を片付け続けました。
◇
片付けを終え、続いては廊下の掃除に取り掛かります。
箒で掃いている間も無心を努めましたが、どうしても本の内容が頭から離れません。
べ、別に続きが気になるとかそういうことではなく……。
そんな誰に向けてかも分からない弁明をしていたからでしょうか。
コツンと箒の柄が、廊下に飾られていた花瓶に当たってしまいました。
ぐらりと傾いた花瓶は、そのまま床へと落ち――。
パリンッ、と乾いた音を立てて砕け散ります。
「ど、どうしましょう……っ」
慌ててしゃがみ込み、破片を拾おうと手を伸ばした、そのとき。
コツコツと背後から足音。
「何をしている」
頭上から降ってきたのは、低く抑えられた声。
びくり、と肩が跳ねます。
「旦那様……」
恐る恐る顔を上げれば、細められた赤い瞳と視線がぶつかりました。
その目は、氷のように冷ややかで。
男は割れた花瓶と私とを交互に見やります。
そして深くため息をついた後、軽く指を振りました。
すると散らばっていた破片も、水も、花も――まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え失せたのです。
自然と目が瞬きます。
――すごい、こんな一瞬で……。
「まったく。料理のときといい、今の失態といい……お前は本当に役に立たないな」
彼の発言に、思わずむっとしました。
昔から秀才と言われていた私にとっては言われ慣れない言葉であり、看過し難い内容だったのです。
それでもここで噛み付くのは得策ではないと、「申し訳ありません」と素直に形だけの謝罪を述べました。
ですが、こちらの不誠意など見抜かれていたのでしょう。
彼は僅かに眉間に皺を寄せ、ぐい、と私の腕を掴んできました。
「っ……!」
強い力で立ち上がらせられ、よろめいてしまいます。
「躾が必要なようだな。来い」
「え……」
低く告げられた言葉に、背筋が凍りつきました。




