第56話 アゼリア妃
しばらくの休暇を頂いてもう3日になる。
わたしの休暇の理由について職場には、一身上の都合とだけ伝えてあるとアルベロさんは言っていた。
食事をして、本を読んだり敷地内を散歩したりして、アルベロさんとお話しして、眠る。
アルベロさんのもとでの暮らしは穏やかで、ともするとルーカス殿下との結婚という、国の一大事に巻き込まれていることを忘れそうになる。
苦しいことも何もない生活だけれど、こんなことをしていて良いのだろうかという思いがずっと纏わりつく。
外では色々な人が慌ただしく動いているはずで、アルベロさんも仕事に追われている。アルベロさんは忙しさや疲れをわたしに見せないが、きっと大変な思いをされている。真綿に包まれているような、守られるだけの今の状況が苦しい。
しかし今日はいつもと違う。この家に訪問客が来ているのだ。こんな時に特に用事もなくここへ来る人なんていないはず。だとしたら、何か大切な要件があって来ているはずだ。
アルベロさんが対応していてわたしは自分の部屋で過ごしている。差し支えなければ、後でどんなことがあったのか聞こうと思っていると、部屋の扉をノックされた。
返事をすると、入って来たのはアルベロさんだ。もうお話は終わったのだろうか。
「今いらっしゃっている方がロゼッタに会いたいのだそうだ。来てくれるかい?」
そう言うアルベロさんの顔に焦りや不安などは微塵も浮かんでいない。きっと、わたしが会っても大丈夫だと判断しているのだろう。
「もちろんです。…聞いても良いですか?お相手の方はどなたでしょう?」
この前は、呼ばれて顔を出したら陛下がいらっしゃってとても驚いた。今度は事前に聞いておこうと思いそう言うと、アルベロさんは答えてくれた。
「アゼリア妃がいらっしゃっている。私との話がだいたい落ち着いたのだけど、ぜひロゼッタにも会いたいと。」
やっぱり聞いておいて良かった。
アゼリア妃は、第一王子の配偶者だ。
そんな方が会いたいと仰っていることにびっくりするが、アゼリア妃の前で驚かなくて済んだ。
アルベロさんと廊下を歩きながら心の準備をする。いつだって偉い方とお会いする時は緊張するものだ。
アルベロさんに続いて応接室に入り、アゼリア妃に対面した。
「貴女がロゼッタね。」
「はい。初めまして、アゼリア様。」
アゼリア様は白金色の髪と淡いグリーンの瞳のとても美しい方だ。今まで肖像画や新聞でしかそのお姿を見たことがなかった。ドレスもアクセサリーも控えめで、いかにもお忍びといった感じだが、こうして実際に見ると本当に綺麗だ。後ろには侍女や近衛騎士が控えている。
「一度会ってみたかったの。」
そう言って少し目を細める。その目から敵意を感じないことに安堵したが、良い感情が読み取れるわけでもない。人の感情が一番表に出やすいのは目だ。だけどアゼリア様は淡々とした目をされていて表情もほとんど動かず、何を考えているのか分かりにくい。
わたしの戸惑いを察してか、アゼリア様は言った。
「…あら、ごめんなさいね。警戒させるつもりはなくてよ。こう時は難しいのよね。」
俯き加減で頬に指先を当てる。まるで困ったわという仕草だ。
それを見て、わたしは何となく理解した。
わたしは交流会の準備の時に、ヴァネアさんやミラさんから淑女の微笑みを教わった。それは相手を寄せ付けない完璧さを演出させるものだが、自分の心の内を相手に読ませないためのものでもあった。
しかしアゼリア様の場合は笑みではなく、表情をほとんど無くすことで考えを読み取らせないようにしているのだ。きっと、社交界という敵も味方も入り混じった世界で幼い頃からその技術を磨いてこられたのだろう。
「いいえ。わたしのことはお気になさらず、どうかいつものようにお話ししてください。」
表情が分かりにくいからと言って心に動きがないわけではない。微笑みかけると、アゼリア様の目がすこしやわらかくなった気がした。
「今日は公爵にご挨拶に伺いましたの。夫が公爵の領地で静養することになって、私も同伴させていただくものですから。」
アゼリア様が言うとアルベロさんが頷く。
「先ほどまではその話をしていたのだよ。豊かな緑に触れて、日差しをたっぷり浴びた自慢の作物を召し上がって、ゆっくり休んでいただければその心もやがて平常になろう。」
アルベロさんは穏やかな口調で言い微笑んでいるが、どこか寂しそうな顔だ。心が弱っているというイリオス殿下の今の状況を頭に思い浮かべているからだろう。
沈黙が落ちる。
アゼリア様はティーカップを手に取ると、ゆっくりと中身を嚥下した。ソーサーに戻す時には少しも音を立てず、ゆったりとした優雅な所作だ。
その洗練された動きに見惚れていると、アゼリア様がわたしを見た。
「ねえロゼッタ、私の夫の過ちはご存知でしょう。竜騎士である貴女はそれを、許すことができる?」
アゼリア様からの突然の質問に戸惑う。そのことには触れないものだと勝手に思っていたからだ。
殿下の過ちとは、はじまりの王の物語に感化され妄執し、白竜の血を奪おうと襲ってしまったことだ。
それを許せるか、許せないかで言ったら、わたしは…。
「わたしは…許せません。」
嘘をついたりはぐらかすこともできるけど、それはアゼリア様の望む返事ではないだろう。
わたしの返事に、アゼリア様は小さく頷いて視線を下げる。表情は変わらないが、悲しみや諦め、悔しさ…、その胸の内に渦巻く感情は推測できる。
わたしは続ける。
「ルーカス殿下から、イリオス殿下は真面目で優しいお方だったとお聞きしました。そんな殿下の凶行を招いてしまった、この血の呪いが許せないのです。」
わたしの言葉を聞いてアゼリア様はパッと顔を上げた。顔を上げたのはアルベロさんもだ。
「呪い…。」
アゼリア様はわたしの話を聞いてポツリと呟く。わたしはそれに頷き返して続ける。
「はじまりの竜は祝福のつもりで自らの血と力を授けたのかもしれません。ですがそれが今は、イリオス殿下然り、アイラさん然り、争いの種となっています。たとえこの力の始まりが愛ゆえのものだとしても、世代を超えて憎しみや争いを生むのであれば、それはもう呪いです。」
悪いように言い過ぎているとは思わない。
これはずっと考えていたことだ。
民の間では建国のお伽話として、王族の間では超常の力を手に入れた祖先の実話であり自分たちだけの秘密として、まるでとても素晴らしいことのように語り継がれてきた。
だけど、数々の争いを生んでいる事実がある以上、わたしはもう素敵な物語だとは思えない。
アルベロさんは深く溜め息を吐いた。
「私も同じようなことを考えていた。これほどまでに悪しき影響を及ぼすのは、もはや祝福とは呼べない。過去にも現在にも血に関わる者に影を落として、未来にも悲劇を起こしかねない。…この期に及んで、竜と人間の王が互いを愛した結果であり素晴らしい力だと信じるのは愚かすぎる。」
アルベロさんは暗い表情で手元を見つめながら話した。その気持ちが痛いくらい分かる。無念、悔しさ、やるせなさ…。胸の中によどんだ水のような暗い感情が流れ込んで重苦しい。
しばらく沈黙していたアゼリア様が口を開いた。
「では、どうしたら…。貴女は今いる王族達の中で一番濃くはじまり王の力を受け継いでいるわ。その力を…呪いを、断ち切るためにはどうしたら良いの?」
その瞳が揺らいで見える。
アゼリア様自身は王家の血こそ継いでいないが、配偶者であるイリオス殿下がまさに呪いの渦中にある。殿下やこれから生まれるかもしれない命が呪いに苦しめられないように願うのは当然だ。
わたしはアゼリア様を見て言う。
「断ち切るというのは不可能なのだと思います。今までもそうであるように、これから先も血は薄まって力を発現する者がほとんど出なくなるとは思います。でも、わたしのように力を持つ者が突然また生まれるかもしれない。不確定なものを阻止することはできません。」
わたしの意見を聞いて、アゼリア様は小さく口を開いた。しかしすぐに閉じられて、考え込むようにティーカップを見つめている。何かを言おうとしてやめたようにも見える。
アゼリア様が言おうとしたこと、でも言うべきではないと判断したこと。それには気づかないふりをして続ける。
「力を持つ者が生まれることを止めることはできません。でも、考え方を変えていくことはできます。」
「…それは王族の考え方を変えるということね?」
アゼリア様の言葉に頷く。
王族の間では、始まりの王が竜と心を通わせてその血を飲み、竜の目と竜の耳を授かったと当時のことが詳しく伝わっている。事実として詳しく伝わってしまったからこそ、一族の輝かしい過去の出来事であり自分にもその可能性があると夢を見てしまう。夢を見た分、失望した時の反動は大きい。そして実際にイリオス殿下は、当時の手段を知っていたから竜の血を狙うという選択をしてしまった。
「わたしは、王族の間でだけ語り継がれていた当時の詳しい話を、後の世代には一切伝えない方が良いと思います。民が知っているような遠い昔のお伽話にとどめて、やがて誰からも秘密が忘れ去られるように。」
誰もが知っている竜に愛された王の物語を今さらなかったことにはできない。力を持つ者が生まれることを止めることもできない。
でも、物語に歪んだ憧れを抱かないようにすることはできる。秘密を伝えてきた王族の間でさえも過去にあった本当の出来事ではなく、遠い昔のお伽話という曖昧な存在にしていくことで、やがて秘密は忘れられていくだろう。
「…忘れられるのは寂しいことかもしれませんが。」
思わず呟いてしまったが、アルベロさんは首を振った。
「始まりの王達のことを今更私達が批難することはないように、彼らの秘密が忘れられるのを不憫だとは思わないよ。たとえ忘れられても過去の出来事自体が消えるわけではないのだから。」
アルベロさんの言葉を聞いて少し胸が軽くなった。
始まりの竜と王達が自分たちの物語が忘れ去れるのをどう思うだろうかと考えてしまったから。過去のことを正しく伝えたい、忘れたくないと思う人にとっては悪魔のような提案をしてしまったと思っていた。でも、アルベロさんの言うように忘れられても竜に愛された事実だけは変わらないのだ。
アゼリア様の問いへの答えになっただろうかと反応をうかがうと、目を閉じて考え込んでいるようだ。長い睫毛が目元に影を落としている。
やがてゆっくりと目を開けるとわたしを見つめた。
「本当のところ、貴女に会ったら私、恨み言の一つでも言ってしまうのではないかと思ったの。あの人が欲しくてたまらなかったものを持っているのだから。…でもこうして会ってみたら、そんな気は全く起きなくて…、それはきっと、…貴女が誠実で清らかだからなのでしょうね。」
そう言って花が綻ぶようにふわりと笑った。




