第45話 眠りにつく
開けられた窓から涼しい風が吹き込んでくる。この地方は寒いところだと思っていたけれど、本当の今の時期は王都の初夏くらいには暖かかった。町の人たちは、今年はなかなか暖かくならないと思っていたようだが、白銀の竜が気候にまで影響を及ぼしていたことが原因だった。
ふと窓を見ると、自然と白い小鳥が目に入る。小鳥は窓台にとまっていて、時折身じろぐがそこを離れる様子はない。その黒いつぶらな瞳が見つめるのは、そのこの大切な友達であるアイラさんだ。
ここはアイラさんの自宅の部屋だ。
建物自体は古いがとても広く、かつての王弟が住んでいた場所として違和感はない。しかし住む人がアイラさんとそのお母さんだけとなった今は、屋敷の一部の部屋しか使われていないようだ。
アイラさんの部屋には、机と椅子、クローゼット、ベッド等の必要最低限のものだけが置かれている。窓辺にベッドが設置されているのは、体の弱いアイラさんがいつでもお友達と話せるようにとの意図だろうか。
全体的にさっぱりとした部屋だけど、机の上には様々な押し花やドライフラワーが飾られている。その中には王都でよく見る花もある。
…この辺りのものだけじゃなくて、遠くから取り寄せるほど花が好きなのかな。長く花を楽しめるように丁寧に加工されたそれらから、アイラさんの穏やかで繊細な性質を感じ取れる。年頃の女の子らしい、可愛らしい趣味だわ。
そうやって周りを観察することでしか、アイラさんのことを知ることができない。
何故なら、あれ以降彼女の具合が悪くなってしまったからだ。白い顔でベッドに横になる彼女を、そばに座って見てあげることしかできない。
今回の主犯であるアイラさんは、本来ならば一番近い騎士の駐在所で身柄を預かるはずだった。しかし、容体が悪い今、無理にその身体を移すことはできず、騎士達が監視する自宅で療養することになった。アイラさんのお母さんも、監視のもとここで過ごしている。
本来の気候に戻ったことで、町に積もっていた雪は溶けて、建物の復興も進んできている。アイラさん達の監視と、町の復興の援助が今の私たちの仕事だ。
コンコンと部屋の扉がノックされた。返事をすると入って来たのはラルフだ。私を見ると気まずそうに視線を下げた。そんな彼の反応に少し胸が痛んだが、それよりも彼の顔を見て驚いた。
「ラルフ!それどうしたの!」
彼の左頬が腫れていたのだ。湿布を貼って処置されているが、頬の腫れと口の端が少し切れている姿が痛々しい。ラルフの後ろから部屋に入ってきたダイスさんにも目を向けるが、苦笑いするだけだった。
…あの時、結果として、ラルフは私たちを裏切ってはいなかった。しかし、ラルフとアイラさんの親密さを考慮して、ここにいる間はラルフにも監視がつくことになったのだ。その担当が今はダイスさんだ。
部屋に入ってきたラルフに駆け寄り、説明を求める視線を向けると、困ったように私を見つめた。
「これは…その、当然の罰というか。」
「罰!?誰かから体罰を受けたの?」
そんなまさか!と声を上げると、ラルフは慌てて首を横に振った。
「そうじゃないんだ。これは…レイドとちょっと。…喧嘩みたいなものだと思って見逃して欲しい。」
「喧嘩って…。」
今まで喧嘩している二人を見たことがなかったから、うまく想像できなくて困惑する。そんなわたしをラルフは悲しそうな目で見つめた。
「俺はロゼッタを傷つけてしまったから…。」
ラルフが見たのはわたしの首元だ。そこには絆創膏が貼られているが、その下にあるのはラルフに抵抗した時にできた傷だ。掠ったくらいで傷は深くないし、治りかけでむず痒いけど、放っておいても心配ないものだ。
「気にしてないし、大丈夫なのに…。」
「大丈夫じゃない。ロゼッタは嫁入り前の女の子だし、それに、大切な友達なのに…。本当にごめん。」
「…うん。いいのよ。」
わたしは微笑む。ラルフが抱えている心の重みを少しでも軽くしてあげたかったから。それに、安心したから。
あの時、目線も合わせてくれなかったラルフを思い出す。わたしを拘束する腕の力は強く、冷たく固い声色で、ラルフが突然知らない人になったように思えた。心がヒヤリとした感覚はまだ鮮明に覚えている。
だから今、目の前のラルフに大切な友達と言ってもらえたことが嬉しいのだ。心の中のわだかまりがそっと解けていくように感じる。
わたし達の話が一段落したのを見て、ダイスさんが話し出す。
「洞窟前の白銀の竜は、相変わらず動く気配はないみたいだ。ロゼッタちゃんのパートナーが見張っていてくれているから、心配には及ばないだろうけど。」
アイラさんが捕縛された後、白銀の竜は洞窟前に座って動かなくなった。町の人々は脅威となった存在が近くにいることに怯えたが、わたしのパートナーが見張り役をすることで少し安心したようだ。何かあっても対処してもらえると。
ただ目を瞑って座り込んでいる白銀の竜からは、もう何も危険性は感じ取れない。もしかしたら、彼は…。
「こちらは変わりなかったかな?」
ダイスさんからの問いかけにハッとする。わたしも報告しなくては。
「はい、変わりありません。依然として眠ったままです。」
そう言って、眠るアイラさんを見る。
青白い顔と乾いた唇は、誰の目にも具合が悪いことが見て取れる。呼吸に合わせて胸が上下しているがそれすら弱々しく見える。
彼女のしたことは許されることではない。町の人はみんな無事に助けられたが、死傷者が出てもおかしくはない状況だった。それに、降り積もった雪の重みで潰れてしまった家屋もある。家屋の修復が終わるまでの間、仮設テントや知人の家で生活をすることになった人達もいる。そして何より…心に傷を負った人達もいる。竜に慣れた竜騎士でさえ、古竜へ対しては畏怖を抱く。一般的な竜すら見慣れていない人が、目の前にいるだけで怖い存在に襲われたとなれば、それはどれほど心を傷つけただろうか。
…許されることでは、ない。
しかし、今の彼女は食事も取れず、わずかな水しか口にできないような状態だ。
アイラさんのしたことは罪だ。でも、もはや誰も彼女に罰を下せるような状況ではない。少しずつ、暗く深いところへ沈んでいく彼女のことを何と想えばいいのか。
「…アイラさんはお花が好きなのね。とても綺麗に飾ってあるわ。」
彼女の部屋を見て知ることができた、数少ない彼女の情報だ。
「ああ。…これは、俺が贈った花なんだ。なかなか外に出られないアイラの気分転換にと思ってさ。」
ラルフはそう言って目を細め、嬉しそうに花達へ視線を送る。
「花を添えた手紙を送って、その返事が来るのが何よりも嬉しかった。アイラが生きていることの証だったから。」
「ラルフ…。」
何て声をかけたらいいか分からない。
こんなにも大切に想っている幼馴染が、こんな状態になってしまって。悲しいでしょう。辛いでしょう。その心に寄り添いたいけど、安易な慰めの言葉を言うのはそぐわない気がした。
再び、アイラさんを見つめる。
氷の洞窟で亀裂がわたし達を飲み込む直前、わたしは彼女に言おうとした言葉がある。
わたしは始まりの王の、アイラさんは始まりの王の弟の子孫だ。遠いとはいえ血が繋がっている。そしてわたし達は、同じ力を…動物と話すことができる力を持っている。
その力が何を意味するか知らなかった頃は、人と違う不気味なものだと思ったことさえある。孤児院にいた時はみんながわたしの力をすごいと褒めてくれたけど、隠さなきゃいけない、あまり人に言ってはいけないことだと本能的に分かっていた。アイラさんもきっと同じ経験をしたことがあるはずだ。アイラさんとなら、この力を持つことの辛さも、不安も、喜びも、何もかも共有できたんじゃないかな。
こんな状況じゃなかったらわたし達…、
友達になれたはずだわ。
しかし今それを口に出してしまうことは、どうしようもなく残酷なことに思えた。
本来の季節に戻ったこの場所は、今はとても過ごしやすい気候だ。柔らかい陽射しがやさしく町を包み込んで、時折吹く涼しい風のおかげで少し動いたくらいでは汗ばまない。復興に向けて動く人たちにとって作業しやすい環境だ。
空を見ると、ちょうど、竜が町の外れに降りていく。あれはヴァネアさんとフォードさんの竜だ。空からの物資の運送を行っていて、障害物のない空は直線での移動ができるので地上を行くより速い。町にはまだ竜に恐怖を覚える人達もいることに配慮して、町の中心には竜を連れて来ないようにしている。竜に運んでもらった物資を町の外れに下ろし、それを馬や人の手で町の中心まで運ぶのだ。
…アル、無事に回復してくれてよかった。一番幼いからか、目覚めるのも一番最後だった。ヴァネアさんやみんなと心配していたけれど、目覚めたらあっという間に元気になってくれて胸を撫で下ろした。こうして元気に飛ぶ姿を見れて本当に良かった。
アル達が無事に地上へ降りたことを確認して、再び歩き出す。向かうのはもちろん、ナクティス達のところだ。アイラさんの監視当番を終えた今は休憩時間だけれど、どうしても彼らに会いに行かなければと思ったのだ。
町の外へ少し歩けば、身体の大きい彼らをすぐに見つけることができる。
陽の光を受けて白銀の鱗がキラキラと輝く。孤児院で過ごした厳しい冬のある朝に、一度だけ目にしたダイヤモンドダストを思い出す。瞳を閉ざしたその横顔、しんとした佇まいは正に氷の彫刻のようで、息を呑むような美しさだ。
そして、向かい合っているのは漆黒の竜だ。明るい昼間なのに、その場所にだけ夜が舞い降りたかのように錯覚させる。夜を照らす黄金の月のような瞳は、ひたりと目の前の相手を見つめている。
その存在すら伝説のような古竜が二頭向き合う姿は、今の状況を忘れてうっとりと見つめてしまうほど惹きつけられる。それと同時に、どうしようもない悲しさが胸を締め付ける。こんなに美しい彼らが傷つけ合わなければならなかったなんて。
「ロゼッタか。」
ヴァイツさんがわたしに気付いて名前を呼ぶ。ヴァイツさんは団長やルーカス殿下と交代しながら、古竜達の動きを観察する役目を担っている。わたしの顔を見ると少し困ったような顔をした。
「…休憩時間は、しっかり休息を取らなければいけないぞ。」
「はい。でも、どうしても気になってしまって。」
わたしがそう言うと、「仕方ないな。」と少し笑ってここにいることを許可してくれた。その顔はクールな副団長というより、優しいお兄さんという方がしっくりくる。少しくすぐったい気持ちになりながら、二人で並んで古竜達を見つめる。
少し遠くでは町の人々の気配を感じるが、ここはしんとしていて感覚が繊細になる。頬をやわらかく撫でていく風も、植物の青い香りも、降り注ぐ陽のあたたかさも特別な物ではないのに、彼らが向かい合うこの空間は別世界のように感じられる。
もう少しナクティスに近付こうかとも思ったけど、神聖な彼らの領域に足を踏み入れてはならない気がした。
すると、おもむろに白銀の竜が目を開いた。その金色の瞳はここではないどこか遠くを見つめているように感じる。そしてゆっくりと空を見上げた。
突然白銀の竜が動きを見せたことで、ヴァイツさんはわたしを後ろへ隠すように前へ出た。その背中越しに白銀の竜の瞳が細められるのが見える。ナクティスは全く動じていない。
『時間だ。』
白銀の竜が吐息のように呟いた。それは短い言葉だったけど、彼の表情を見てハッとする。わたしは締め付けられるように痛む胸を抑えてアイラさんの家の方を見た。そんなわたしを見て、ヴァイツさんもハッとした表情を浮かべる。
…ああ。やっぱり白銀の竜は、アイラさんが旅立つのをそばで待っていたんだわ。
アイラさんの部屋には今、ラルフがいる。ラルフが彼女の異変にいち早く気付けていたら、アイラさんのお母さんもそばに連れて来てあげられているだろう。大切な人達に見守られて、大切なパートナーに想われながら、彼女は今…。
羽を広げる気配がして白銀の竜を振り返る。その足にも力を入れていて、飛び立とうとしていることが分かる。
「どこへ行ってしまうの!」
わたしは必死に声をかけた。
全てが終わったら、彼は洞窟の中で再び眠りにつくのだと思っていた。だって、王弟はこの土地で眠っていて、アイラさんもきっとここでその身を休めるだろうから。彼が愛した人達のそばで、思い出を紡いだこの場所で眠りたいはずだと思っていたから。
『もっと北へ行くよ。私がいてはここの人間達は休まれない。』
「そんな…。」
あなたはどこまでも人間達を大切に思っているのね。人間のせいで傷ついても、大切な友達と傷つけあうことになっても…。村を襲い人や竜を氷漬けにした時、あなたはとても辛かったのよね…?
愛した人達から遠く離れた知らない土地で一人で眠りにつくなんてとても寂しいことだわ。
様々な思いが胸のうちに渦巻いて、うまく言葉が出ない。そんなわたしに白銀の竜が視線を向ける。目が合うと、彼は優しく微笑んだ気がした。
『君も優しい子だ。心配しないで、あの子達を思いながら眠ればきっと素敵な夢が見られるはずだ。』
白銀の翼が大きくゆっくりと動き出す。羽ばたきに合わせて風が巻き起こり周囲に吹き付ける。飛び立とうとする白銀の竜を見ても、ナクティスは動かない。ただその瞳はしっかりと白銀の竜を見つめていて、まるで、最期に彼の一挙一動を目に焼き付けているかのようだ。
風を掴んで空高く、白銀の竜は飛んでいく。
町の人達のざわめきが遠くで聞こえる。
そのうち、陽に照らされてチラチラと光るものが落ちてきて、手のひらで触れればそれは雪だと分かった。繊細な結晶達はこんなに良いお天気ではすぐに溶けてなくなってしまうだろう。ひらひらと舞い落ちるそれらは、あの美しい竜が流した涙の結晶のように思えた。
ナクティスは白銀の竜…リータスが飛び去っていく方をただ見つめている。この胸の痛さが、頬を伝う涙が、わたしのものなのかナクティスのものなのか分からない。
どうして竜は、人を愛してしまうのだろうか。
どうして人は、竜を愛してしまうのだろうか。
わたし達が共にあることは、果たして幸せなことなのだろうか。




