ep.39 晴れ
そのあとしばらく、私たちは黙々と外庭を片づけた。
晴れているのは城塞の上だけで、少し離れれば空はまだ低く灰色のままだった。けれど、頭上へ落ちる光があるだけで、仕事のしやすさはずいぶん違う。
濡れた板は少しずつ乾きを取り戻し、泥の色も、どこが深くどこがまだ踏めるのか、目で見て分かるようになっていた。
崩れかけた小屋の残りを払い、倒れた木柵を端へ寄せる。
石で囲われただけの古い畑跡からは、折れた杭と絡まった蔓の名残を外した。
半ば土へ埋もれていた水桶は、ひとまずひっくり返して雨水を抜き、壁際へ立てて乾かす。
そのあいだ、レディヴィアは何度も木を運んだ。
前室と広間へ置いておいた材を、私が示した場所へ順に積み上げていく。
「そちらは、そのままで大丈夫です」
私がそう言うと、レディヴィアは立てかけていた材へ手を添えたまま、こちらを見る。
「倒れませんか」
「たぶん」
そう答えると、レディヴィアは少しだけ目を細めた。
「今日は、たぶんが多いですね」
「建てるのは初めてですから」
そう返すと、彼女はごくわずかに口元を緩め、材から手を離した。
片づけがひと段落した頃には、外庭には広く空いた地面ができていた。
まだ泥は残る。草の根もある。けれど、やっとソルとロアを風から守るだけのものを建てられそうだった。
私は足を止め、少し離れた位置から全体を見た。
「……ここがよさそうですね」
レディヴィアが私の隣へ立つ。
「広さは、足りますか」
「二頭ですが、少し広めに取りましょう」
私は目でざっと間取りを引く。柱の位置。屋根の流れ。入口の向き。風の入り方。
「壁を三方。正面は開けて、奥を少し深く。雨が吹き込みにくいように傾けたいです」
「はい」
レディヴィアは素直に頷いたが、その次には、目の前の材木の山を見て静かに言った。
「では、切りますか」
「ええ」
私は材の前へしゃがみ込み、一本を転がして長さを確かめる。
柱にするなら、揃っていなければ具合が悪い。
横木も必要だ。
壁に使う厚板は、あとで釘の代わりになる木杭を差し込める程度の幅と厚みを残したい。
頭の中では形が見えている。けれど、その通りにきれいに出せるかは、また別の話だった。
レディヴィアが材の端へ手をかける。
「浮かせます」
「お願いします」
彼女が軽く手を上げると、長い材がわずかに地を離れた。
完全に高く上げるのではなく、切りやすい高さへ、水平に静かに保たれる。私はその下へ回り込み、指先へ風を細く集めた。
材の表面へ、一筋の線を入れる。
湿った木肌が裂け、白い芯が覗く。
「ここで」
「はい」
切り落とす。
鈍い音とともに、長さの揃った一本目の柱が地へ落ちた。
それからは、しばらく同じ作業が続いた。
レディヴィアが材を浮かせる。
私が長さを見て切る。
また少し持ち上げてもらい、もう一本を切る。
柱になるもの。
横へ渡すもの。
壁へ貼るための厚板に使えそうなもの。
短くしか取れないものは薪へ回す。
濡れた木の匂いが立ち、切るたび新しい木肌が明るく現れる。レディヴィアは切りやすいよう角度まで変えてくれるので、私は思ったより迷わず刃を入れられた。
「もう少し、下げられますか」
私が言うと、レディヴィアはすぐに材を下げる。
「これくらいですか」
「ええ。ちょうど」
そうしているうちに、柱が何本も揃っていた。
長さの近いものを寄せ、横木を分け、厚板をまとめる。濡れた土の上に、これから厩舎になるはずの骨が少しずつ形を持ちはじめる。
けれど、いざ建てようとしたところで、私は止まった。
太い柱を一本浮かばせたまま、空いた地面を見る。
どこから立てるべきか。
四隅か、奥からか、入口からか。
柱を立てたあと、どの順で組めば崩れずに済むのか。
頭の中で何度か組んでみる。
けれど、本にあったのは家屋の図や城の断面ばかりで、厩舎の建て方ではなかった。農家の挿絵に馬屋らしきものが描かれていた記憶はある。だが、それを自分の手順へ置き換えられるほどではない。
私は柱を持ったまま、ほんの少し眉を寄せた。
「……どうしましたか」
レディヴィアが、材へ手を添えたまま私を見る。
私は少しだけ困ったように息を吐く。
「厩舎の建て方は、本では見たことがなかったので」
そう言うと、レディヴィアは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、地面と柱と私を順に見たあと、少しだけ考えるように黙る。
レディヴィアは真面目な顔のまま、手元の柱を持ち上げた。そのまま、彼女は地面へ歩み寄る。
「やってみましょう」
そう言って、柱を一本、ぐっと地へ突き立てた。
先端が湿った土へ沈み、次の瞬間には彼女の力でさらに深く押し込まれる。柱は一度揺れたが、レディヴィアが少しだけ角度を直すと、そのままそこへ立った。
「……レディヴィア様は、建て方がわかるのですか」
問うと、彼女は少しだけ眉を落とす。
「わかりません」
きっぱりした返事だった。
だからこそ、私は小さく笑ってしまう。
「一緒に、初めてですね」
そう言うと、レディヴィアはごくわずかに目元をやわらげた。
「はい」
私は浮かべていた柱を、彼女の立てたものの隣へ運ぶ。少し距離を測る。ソルとロアが並べる広さを思い出し、壁と壁のあいだを頭の中で引く。
「……ここです」
「はい」
レディヴィアが柱を受け取り、地へ埋め込む。
次はもう少し前。
その次は反対側。
私は間隔を示し、レディヴィアが柱を立てる。
一本。
また一本。
四隅が決まり、そこへさらに支えの柱を増やしていく。
柱が立つと、次にようやく骨組みが見えてくる。
私は横木の長さを確かめ、レディヴィアが持ち上げたところへ合わせた。切り揃えた木を柱のあいだへ渡し、固定のための溝を浅く刻む。釘がないぶん、噛み合わせは丁寧に見なければならない。湿った木はまだ少し重く、扱いを間違えるとずれてしまう。
「こちらを、もう少しだけ」
私が言うと、レディヴィアは横木を肩の高さで支えたまま、ほんの少しだけ上げる。
「これで」
「ええ。ちょうどです」
差し込む。
噛み合う。
横木が柱へ渡る。
それだけで、ただ立っていただけの木が、急に建物の始まりに見えた。
私は少し息を吐いた。
レディヴィアも、同じものを見た顔をしていた。
そこから先は、さっきまでより手が早かった。
厚板を壁代わりに当て、木杭を差し込んで留める。
レディヴィアが支え、私が位置を決め、風で細い穴を通してから杭を押し込む。板と板のあいだには少し隙間が残る。けれど、いま必要なのは見た目の綺麗さではなく、風を切る壁だった。
少しずつ、三方が閉じていく。
奥行きができ、屋根を渡すための位置も見えはじめる。
どれほど経った頃だろう。
木を打つ音と、濡れた土を踏む音のあいだへ、別の足音が混じった。
振り向くと、ルルティナがこちらへ歩いてきていた。
腕に布包みを抱え、その上へ小さな鉢と水差しを重ねている。慎重に運んできたらしく、足取りは早くない。けれど迷いはなかった。
「……昼時には戻られるかと思いましたが」
少し近くまで来てから、ルルティナはそう言った。
「邪魔をしては悪いと思いましたので」
私は思わず手を止める。
レディヴィアもまた、持っていた板をそっと地へ下ろした。
「食事を、三人分持ってまいりました」
その言葉に、胸の奥がひどく静かに温かくなった。
「ありがとうございます」
私がそう言うと、レディヴィアもすぐに頷く。
「ちょうど、お腹がすきました」
ルルティナはその返事に、ごくわずかに目元をやわらげた。
「それなら、よかったです」
私たちはいったん手を止めることにした。
積み上げた材のうち太めのものを三本、簡単な腰掛けの代わりに並べる。濡れてはいるが、外套越しならどうにかなるだろう。
三人で並んで座る。
布包みを開くと、中には麦を潰して焼いたものと、今朝残しておいた肉、それから薄い豆の煮汁を温め直した小さな椀が三つ入っていた。豪勢ではない。けれど、作業の途中で食べるには十分すぎる。
しばらく、誰も多くは語らなかった。
木の匂いと、湿った土の匂い、それから食べ物の温かい匂いが、晴れた空気の中で静かに混じっている。
やがてルルティナが、ふと顔を上げた。
空を見て、少しだけ首を傾げる。
「……ここだけ晴れるなんて、不思議です」
その声に、私も空を見上げた。
灰色の雲の下に、城塞の上だけ丸く光が落ちている。端へ行けば、まだ空は重い。けれどこの場所だけは、はっきりと昼だった。
「勇者と魔王」
私は静かに言う。
「私とレディヴィア様の力で、空が晴れました」
ルルティナはその言葉を聞くと、すぐには視線を空へ戻さなかった。私の顔を、じっと見た。何かを確かめるみたいに、長く。
それから、もう一度空を見上げ、言葉を落とす。
「……お嬢様は、勇者になられるのですか」
その問いに、隣でレディヴィアが首を傾げた。
私は少しだけ苦笑を漏らす。
「私も、新しく始めようと思います」
ルルティナは空を見上げたままだった。
レディヴィアが、今度は彼女へ向かって静かに問う。
「アルシエラ様は、最初から勇者なのでは?」
ルルティナは、今度はまっすぐレディヴィアを見た。返事はためらいがなかった。
「勇者であることと、勇者でいることは、違うのです」
その言葉のあと、レディヴィアはしばらく黙った。
言葉の重さを、そのまま受け取るみたいに。やがてゆっくりと瞼を伏せ、そしてもう一度空を見上げる。
私も同じように空を見た。
晴れた場所は、まだそこにある。
「私は、勇者になります」
口にしてから、ひと呼吸だけ置く。
空気が少しだけ変わるのが分かった。
「ルルティナには、一つ。レディヴィア様には二つお願いがあります」
その言葉に、二人の視線が揃って私へ向いた。
私はほんの少しだけ笑う。
「でもそれは、もう少し後で」
木の匂いがする。
手にはまだ材を持ったあとの重さが残っている。
晴れた空の下で、厩舎の骨組みはまだ途中だ。
「まずは、厩舎を建てましょう」
そう言って立ち上がると、レディヴィアもすぐに腰を上げた。
ルルティナは器をまとめながら、静かに頷く。
「はい」
昼の光はまだ落ちていない。
灰色の空は遠くで待っているが、この場所にはまだ晴れが残っていた。
私は立ち上がったまま、途中までできた柱の列を見る。まだ粗い。まだ足りない。けれど、もうただの木の山ではない。
これから、ここにソルとロアの家が建つ。




