ep.38 終わる物
兵舎の前で、私はしばらく立ち尽くしていた。
崩れた屋根。剥がれた板壁。傾いた骨組み。
かつては人を雨風から守っていたはずのものが、今はもう自分の形を支えることすらできずにいる。
直すのではない。
これはもう、その段階を過ぎていた。
私は一度だけ周囲を見回した。
火が広がって困るものはない。湿った地面が広く、風もさっきよりは穏やかだ。雨はまだ細かく落ちているが、逆にそれくらいのほうがよいのかもしれない。余計なところへ燃え移る心配が減る。
「……終わらせましょうか」
誰にともなくそう言って、私は兵舎の前へ歩み寄る。
まずは、残っていた骨組みを壊した。
ただ力任せに潰すのではなく、重みのかかっているところから順に。柱の継ぎ目へ細い風を差し込み、腐った釘と痩せた木を外す。傾いていた梁がひとつ、低い音を立てて落ちる。
続いてもう一本。屋根の残骸がずるりと崩れ、板と板が擦れ合う乾いた音が、湿った空気の中で短く響いた。
形が完全に死ぬまでに、そう時間はかからなかった。
兵舎は、ひと息ごとに兵舎ではなくなっていく。
壁だったものが板になり、板だったものが木片になり、木片が濡れた土の上へ散っていく。
私はそれらを、一つの場所へ寄せた。
燃えるものと、燃え残りそうなもの。長いものと短いもの。濡れ方の強い板と、まだ芯に乾きを残している梁の欠片。
屋根の残骸のあいだに、煤けた布切れが引っかかっていた。軍旗ではない。ただの、誰かの上着の裾のように見えた。
兵舎はもう死んでいたが、人がいた気配だけは、まだ離れきっていない。
それらを少しずつ、積む。
低く、広く。空気の通り道を残すように。
倒れた建物の残骸を、今度はひとつの火になる形へ組み替えていく。
最後に、私は一歩だけ下がった。
黒く濡れた木々の山が、そこにある。
さっきまで兵舎だったもの。
けれど、もう兵舎ではないもの。
指先を上げる。
火は、ほんの小さなものでよかった。
最初の火種が、乾きを残した板の端へ触れる。
すぐには燃え広がらない。濡れているぶん、火は慎重だった。白い煙を薄く吐きながら、じわじわと木肌を焦がしていく。私はそのまま、もうひとつ火を足し、さらにもうひとつだけ奥へ落とした。
やがて、火はようやく決心したように、ぱち、と小さく鳴る。
細い炎が、板の縁を走る。
それが梁の割れ目へ入り込み、黒ずんだ木目を這い、次の瞬間には別の板へも移る。湿っているはずなのに、芯の乾いたところから順に熱が伝わっていく。煙が増えた。白に近いものから、少しずつ濃い色へ変わる。
炎はそこでようやく、大きくなった。
崩れた兵舎の残骸が、火の中で輪郭を失っていく。
板壁だったものは反り返り、梁だったものは内側から赤く割れ、屋根の一部だった木片は、火に触れるたび短く爆ぜた。
私は何も言わず、その火を見ていた。
風はまだある。
けれど今は、火を煽るほど強くはない。
煙は高く立ちのぼり、灰色の空へ溶けていく。火の底では、すでに最初の板が炭の色を見せ始めていた。
兵舎は、跡形もなくなっていく。
だが、全部が消えるわけではない。
燃えた建材は炭になる。
残るのは、兵舎があった広いだけの地面。
そして、これから何かを建てるための、空いた場所。
作り直すのではない。
ただ新しく。
無駄になるのではない。
ただ新しくなる。
暖かいというより、熱い火だった。
大きく、真っ直ぐに燃えている。
けれど恐ろしい感じはしない。
私はそのまま、しばらく動かなかった。
背後で湿った土を踏む音がした。
振り向かなくても、誰かは分かった。
「遠くから、煙が見えました」
そう言って、レディヴィアは私を見た。
けれど、その次にはもう、私ではなく燃えている兵舎のほうだけを見ていた。
「……燃えています」
私は火を見たまま、小さく頷いた。
「ええ」
火はなおも広がっている。
黒い木が赤くなり、赤いところからまた崩れていく。
「でも」
私は炎の向こうを見ながら続けた。
「全部なくなるわけではないです」
レディヴィアが隣へ来る。
並んで、私と同じように火を見た。
しばらく、二人で黙って立っていた。
燃える木の音だけがある。
湿った板が爆ぜる音。梁の内側が崩れる音。火が空気を食う音。
それらが全部重なって、ひとつの大きな音になっていた。
やがて、レディヴィアが小さく言った。
「暖炉の火と、一緒です」
その言葉に、私は少しだけ目を細めた。
「そうですね」
暖炉に火をつけた時のことを思い出す。
最初の夜、冷えた部屋で、ようやく人のいる場所になった火。
厨房で、豆と麦を煮た火。
浴場で、冷たい石の部屋を湯気で満たした火。
ここへ来てから、何度も火をつけた。
火をつけるたび、何かがただ燃えるだけではなく、別の形へ変わっていった。
冷たい部屋は、眠れる部屋へ。
食べられぬものは、食事へ。
古い浴場は、人が身体を休める場所へ。
そして今、死んだ兵舎は炭になり、広いだけの地面になる。
その先に、ソルとロアのための新しい厩舎が建つのだろう。
私は火を見たまま、静かに息を吐く。
「ここへ来てから」
ぽつりと言うと、レディヴィアがこちらを見た気配がした。
「火をつけるたび、何かが人の場所になってきました」
レディヴィアは返事を急がなかった。
ただ、私の言葉をそのまま聞いている。
「暖炉も、厨房も、浴場も」
私は少しだけ笑う。
「全部、そうでした」
レディヴィアもまた、火へ視線を戻した。
「では、ここもですね」
「ええ」
燃えていた兵舎の骨組みが、ちょうどそこで大きく崩れた。
火の色が一段高くなる。黒く濡れていた木が、赤を通り越して白い灰の縁を見せる。
「ここも、そうです」
二人で並んで、しばらくその火を眺めていた。
言葉は要らなかった。
ただ、燃えているものを見ているあいだに、ここへ来てからの火が、ひとつずつ胸の中でつながっていく。
暖炉の火。
厨房の火。
浴場の火。
そして今、兵舎を終わらせるこの火。
どれも違う火だった。
けれど全部、暮らしのための火だった。
風が少しだけ向きを変え、熱が頬へ触れる。
湿った外気の中で、その熱だけがひどくはっきりしていた。
私はようやく火から目を離し、足元の広い地面を見た。兵舎の形はもうほとんど残っていない。
ただ、ここに何かがあったことだけが、火の下の炭と、周りの土の色の違いで分かる。
これからは、ここに新しいものが建つのだろう。
炭になった木と、これから柱になる木は、きっと同じところから続いている。
終わるものと、始まるものが、火を挟んで並んでいる。
火は大きく燃えていた。
その熱を頬へ受けながら、私はふと、空を見上げる。
灰色だった。
嵐の名残を抱えたままの、低く重い空だ。雨はもう本降りではない。けれど、止みきれずに残った雫が、ときおりぽつりと落ちてくる。頬へ当たり、そのまま細く伝った。
燃える兵舎の熱と、空から落ちる冷たい水。
終わったものと、終わりきらないものが、いまも同じ場所にあるような気がした。
「……レディヴィア様」
「はい」
「魔王は、空を晴らすことはできますか」
隣で、レディヴィアが少しだけ目を瞬かせた気配がした。それから私と同じように空を見上げる。
灰色の雲は、まだ厚い。
火の煙がその下へ細く立ちのぼり、途中で風に押されて溶けていく。
レディヴィアは、しばらく考えるように黙っていた。
やがて、ひどく素直な声で言う。
「……難しいかもしれません」
「そうですか」
私は唇へ指先を当てた。
考えるというより、確かめるための癖みたいな仕草だった。
難しい。
たしかにそうだろう。
空は広く、雲は重い。火のように、すぐ目の前にあるものではない。
けれど、私はなお空を見たまま、小さく言葉を継いだ。
「勇者なら」
ぽつりとそう零すと、レディヴィアは今度はすぐにこちらを見た。
いつもの静かな目だった。けれど、その奥で何かがわずかに揺れた気がした。
「勇者と魔王なら、どうでしょうか」
私はまだ空を見ていた。
灰に染まった空。ぽつぽつと落ちる水滴。晴れきらない、止まりきらない景色。
どこか、自分みたいだと思った。
レディヴィアは私を見て、それからもう一度空を見上げる。ごく短い沈黙のあとで、静かに答えた。
「……それなら」
声は低かったが、迷ってはいなかった。
「できるかもしれません」
私はその言葉を聞いて、ようやく少しだけ目元を和らげた。
「やってみましょう」
言いながら、私はレディヴィアの両手を取る。
冷たくはなかった。
火の熱を受けていたせいか、雨の中にいたあとの手にしては、思ったよりずっと静かな温度だった。
レディヴィアは、明らかに困惑した顔をした。
けれど手は引かない。
「……こう、ですか」
「ええ」
私は頷く。
「たぶん」
その返しに、レディヴィアが困惑の表情を解いた。城砦についてから、私達は「たぶん」ばかりだったからだろう。
レディヴィアは表情を緩めて、重ねた手のひらに視線を向けた。それから、空気がわずかに変わった。
次の瞬間、彼女の瞳の奥で、赤い光が灯る。
焔ほど強くはない。
けれど、あの巨体を軽くした時と同じ、薄い膜の向こうで呼吸するような赤だった。静かで、けれど確かな魔の気配が、重ねた掌からこちらへ伝わってくる。
私はその熱を受け止める。
レディヴィアが不意に私を見た。
「……眼が」
小さく、けれどはっきりと呟く。
「青く光っています」
私は少しだけ笑みを深めた。
自分では見えない。けれど、たぶんそうなのだろうと思えた。
勇者と魔王。
その言葉を、私はもう一度、胸の内で繰り返す。
それから、重ねた手を、勢いよく空へ向けて打ち上げた。
世界が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
風が、止まったように思えた。
実際に止まったのかどうかは分からない。
ただ、それまで頬を撫で続けていた湿った流れが、ひと呼吸ぶんだけ途切れたのは確かだった。
空の上、厚い雲の奥で、小さく何かが光る。
次の瞬間、灰色の天が裂けた。
城塞を中心に、穴が空いたように雲が割れる。
端から押し広げられるのではない。真ん中から、静かに、しかし確かに、雲そのものがそこを避けたように空いていく。その奥から、白い光が滲んだ。
陽の光だった。
まだ弱い。
けれど、雲に閉ざされたままの光ではない。きちんと地上へ降りてくる、今日の光だった。
私の頬へ、またひと粒だけ水滴が落ちる。
隣で、レディヴィアが空を見上げたまま、言葉を失っている。
その横顔を見てから、私はもう一度、空をまっすぐ見た。
灰色の空に、ほんのひとつ、円く晴れた場所がある。そこだけが別の季節みたいに明るかった。
やがてレディヴィアが、驚いたままの声で言う。
「……空に、穴が空きました」
私はまだ空を見つめたまま、すぐには答えなかった。
ほんの少しの時間が過ぎる。
火はなお燃えている。
炭になる兵舎の音が、小さく鳴っている。
その向こうで、空だけが静かに開いている。
頬を流れる水滴が顎を伝って落ちた後、ようやく私は息を吐いた。
「晴れましたね」
そう言うと、レディヴィアがゆっくりとこちらを見る。その瞳の赤はもう消えていた。けれど、驚きだけはまだそこに残っている。
「はい」
ひどく真面目な返事だった。
「晴れました」
私たちは、しばらくその場に立ったままだった。
焼け落ちていく兵舎の熱がある。
空から差す光がある。
手には、まだほんの少しだけ、さっきの熱と痺れのようなものが残っていた。
私はその感覚を確かめるように、そっと手を閉じた。
終わるものは終わる。
けれど、全てが消えるわけではない。
燃えて、炭になって、地面が空いて。
そうして、そこに新しいものが建つ。
「空が、晴れました」
同じ言葉をこぼして、噛み締める。
レディヴィアは黙ったまま、じっと私を見つめていた。
空も同じだった。
灰色のまま全部が晴れるわけではない。けれど、ひとつ穴が開けば、その向こうに光があることは分かる。
私は、レディヴィアの両手をもう一度取った。
「レディヴィア様。厩舎は一緒に建てましょう。晴れているうちに二人で、ソルとロアの家を作りましょう」
レディヴィアは頷いて、重ねた両手を握った。
「新しく作るのは、初めてです」
そう言って、今度はレディヴィアが両手を勢いよく空に打ち上げる。
「もし雨が降ったら、もう一度晴らしてみましょう」
魔力を込めていない手のひらはただ空に広がって、二人揃って万歳しているような格好になる。
それでも、確かに空が晴れたような気がした。
これから何度でも空を晴らせるような、そんな感覚だった。




