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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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38/41

ep.38 終わる物

 兵舎の前で、私はしばらく立ち尽くしていた。


 崩れた屋根。剥がれた板壁。傾いた骨組み。

 かつては人を雨風から守っていたはずのものが、今はもう自分の形を支えることすらできずにいる。


 直すのではない。

 これはもう、その段階を過ぎていた。


 私は一度だけ周囲を見回した。

 火が広がって困るものはない。湿った地面が広く、風もさっきよりは穏やかだ。雨はまだ細かく落ちているが、逆にそれくらいのほうがよいのかもしれない。余計なところへ燃え移る心配が減る。


「……終わらせましょうか」


 誰にともなくそう言って、私は兵舎の前へ歩み寄る。


 まずは、残っていた骨組みを壊した。

 ただ力任せに潰すのではなく、重みのかかっているところから順に。柱の継ぎ目へ細い風を差し込み、腐った釘と痩せた木を外す。傾いていた梁がひとつ、低い音を立てて落ちる。


 続いてもう一本。屋根の残骸がずるりと崩れ、板と板が擦れ合う乾いた音が、湿った空気の中で短く響いた。


 形が完全に死ぬまでに、そう時間はかからなかった。


 兵舎は、ひと息ごとに兵舎ではなくなっていく。

 壁だったものが板になり、板だったものが木片になり、木片が濡れた土の上へ散っていく。


 私はそれらを、一つの場所へ寄せた。

 燃えるものと、燃え残りそうなもの。長いものと短いもの。濡れ方の強い板と、まだ芯に乾きを残している梁の欠片。


 屋根の残骸のあいだに、煤けた布切れが引っかかっていた。軍旗ではない。ただの、誰かの上着の裾のように見えた。

 兵舎はもう死んでいたが、人がいた気配だけは、まだ離れきっていない。


 それらを少しずつ、積む。

 低く、広く。空気の通り道を残すように。

 倒れた建物の残骸を、今度はひとつの火になる形へ組み替えていく。


 最後に、私は一歩だけ下がった。

 黒く濡れた木々の山が、そこにある。

 さっきまで兵舎だったもの。

 けれど、もう兵舎ではないもの。


 指先を上げる。

 火は、ほんの小さなものでよかった。


 最初の火種が、乾きを残した板の端へ触れる。

 すぐには燃え広がらない。濡れているぶん、火は慎重だった。白い煙を薄く吐きながら、じわじわと木肌を焦がしていく。私はそのまま、もうひとつ火を足し、さらにもうひとつだけ奥へ落とした。


 やがて、火はようやく決心したように、ぱち、と小さく鳴る。


 細い炎が、板の縁を走る。

 それが梁の割れ目へ入り込み、黒ずんだ木目を這い、次の瞬間には別の板へも移る。湿っているはずなのに、芯の乾いたところから順に熱が伝わっていく。煙が増えた。白に近いものから、少しずつ濃い色へ変わる。


 炎はそこでようやく、大きくなった。


 崩れた兵舎の残骸が、火の中で輪郭を失っていく。

 板壁だったものは反り返り、梁だったものは内側から赤く割れ、屋根の一部だった木片は、火に触れるたび短く爆ぜた。


 私は何も言わず、その火を見ていた。


 風はまだある。

 けれど今は、火を煽るほど強くはない。

 煙は高く立ちのぼり、灰色の空へ溶けていく。火の底では、すでに最初の板が炭の色を見せ始めていた。


 兵舎は、跡形もなくなっていく。


 だが、全部が消えるわけではない。

 燃えた建材は炭になる。

 残るのは、兵舎があった広いだけの地面。

 そして、これから何かを建てるための、空いた場所。


 作り直すのではない。

 ただ新しく。

 無駄になるのではない。

 ただ新しくなる。


 暖かいというより、熱い火だった。

 大きく、真っ直ぐに燃えている。

 けれど恐ろしい感じはしない。


 私はそのまま、しばらく動かなかった。


 背後で湿った土を踏む音がした。

 振り向かなくても、誰かは分かった。


「遠くから、煙が見えました」


 そう言って、レディヴィアは私を見た。

 けれど、その次にはもう、私ではなく燃えている兵舎のほうだけを見ていた。


「……燃えています」


 私は火を見たまま、小さく頷いた。


「ええ」


 火はなおも広がっている。

 黒い木が赤くなり、赤いところからまた崩れていく。


「でも」


 私は炎の向こうを見ながら続けた。


「全部なくなるわけではないです」


 レディヴィアが隣へ来る。

 並んで、私と同じように火を見た。


 しばらく、二人で黙って立っていた。


 燃える木の音だけがある。

 湿った板が爆ぜる音。梁の内側が崩れる音。火が空気を食う音。

 それらが全部重なって、ひとつの大きな音になっていた。


 やがて、レディヴィアが小さく言った。


「暖炉の火と、一緒です」


 その言葉に、私は少しだけ目を細めた。


「そうですね」


 暖炉に火をつけた時のことを思い出す。

 最初の夜、冷えた部屋で、ようやく人のいる場所になった火。

 厨房で、豆と麦を煮た火。

 浴場で、冷たい石の部屋を湯気で満たした火。


 ここへ来てから、何度も火をつけた。

 火をつけるたび、何かがただ燃えるだけではなく、別の形へ変わっていった。


 冷たい部屋は、眠れる部屋へ。

 食べられぬものは、食事へ。

 古い浴場は、人が身体を休める場所へ。


 そして今、死んだ兵舎は炭になり、広いだけの地面になる。

 その先に、ソルとロアのための新しい厩舎が建つのだろう。


 私は火を見たまま、静かに息を吐く。


「ここへ来てから」


 ぽつりと言うと、レディヴィアがこちらを見た気配がした。


「火をつけるたび、何かが人の場所になってきました」


 レディヴィアは返事を急がなかった。

 ただ、私の言葉をそのまま聞いている。


「暖炉も、厨房も、浴場も」


 私は少しだけ笑う。


「全部、そうでした」


 レディヴィアもまた、火へ視線を戻した。


「では、ここもですね」


「ええ」


 燃えていた兵舎の骨組みが、ちょうどそこで大きく崩れた。

 火の色が一段高くなる。黒く濡れていた木が、赤を通り越して白い灰の縁を見せる。


「ここも、そうです」


 二人で並んで、しばらくその火を眺めていた。


 言葉は要らなかった。

 ただ、燃えているものを見ているあいだに、ここへ来てからの火が、ひとつずつ胸の中でつながっていく。


 暖炉の火。

 厨房の火。

 浴場の火。

 そして今、兵舎を終わらせるこの火。


 どれも違う火だった。

 けれど全部、暮らしのための火だった。


 風が少しだけ向きを変え、熱が頬へ触れる。

 湿った外気の中で、その熱だけがひどくはっきりしていた。


 私はようやく火から目を離し、足元の広い地面を見た。兵舎の形はもうほとんど残っていない。


 ただ、ここに何かがあったことだけが、火の下の炭と、周りの土の色の違いで分かる。


 これからは、ここに新しいものが建つのだろう。

 炭になった木と、これから柱になる木は、きっと同じところから続いている。

 終わるものと、始まるものが、火を挟んで並んでいる。


 火は大きく燃えていた。

 その熱を頬へ受けながら、私はふと、空を見上げる。


 灰色だった。

 嵐の名残を抱えたままの、低く重い空だ。雨はもう本降りではない。けれど、止みきれずに残った雫が、ときおりぽつりと落ちてくる。頬へ当たり、そのまま細く伝った。


 燃える兵舎の熱と、空から落ちる冷たい水。

 終わったものと、終わりきらないものが、いまも同じ場所にあるような気がした。


「……レディヴィア様」


「はい」


「魔王は、空を晴らすことはできますか」


 隣で、レディヴィアが少しだけ目を瞬かせた気配がした。それから私と同じように空を見上げる。


 灰色の雲は、まだ厚い。

 火の煙がその下へ細く立ちのぼり、途中で風に押されて溶けていく。

 レディヴィアは、しばらく考えるように黙っていた。


 やがて、ひどく素直な声で言う。


「……難しいかもしれません」


「そうですか」


 私は唇へ指先を当てた。

 考えるというより、確かめるための癖みたいな仕草だった。


 難しい。

 たしかにそうだろう。

 空は広く、雲は重い。火のように、すぐ目の前にあるものではない。


 けれど、私はなお空を見たまま、小さく言葉を継いだ。


「勇者なら」


 ぽつりとそう零すと、レディヴィアは今度はすぐにこちらを見た。

 いつもの静かな目だった。けれど、その奥で何かがわずかに揺れた気がした。


「勇者と魔王なら、どうでしょうか」


 私はまだ空を見ていた。

 灰に染まった空。ぽつぽつと落ちる水滴。晴れきらない、止まりきらない景色。

 どこか、自分みたいだと思った。


 レディヴィアは私を見て、それからもう一度空を見上げる。ごく短い沈黙のあとで、静かに答えた。


「……それなら」


 声は低かったが、迷ってはいなかった。


「できるかもしれません」


 私はその言葉を聞いて、ようやく少しだけ目元を和らげた。


「やってみましょう」


 言いながら、私はレディヴィアの両手を取る。


 冷たくはなかった。

 火の熱を受けていたせいか、雨の中にいたあとの手にしては、思ったよりずっと静かな温度だった。


 レディヴィアは、明らかに困惑した顔をした。

 けれど手は引かない。


「……こう、ですか」


「ええ」


 私は頷く。


「たぶん」


 その返しに、レディヴィアが困惑の表情を解いた。城砦についてから、私達は「たぶん」ばかりだったからだろう。


 レディヴィアは表情を緩めて、重ねた手のひらに視線を向けた。それから、空気がわずかに変わった。


 次の瞬間、彼女の瞳の奥で、赤い光が灯る。


 焔ほど強くはない。

 けれど、あの巨体を軽くした時と同じ、薄い膜の向こうで呼吸するような赤だった。静かで、けれど確かな魔の気配が、重ねた掌からこちらへ伝わってくる。


 私はその熱を受け止める。

 レディヴィアが不意に私を見た。


「……眼が」


 小さく、けれどはっきりと呟く。


「青く光っています」


 私は少しだけ笑みを深めた。

 自分では見えない。けれど、たぶんそうなのだろうと思えた。


 勇者と魔王。

 その言葉を、私はもう一度、胸の内で繰り返す。


 それから、重ねた手を、勢いよく空へ向けて打ち上げた。


 世界が、ほんの少しだけ揺れた気がした。


 風が、止まったように思えた。


 実際に止まったのかどうかは分からない。

 ただ、それまで頬を撫で続けていた湿った流れが、ひと呼吸ぶんだけ途切れたのは確かだった。


 空の上、厚い雲の奥で、小さく何かが光る。


 次の瞬間、灰色の天が裂けた。


 城塞を中心に、穴が空いたように雲が割れる。

 端から押し広げられるのではない。真ん中から、静かに、しかし確かに、雲そのものがそこを避けたように空いていく。その奥から、白い光が滲んだ。


 陽の光だった。


 まだ弱い。

 けれど、雲に閉ざされたままの光ではない。きちんと地上へ降りてくる、今日の光だった。


 私の頬へ、またひと粒だけ水滴が落ちる。

 隣で、レディヴィアが空を見上げたまま、言葉を失っている。


 その横顔を見てから、私はもう一度、空をまっすぐ見た。


 灰色の空に、ほんのひとつ、円く晴れた場所がある。そこだけが別の季節みたいに明るかった。


 やがてレディヴィアが、驚いたままの声で言う。


「……空に、穴が空きました」


 私はまだ空を見つめたまま、すぐには答えなかった。


 ほんの少しの時間が過ぎる。


 火はなお燃えている。

 炭になる兵舎の音が、小さく鳴っている。

 その向こうで、空だけが静かに開いている。


 頬を流れる水滴が顎を伝って落ちた後、ようやく私は息を吐いた。


「晴れましたね」


 そう言うと、レディヴィアがゆっくりとこちらを見る。その瞳の赤はもう消えていた。けれど、驚きだけはまだそこに残っている。


「はい」


 ひどく真面目な返事だった。


「晴れました」


 私たちは、しばらくその場に立ったままだった。


 焼け落ちていく兵舎の熱がある。

 空から差す光がある。

 手には、まだほんの少しだけ、さっきの熱と痺れのようなものが残っていた。


 私はその感覚を確かめるように、そっと手を閉じた。


 終わるものは終わる。

 けれど、全てが消えるわけではない。


 燃えて、炭になって、地面が空いて。

 そうして、そこに新しいものが建つ。


「空が、晴れました」


 同じ言葉をこぼして、噛み締める。

 レディヴィアは黙ったまま、じっと私を見つめていた。


 空も同じだった。

 灰色のまま全部が晴れるわけではない。けれど、ひとつ穴が開けば、その向こうに光があることは分かる。


 私は、レディヴィアの両手をもう一度取った。


「レディヴィア様。厩舎は一緒に建てましょう。晴れているうちに二人で、ソルとロアの家を作りましょう」


 レディヴィアは頷いて、重ねた両手を握った。


「新しく作るのは、初めてです」


 そう言って、今度はレディヴィアが両手を勢いよく空に打ち上げる。


「もし雨が降ったら、もう一度晴らしてみましょう」


 魔力を込めていない手のひらはただ空に広がって、二人揃って万歳しているような格好になる。


 それでも、確かに空が晴れたような気がした。

 これから何度でも空を晴らせるような、そんな感覚だった。

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