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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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ep.36 明け

 目が覚めた時には、部屋の明るさが昨夜とは少し違っていた。


 窓の向こうはまだ白く曇っているが、夜の底はもう抜けている。

 満足な眠りとは遠い。

 けれど、眠れなかったわけでもない。


 私は毛布の中で、ゆっくりと目を開ける。


 暖炉のほうから、かすかな熱が来ている。

 それに混じって、近いところに生き物の気配があった。

 低い鼻息。小さく布を擦る音。重さを床へ預けている気配。

 視線を向けると、ソルとロアはもう起きていた。

 壁際に寄り添うように立ち、じっとこちらを見ている。蹄で床を掻くことはない。昨夜ほど怯えてはいないらしかった。ただ、嵐の名残を気にしているのか、耳は時折、扉のほうへ向く。


 そして、そのすぐそばに、ノクトもいた。

 夜のあいだにどこかへ行くかと思っていたが、まだ二頭の近くに伏せている。

 黄みがかった目だけを開け、こちらが目を覚ましたのを知ると、耳をひとつだけ動かした。馬たちの体温の近くが、やはり居心地よかったのだろう。


 ゆっくりと身体を起こす。

 その時、反対側から静かな声が届いた。


「……おはようございます」


 ルルティナだった。

 彼女はもう起きていたらしい。毛布を肩のあたりまで寄せたまま、こちらを見ている。寝起きのせいか、いつもより少しだけ柔らかい顔だった。


「おはようございます、ルルティナ」


 そう返すと、ルルティナは小さく頷く。

 ちょうどそのあいだで、毛布がわずかに動いた。


 レディヴィアが目を覚ます。

 先に睫毛が揺れ、それからゆっくりと瞼が上がる。まだ少しだけ眠たそうに、けれど確かにこちらの気配を追って、視線が私とルルティナのあいだを行き来した。


「……おはようございます」


「おはようございます、レディヴィア様」


 私とルルティナがほとんど同時に返すと、レディヴィアは半分ほど身を起こし、それから部屋の中をゆっくり見回した。


 暖炉。毛布。壁際のソルとロア。ノクト。私。ルルティナ。視線がひと巡りする。


「……不思議な感じがします」


「ええ」


 隣でルルティナも、小さく息をつく。


「……そうですね」


 改めて見れば、たしかに不思議だった。三人と三頭が一つの部屋にいて、火のそばで夜を越している。少し前までなら、想像もしなかった形だ。


 窓の外では、まだ雨が細かく打ちつけていた。

 ただ、昨夜のように壁ごと揺らすような暴れ方ではない。風は少し落ち着いたらしい。それでも雲は低く厚く、空の色は白より灰に近かった。ときおり不意に強い風が来て、窓ががた、と鳴る。


 私はその音を聞きながら、毛布を押しのける。


「今日は、まず城の被害を見てから行動を決めましょう」


 そう言うと、レディヴィアがすぐに頷いた。

 ルルティナは軽く頷いた後、袖口を見下ろした。


「いったん部屋へ戻って着替えて参ります」


 私はルルティナに頷き返す。


「着替えたら厨房で合流しましょう」


「はい」


 ルルティナはそのまま立ち上がりかけて、けれどすぐには動かず、一度だけ部屋の中を見回す。ソルとロア。ノクト。暖炉。私たち。

 それを目で確かめてから、ようやく毛布を畳み、静かに立ち上がった。


「では、先に失礼いたします」


「ええ」


 ルルティナが部屋を出ていく。

 扉が閉まると、暖炉の部屋はまた少し静かになった。


 私とレディヴィアも起き上がる。


 身支度を整え、外套を羽織り、簡単に髪をまとめる。

 外へ出る前に、まずはこの部屋を元に戻しておかなければならない。


「三頭も、出したほうがよさそうですね」


 私が言うと、レディヴィアがソルとロアのほうを見る。


「はい。ここでは狭すぎます」


 実際、その通りだった。

 昨夜は正解だったが、朝の光の中で見れば、暖炉の部屋はやはり人のための大きさしかない。


 私はソルの首筋へ手を伸ばし、レディヴィアはロアを促した。

 二頭ともすぐには動かなかったが、夜の緊張はだいぶ抜けているらしい。少し撫でてやると、ゆっくりと身体を起こし、素直に扉のほうへ歩き出した。


 ノクトもまた、低く鼻を鳴らし、ソルとロアのあとを追うように扉へ向かう。



 前室は、少し荒れていた。

 扉の隙間から吹き込んだ雨で、藁の端が湿り、床の一部には葉や細い枝が散っていた。嵐をやりすごす場所としては十分だったが、落ち着いて置いておくにはもう少し手を入れたほうがよさそうだった。


「やはり、暖炉の部屋では狭すぎましたね」


 私がそう言うと、レディヴィアは頷いた。


「はい。前室は少し荒れていますが、でも、こちらのほうがいいです」


 ソルとロアは、藁の上へ戻ると、ようやく少し落ち着いたように首を下げた。

 ノクトはしばらくそのそばにいたが、やがて正門のほうへ目を向ける。

 私はその気配に気づき、扉のほうを見る。

 ノクトは一度だけこちらを振り返った。


「……行きますか」


 問いかけたところで、ノクトはもちろん答えない。

 ただ、するりと正門を抜け、外へ出ていった。嵐のあとを確かめるように、迷いのない足取りだった。

 私はその背を見送り、小さく息を吐く。


「行ってしまいました」


「気が向いたら、また戻ると思います」


「ええ。そうですね」


 正門は半ば開けたままにしておく。閉じ込めるより、戻れるようにしておくほうがノクトには合っているような気がした。


 厨房へ向かうと、着替えを済ませたルルティナが朝食の準備を進めていた。


「お待たせいたしました」


「いえ」


 ルルティナは小さく首を振る。


「私も、今来たばかりですので」


 厨房へ入る。

 石の床は冷たかったが、炉の火が暖かさを広げていた。


 ルルティナは炉へ火を入れ、鍋をかけている所だった。

 私はルルティナの隣に立ち、鍋を覗き込む。


 豆と麦、それから四角に切り落とされた肉。

 少しだけ豪華な朝食。


 私は朝食をルルティナに任せて、代わりにに器を並べる。

 レディヴィアは水を汲みにいったようだった。


 それぞれが、もう迷わずに動いていた。


 やがて三つの椀が並ぶ。

 湯気が立つ。窓の外ではまだ雨が細く落ちている。変わり映えのしない朝食だったが、椀が三つあることだけで、昨日までとは違っていた。


 私たちは木箱へ腰を下ろし、少し遅い朝食を始めた。

 しばらくは誰も多くを語らない。匙が椀に触れる音だけが続く。


 その静けさの中で、私はふと、ルルティナへ視線を向けた。

 彼女は椀を両手で包み、まだ少しぎこちない手つきで食べている。けれど、そのぎこちなさも、昨日よりは薄い。


 レディヴィアは湯気の向こうで、静かに窓の外を見ていた。

 雨。低い雲。嵐の名残。


 今日も簡単ではない一日になるのだろう。

 それでも、揃って朝食を囲んでいる。

 その事実だけで、ひとまずは十分だった。


 朝食を終えるころには、外の雨は朝よりいくぶん細くなっていた。

 けれど止んだわけではない。窓の外の白さはなお曇り、石の縁を伝う水だけが絶えず細く落ちている。


 私は椀を重ね、卓の端へ寄せた。


「……では、見て回りましょうか」


 そう言うと、レディヴィアが頷く。ルルティナもまた、手を止めて静かに立ち上がった。


 三人でまず向かったのは広間だった。

 正門のあたりには、昨夜吹き込んだ葉と細枝がまだ残っている。床はところどころ濡れ、壁際には風で転がされたらしい小さな木片まで寄っていた。けれど、それだけだった。扉そのものは外れていないし、閂もまだきちんと役目を果たしている。


「思ったよりは、ましですね」


 私が言うと、ルルティナが濡れた床を見下ろして頷いた。


「はい。拭けば済む程度です」


 次に前室を見る。

 こちらも藁の端が湿り、隙間から吹き込んだ葉が散ってはいたが、壁や柱に新しい裂けはない。薪の山も崩れていなかった。搬入口の板戸は少し軋みを増していたが、いまにも外れそうというほどではない。


 中庭の水場は、水が少し強く落ちていた。

 雨のせいだろう。石の縁は濡れているが、濁りはない。浴場も見たが、炉は無事で、湯船のまわりへ吹き込みが増えた程度だった。


 最後に、城の外壁沿いをざっと見て回る。

 崩れていた箇所から雨風が入り込んだ跡はある。板を当てていただけのところは少し歪み、廊下の角には新しく湿った染みもできていた。けれど、昨夜の嵐を思えば、城は思っていた以上によく耐えていた。


「……大きな被害は、ありませんね」


 私がそう言うと、レディヴィアは灰色の空を一度見上げてから頷いた。


「はい。嫌な音はたくさんしましたが、崩れませんでした」


「住むには大変ですが、守りの硬さは城の良い所ですね」


 そう言うと、ルルティナがほんの少しだけ目元を和らげた。


「その点は、助かります」


 致命的な損壊はない。けれど、放っておけば次の雨や雪で困る場所はあちこちにある。つまり、今日もやるべきことは多いということだ。


 暖炉の部屋へ戻ると、湿った外気より乾いた火の匂いのほうが先に身体へ戻ってきた。私は外套の水気を軽く払い、二人を見た。


「雨はまだ降っていますが、止むのを待っている余裕もなさそうです」


 レディヴィアが静かに頷く。


「はい」


「ですので、今日はそれぞれ動きましょう」


 そう言うと、レディヴィアはほとんど間を置かずに口を開いた。


「狩りへ行きます」


 その声音はまっすぐだった。

 昨日決めたことを、そのまま自分の役目として受け取っている声だ。


「雨ですが、大丈夫ですか?」


 私が一応そう問うと、レディヴィアは少しだけ首を傾げた。


「問題ありません」


 それから、ごく当たり前のことのように続ける。


「今日のうちに、もう少し食べるものを増やしておきたいです」


 私は小さく息を吐いてから頷いた。


「ええ。お願いします」


 ルルティナもまた、そこで静かに口を開く。


「では、私は城の掃除を進めます」


 昨夜の風で荒れた広間、前室、廊下。

 それに加えて、濡れた布や寝具の点検もしなければならないだろう。彼女の役目としては、むしろ明確だった。


「水場のまわりも見ておきます。吹き込みのあったところは、先に拭いてしまったほうがよろしいかと」


「助かります」


 ルルティナは小さく頷いた。

 残る視線が自然にこちらへ向く。


「私は城の外、水の流れを見た後に外庭を整えます」


 そう言うと、レディヴィアが目を上げる。


「厩舎ですか」


「ええ」


 私は頷いた。


「昨日の嵐を思えば、急ぐ必要もあるかと」


 ルルティナもそれを聞いて、静かに頷いた。


「ソルとロアの居場所が決まれば、前室ももっと使いやすくなります」


「ええ。薪と馬を同じところへ置き続けるのも、あまり落ち着きませんし」


 レディヴィアが、ほんの少しだけ目元を和らげる。


「ちゃんと屋根を作りましょう」


「そうしたいですね」


 私は暖炉の火を一度だけ見てから、二人へ向き直る。


「では、昼までにできるところまで進めましょう。何かあれば、すぐ戻ること」


 レディヴィアは頷く。


「はい」


 ルルティナも、静かにそれに続いた。


「分かりました」


 三人の役目が、そこでようやく今日の形を持つ。

 外では雨がまだ細く落ちている。けれど城の中では、もうそれぞれが何をすべきか決まっていた。


 私は外套の紐を結び直す。

 厩舎を立てるには、樹を新しく切り落とす必要がある。木板に削る必要も。

 考えることは多い。だが、不思議と嫌ではなかった。


 レディヴィアは狩りへ。

 ルルティナは城の掃除へ。

 私は外庭と厩舎へ。

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