ep.35 嵐
真夜中、風の音で目が覚めた。
最初は夢の続きかと思った。
暗い海の底みたいに、どこか遠くで低いものが鳴っている。けれど意識が浮かぶにつれて、その音は少しずつ輪郭を持ちはじめた。壁の外を、大きなものが何度も通り過ぎていくような唸り。窓枠を細かく叩くもの。石の城そのものが、ひと息ごとに軋んでいるような錯覚。
嵐だ。
私は目を開けた。
部屋は暗い。暖炉の火は灰の奥で赤を残しているだけで、跳ねるほどの炎はもうない。けれど、そのわずかな明かりだけでも、窓の向こうがひどく荒れていることは分かった。風は止まらない。壁の向こうで何かがうねり、城全体を揺らしているように思えた。
実際に揺れているのか、それとも音のせいでそう感じるだけなのか、すぐには分からなかった。
毛布の内側で、そっと息を整える。
ノクトは大丈夫だろうか。
正門は開けてあるが、城の中は荒れていないだろうか。
ソルとロアは、前室で怯えていないだろうか。
思い浮かんだ順に、胸の奥へ小さな重みが落ちる。
起きて見に行かなければと思った。けれど毛布を持ち上げかけたところで、私は手を止めた。
背を掴まれた、あの夜の熱を思い出す。
私は一度だけ目を閉じ、それから隣へ身体を向けた。
レディヴィアは眠っている。けれど深い眠りではないらしく、私が少し身じろぐと、睫毛がかすかに揺れた。
「……レディヴィア様」
呼ぶと、彼女はすぐには起きなかった。
もう一度だけ、少し近くで名を呼ぶ。
「レディヴィア様」
今度はゆっくりと瞼が開く。
寝起きのせいで、いつもより少しだけ輪郭のぼやけた目が、暗い中で私を映した。しばらく焦点を探るように瞬きをしてから、レディヴィアは目元を軽く擦る。
「……アルシエラ様」
声もまだ眠い。
けれどちゃんと返ってきたことに、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
「起こしてしまってすみません」
「いいえ」
言いながら、レディヴィアは半分ほど身を起こした。
耳を澄ますように、少しだけ顔を上げる。次の瞬間、窓を打つ風の音がちょうどひときわ強くなり、部屋の扉まで低く震えた。
「……すごいです」
「ええ」
私は頷く。
「ソルとロア、ノクトの様子を見に行こうかと思ったのですが」
そこまで言うと、レディヴィアはもう目を擦っていなかった。
まだ眠たそうではある。けれど意識はすぐに起き上がったらしい。毛布を押しのけ、外套へ手を伸ばす。
「一緒に行きましょう」
その言葉に、私は小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「一緒です」
短くそう答えてから、レディヴィアは夜着の上から外套を羽織る。紐を結ぶ手つきはまだ少し遅い。それでも迷いはなかった。
部屋を出る前に、私は暖炉へ細い薪を一本だけ足した。
灰の奥の赤がじわりと息を吹き返し、小さな炎が立つ。戻ってくるまで、これで持つだろう。
扉を開ける。
廊下の空気は冷たかったが、いつもの静けさはどこにもなかった。風の音が石壁を伝い、城の内側へまで入り込んでいる。どこかの隙間が鳴っているのか、細い笛のような高い音まで混じっていた。
まず向かったのは、ルルティナの部屋だった。
書官室の前まで来ると、扉の下から明かりがわずかに漏れていた。私はレディヴィアと顔を見合わせ、そっと扉を叩く。
「ルルティナ」
内側で、すぐに何かが動く音がした。
「……はい」
返事は起きている者の声だった。
扉を開けると、書官室の中は思っていたより明るかった。暖炉に火が入り、光が揺れている。
ルルティナは窓際に立っていた。
腕を伸ばし、窓の隙間へ厚い布を押し当てている。どうやら板戸の合わせ目から、雨が吹き込んでいたらしい。窓枠の下には、すでに水を受けるための鉢まで置かれていた。
「起こしてしまったかと思いましたが」
私がそう言うと、ルルティナは振り返り、小さく首を振った。
「いえ、風の音で目が覚めましたので」
その言い方は落ち着いていた。
けれど、窓の布を押さえる手には少しだけ力が入っている。隙間風は、かなり強いのだろう。
「こちら、少しだけ雨が」
「少しでは無さそうです」
レディヴィアが真面目に答えた。
ルルティナは一瞬だけ目を瞬かせ、それから目元を和らげる。
「……とても、雨が入り込んできました」
「これでは、ゆっくりと体を休めるのは難しいですね」
私は窓の下へ寄り、布の端を押さえるのを手伝う。風はまだ押してくるが、塞ぎ方がきちんとしているので、さっきよりずっとましだった。
「ソルとロアと、ノクトの様子を見に行こうと思っていました」
そう言うと、ルルティナはすぐに顔を上げた。
「私も参ります」
迷いのない返事だった。
私は頷く。
「では、一緒に」
隙間に布を押し込み、穴を塞いでから三人で廊下へ出る。
風は収まることなく、古い城のあちこちから入り込んだ風が廊下を走っていた。
廊下を進み、広間の扉を開けた途端に風に髪が激しくなびく。
正門から風が入り込み、広間は雨と舞い込んだ草や葉で荒れていた。
そして、その中央近くに、黒い影があった。
ノクトだった。
嵐の中、しっかり城に戻ってきたようだった。
けれど、いつものように壁際でゆったり伏せているのではない。石床の上に半ば丸くなりながらも、落ち着かぬように鼻先を揺らし、何度も低く息を吐いていた。毛並みはずぶ濡れで、鉄色の毛の先からぽたりぽたりと水が落ちている。肩のあたりは濡れて重たく見え、耳も少し寝ていた。
「ノクト」
レディヴィアが先に呼ぶ。
ノクトはその声に耳を動かし、黄の目を上げた。けれど立ち上がりはしない。ただ、三人の姿を認めると、少しだけ鼻を鳴らし、また身を縮める。
「寒そうです」
レディヴィアがそう言いながら近づくと、ノクトは拒まなかった。
背を撫でる。濡れた毛が、手の下で冷たく沈む。
「ちゃんと戻ってこれたのですね」
私が言うと、ノクトは答えの代わりに一度だけ目を細めた。
正門を開けておいてよかった。
外にいたままの姿を想像して、すこし胸に痛みが走る。
それでも、城に戻って来たノクトの姿に胸をなでおろした。
次に前室へ向かう。
扉を開ける前から、蹄が石を打つ落ち着かぬ音が聞こえていた。
やはり、と思いながら中へ入る。ソルとロアは壁際の藁の上にいたが、明らかに落ち着いていなかった。首を高くし、耳を動かし、前脚で何度も床を掻く。風が鳴るたび、身体を揺らして鼻を鳴らす。
「大丈夫ですよ」
私はソルの首筋へ手を回す。
レディヴィアもロアへ寄る。二頭とも私たちの匂いを確かめるように鼻先を寄せたが、それでもすぐには落ち着かない。嵐の音が近すぎるのだろう。前室は雪はしのげても、音までは遮れない。
何より、前室の門では入り込む雨風も、寒さも防げない。
体を濡らしたままにしては、弱ってしまうだろう。
ルルティナが扉際から低く言う。
「ここでは、厳しいかもしれませんね」
彼女も同じことを考えていた。
けれど、次に口を開いたのはレディヴィアだった。
「暖炉の部屋へ行きましょう」
私は振り向く。
レディヴィアはロアの首筋へ手を添えたまま、まっすぐこちらを見ていた。
「今日は、まとまって寝ます」
その提案は、驚くほどすんなり胸へ落ちた。
狭い。たぶん、かなり狭い。けれど、それでよかった。今夜は広さより、同じ火の近くにいることのほうが大事だった。
「……ええ」
私は頷く。
「そうしましょう」
ルルティナも小さく息をつき、それからしっかりと頷いた。
「そのほうが、安心です」
こうして、三人と三頭で、暖炉の部屋へ戻ることになった。
暖炉の部屋の扉を開けると、さきほど足した薪の火がまだ生きていた。
赤い熱と、小さく立つ炎。石の壁の中で、それだけがあたたかい。
とはいえ、やはり狭い。
寝床はもともと二人ぶんに整えたものだし、家具もある。
そこへ馬二頭とノクトまでとなると、かなり窮屈だった。
けれど誰も、それを口にして困った顔はしなかった。むしろ、どう詰めれば全員が少しでも楽か、それだけを考えている顔だった。
まず、暖炉からいちばん遠い壁際を空ける。
そこへソルとロアを並べた。最初は躊躇ったが、二頭ともルルティナと私に導かれるまま、どうにか身を落ち着けた。
長椅子、寝台、棚を動かして、布で部屋を区切る。
ソルとロアの視界から火を遮ると、二頭は少しずつ落ち着きを取り戻し、蹄で床を打つ音も少しずつ減っていった。
ノクトは最初、扉の近くで座り込んでいた。
けれど、ソルとロアが落ち着くと、ゆっくりとそちらへ歩み寄る。警戒していないわけではない。けれど、嵐の夜に一人で壁際へいるより、あちらの体温のほうがましだと判断したのだろう。
ノクトはロアの脇へ鼻先を寄せる。
ロアは一度だけ大きく息を吸い、少し迷うように耳を動かしたあと、そっと鼻先でノクトの額へ触れた。ソルもまた、低く鼻を鳴らし、ノクトの肩へ軽く鼻先を当てる。
三頭のあいだに、言葉のない確認が行き交う。
匂いを知る。
体温を知る。
ここで今夜を越す相手だと知る。
それだけで十分だったらしい。
ノクトはゆっくりと身体を折り、二頭の馬のあいだへ少しだけ身を寄せるようにして伏せた。ソルもロアも、それを拒まない。むしろ身体をずらして場所を作るような気配さえあった。
その光景を見て、私は息を詰めた。
あまりに自然で、あまりに静かで、だからこそ胸へ深く落ちてくるものがあった。
「……ちゃんと、分かったのですね」
レディヴィアが小さく言う。
私は頷く。
次に、人のほうの配置を決める。
ルルティナを寝台にとも思ったが、部屋を区切る為に使ってしまった。
結局、床の寝床をもう少し広げ、厚い布と毛布を継ぎ足して、三人が横になれる形へ整える。窮屈ではある。けれど、どうにか身体を休めるくらいはできそうだった。
ルルティナは最初、部屋の端で十分だと言った。
レディヴィアは真面目な顔で、それでは寒いと遮る。
私はそのやりとりを聞きながら、火の近さと毛布の届き方を見て、結局、三人が並んで寝る形に収まった。
全員の居場所が決まり、扉をきちんと閉め直す。
風の音はまだ壁の向こうで唸っている。時折、本当に城全体が揺れているのではないかと思うほどの音が来る。けれど、さっき一人で目を覚ました時より、その音は遠かった。
私は寝床へ入り、毛布を肩まで引き上げる。
隣ではレディヴィアも身体を横たえ、ルルティナは反対側で静かに息を整えていた。暖炉の火は赤く、安定している。
馬の気配がある。
ノクトの低い呼吸が混じる。
三人ぶんの体温が、毛布の内側へ少しずつたまっていく。
「……狭いですね」
私が小さく言うと、レディヴィアがすぐに答えた。
「はい。かなりです」
その返事に、ルルティナがごく小さく息を漏らす。
笑いに近かった。
「申し訳ありません」
「いいえ」
私は目を閉じかけながら答える。
「嵐ですから」
レディヴィアも言った。
「今日は、これで正解です」
その言葉に、私は毛布の中で少しだけ目元を和らげる。
暖炉が、ぱち、と鳴る。
風はなおも窓の外を叩いている。けれどそのたび、近くの体温があることがはっきり分かった。
ソルが低く鼻を鳴らす。
ロアがそれに応える。
ノクトの喉の奥から、短いくぐもった音が返る。
三頭とも、もう互いをただの異物とは思っていないのだろう。
その気配だけで、胸の奥のどこかが静かにあたたかくなった。
嵐の夜だった。
城の外では風が荒れ、壁を揺らし、窓を鳴らしている。
それでも、この部屋の中には火があって、息づかいがあって、眠ろうとしているものたちがいる。
それだけで、十分だった。
やがて、レディヴィアが本当に小さな声で言った。
「……アルシエラ様」
「はい」
「起こしてくれて、よかったです」
私はその言葉を、しばらく胸の中で受け止めてから答えた。
「ええ」
風がもう一度、大きく城を叩く。
けれど今度は、その音に目を覚まされることはない気がした。
私は毛布の端を少しだけ引き寄せ、静かに目を閉じた。
「良い夜を」




