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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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35/41

ep.35 嵐

 真夜中、風の音で目が覚めた。


 最初は夢の続きかと思った。

 暗い海の底みたいに、どこか遠くで低いものが鳴っている。けれど意識が浮かぶにつれて、その音は少しずつ輪郭を持ちはじめた。壁の外を、大きなものが何度も通り過ぎていくような唸り。窓枠を細かく叩くもの。石の城そのものが、ひと息ごとに軋んでいるような錯覚。


 嵐だ。


 私は目を開けた。

 部屋は暗い。暖炉の火は灰の奥で赤を残しているだけで、跳ねるほどの炎はもうない。けれど、そのわずかな明かりだけでも、窓の向こうがひどく荒れていることは分かった。風は止まらない。壁の向こうで何かがうねり、城全体を揺らしているように思えた。


 実際に揺れているのか、それとも音のせいでそう感じるだけなのか、すぐには分からなかった。


 毛布の内側で、そっと息を整える。


 ノクトは大丈夫だろうか。

 正門は開けてあるが、城の中は荒れていないだろうか。

 ソルとロアは、前室で怯えていないだろうか。


 思い浮かんだ順に、胸の奥へ小さな重みが落ちる。

 起きて見に行かなければと思った。けれど毛布を持ち上げかけたところで、私は手を止めた。


 背を掴まれた、あの夜の熱を思い出す。


 私は一度だけ目を閉じ、それから隣へ身体を向けた。

 レディヴィアは眠っている。けれど深い眠りではないらしく、私が少し身じろぐと、睫毛がかすかに揺れた。


「……レディヴィア様」


 呼ぶと、彼女はすぐには起きなかった。

 もう一度だけ、少し近くで名を呼ぶ。


「レディヴィア様」


 今度はゆっくりと瞼が開く。

 寝起きのせいで、いつもより少しだけ輪郭のぼやけた目が、暗い中で私を映した。しばらく焦点を探るように瞬きをしてから、レディヴィアは目元を軽く擦る。


「……アルシエラ様」


 声もまだ眠い。

 けれどちゃんと返ってきたことに、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。


「起こしてしまってすみません」


「いいえ」


 言いながら、レディヴィアは半分ほど身を起こした。

 耳を澄ますように、少しだけ顔を上げる。次の瞬間、窓を打つ風の音がちょうどひときわ強くなり、部屋の扉まで低く震えた。


「……すごいです」


「ええ」


 私は頷く。


「ソルとロア、ノクトの様子を見に行こうかと思ったのですが」


 そこまで言うと、レディヴィアはもう目を擦っていなかった。

 まだ眠たそうではある。けれど意識はすぐに起き上がったらしい。毛布を押しのけ、外套へ手を伸ばす。


「一緒に行きましょう」


 その言葉に、私は小さく息を吐いた。


「ありがとうございます」


「一緒です」


 短くそう答えてから、レディヴィアは夜着の上から外套を羽織る。紐を結ぶ手つきはまだ少し遅い。それでも迷いはなかった。


 部屋を出る前に、私は暖炉へ細い薪を一本だけ足した。

 灰の奥の赤がじわりと息を吹き返し、小さな炎が立つ。戻ってくるまで、これで持つだろう。


 扉を開ける。

 廊下の空気は冷たかったが、いつもの静けさはどこにもなかった。風の音が石壁を伝い、城の内側へまで入り込んでいる。どこかの隙間が鳴っているのか、細い笛のような高い音まで混じっていた。


 まず向かったのは、ルルティナの部屋だった。


 書官室の前まで来ると、扉の下から明かりがわずかに漏れていた。私はレディヴィアと顔を見合わせ、そっと扉を叩く。


「ルルティナ」


 内側で、すぐに何かが動く音がした。


「……はい」


 返事は起きている者の声だった。

 扉を開けると、書官室の中は思っていたより明るかった。暖炉に火が入り、光が揺れている。


 ルルティナは窓際に立っていた。

 腕を伸ばし、窓の隙間へ厚い布を押し当てている。どうやら板戸の合わせ目から、雨が吹き込んでいたらしい。窓枠の下には、すでに水を受けるための鉢まで置かれていた。


「起こしてしまったかと思いましたが」


 私がそう言うと、ルルティナは振り返り、小さく首を振った。


「いえ、風の音で目が覚めましたので」


 その言い方は落ち着いていた。

 けれど、窓の布を押さえる手には少しだけ力が入っている。隙間風は、かなり強いのだろう。


「こちら、少しだけ雨が」


「少しでは無さそうです」


 レディヴィアが真面目に答えた。

 ルルティナは一瞬だけ目を瞬かせ、それから目元を和らげる。


「……とても、雨が入り込んできました」


「これでは、ゆっくりと体を休めるのは難しいですね」


 私は窓の下へ寄り、布の端を押さえるのを手伝う。風はまだ押してくるが、塞ぎ方がきちんとしているので、さっきよりずっとましだった。


「ソルとロアと、ノクトの様子を見に行こうと思っていました」


 そう言うと、ルルティナはすぐに顔を上げた。


「私も参ります」


 迷いのない返事だった。

 私は頷く。


「では、一緒に」


 隙間に布を押し込み、穴を塞いでから三人で廊下へ出る。

 風は収まることなく、古い城のあちこちから入り込んだ風が廊下を走っていた。


 廊下を進み、広間の扉を開けた途端に風に髪が激しくなびく。

 正門から風が入り込み、広間は雨と舞い込んだ草や葉で荒れていた。


 そして、その中央近くに、黒い影があった。


 ノクトだった。


 嵐の中、しっかり城に戻ってきたようだった。

 けれど、いつものように壁際でゆったり伏せているのではない。石床の上に半ば丸くなりながらも、落ち着かぬように鼻先を揺らし、何度も低く息を吐いていた。毛並みはずぶ濡れで、鉄色の毛の先からぽたりぽたりと水が落ちている。肩のあたりは濡れて重たく見え、耳も少し寝ていた。


「ノクト」


 レディヴィアが先に呼ぶ。

 ノクトはその声に耳を動かし、黄の目を上げた。けれど立ち上がりはしない。ただ、三人の姿を認めると、少しだけ鼻を鳴らし、また身を縮める。


「寒そうです」


 レディヴィアがそう言いながら近づくと、ノクトは拒まなかった。

 背を撫でる。濡れた毛が、手の下で冷たく沈む。


「ちゃんと戻ってこれたのですね」


 私が言うと、ノクトは答えの代わりに一度だけ目を細めた。

 正門を開けておいてよかった。

 外にいたままの姿を想像して、すこし胸に痛みが走る。


 それでも、城に戻って来たノクトの姿に胸をなでおろした。


 次に前室へ向かう。


 扉を開ける前から、蹄が石を打つ落ち着かぬ音が聞こえていた。

 やはり、と思いながら中へ入る。ソルとロアは壁際の藁の上にいたが、明らかに落ち着いていなかった。首を高くし、耳を動かし、前脚で何度も床を掻く。風が鳴るたび、身体を揺らして鼻を鳴らす。


「大丈夫ですよ」


 私はソルの首筋へ手を回す。

 レディヴィアもロアへ寄る。二頭とも私たちの匂いを確かめるように鼻先を寄せたが、それでもすぐには落ち着かない。嵐の音が近すぎるのだろう。前室は雪はしのげても、音までは遮れない。


 何より、前室の門では入り込む雨風も、寒さも防げない。

 体を濡らしたままにしては、弱ってしまうだろう。


 ルルティナが扉際から低く言う。


「ここでは、厳しいかもしれませんね」


 彼女も同じことを考えていた。

 けれど、次に口を開いたのはレディヴィアだった。


「暖炉の部屋へ行きましょう」


 私は振り向く。

 レディヴィアはロアの首筋へ手を添えたまま、まっすぐこちらを見ていた。


「今日は、まとまって寝ます」


 その提案は、驚くほどすんなり胸へ落ちた。

 狭い。たぶん、かなり狭い。けれど、それでよかった。今夜は広さより、同じ火の近くにいることのほうが大事だった。


「……ええ」


 私は頷く。


「そうしましょう」


 ルルティナも小さく息をつき、それからしっかりと頷いた。


「そのほうが、安心です」


 こうして、三人と三頭で、暖炉の部屋へ戻ることになった。


 暖炉の部屋の扉を開けると、さきほど足した薪の火がまだ生きていた。

 赤い熱と、小さく立つ炎。石の壁の中で、それだけがあたたかい。


 とはいえ、やはり狭い。


 寝床はもともと二人ぶんに整えたものだし、家具もある。

 そこへ馬二頭とノクトまでとなると、かなり窮屈だった。

 けれど誰も、それを口にして困った顔はしなかった。むしろ、どう詰めれば全員が少しでも楽か、それだけを考えている顔だった。


 まず、暖炉からいちばん遠い壁際を空ける。

 そこへソルとロアを並べた。最初は躊躇ったが、二頭ともルルティナと私に導かれるまま、どうにか身を落ち着けた。


 長椅子、寝台、棚を動かして、布で部屋を区切る。

 ソルとロアの視界から火を遮ると、二頭は少しずつ落ち着きを取り戻し、蹄で床を打つ音も少しずつ減っていった。


 ノクトは最初、扉の近くで座り込んでいた。

 けれど、ソルとロアが落ち着くと、ゆっくりとそちらへ歩み寄る。警戒していないわけではない。けれど、嵐の夜に一人で壁際へいるより、あちらの体温のほうがましだと判断したのだろう。


 ノクトはロアの脇へ鼻先を寄せる。

 ロアは一度だけ大きく息を吸い、少し迷うように耳を動かしたあと、そっと鼻先でノクトの額へ触れた。ソルもまた、低く鼻を鳴らし、ノクトの肩へ軽く鼻先を当てる。


 三頭のあいだに、言葉のない確認が行き交う。


 匂いを知る。

 体温を知る。

 ここで今夜を越す相手だと知る。


 それだけで十分だったらしい。

 ノクトはゆっくりと身体を折り、二頭の馬のあいだへ少しだけ身を寄せるようにして伏せた。ソルもロアも、それを拒まない。むしろ身体をずらして場所を作るような気配さえあった。


 その光景を見て、私は息を詰めた。

 あまりに自然で、あまりに静かで、だからこそ胸へ深く落ちてくるものがあった。


「……ちゃんと、分かったのですね」


 レディヴィアが小さく言う。

 私は頷く。


 次に、人のほうの配置を決める。

 ルルティナを寝台にとも思ったが、部屋を区切る為に使ってしまった。


 結局、床の寝床をもう少し広げ、厚い布と毛布を継ぎ足して、三人が横になれる形へ整える。窮屈ではある。けれど、どうにか身体を休めるくらいはできそうだった。


 ルルティナは最初、部屋の端で十分だと言った。

 レディヴィアは真面目な顔で、それでは寒いと遮る。

 私はそのやりとりを聞きながら、火の近さと毛布の届き方を見て、結局、三人が並んで寝る形に収まった。


 全員の居場所が決まり、扉をきちんと閉め直す。

 風の音はまだ壁の向こうで唸っている。時折、本当に城全体が揺れているのではないかと思うほどの音が来る。けれど、さっき一人で目を覚ました時より、その音は遠かった。


 私は寝床へ入り、毛布を肩まで引き上げる。

 隣ではレディヴィアも身体を横たえ、ルルティナは反対側で静かに息を整えていた。暖炉の火は赤く、安定している。


 馬の気配がある。

 ノクトの低い呼吸が混じる。

 三人ぶんの体温が、毛布の内側へ少しずつたまっていく。


「……狭いですね」


 私が小さく言うと、レディヴィアがすぐに答えた。


「はい。かなりです」


 その返事に、ルルティナがごく小さく息を漏らす。

 笑いに近かった。


「申し訳ありません」


「いいえ」


 私は目を閉じかけながら答える。


「嵐ですから」


 レディヴィアも言った。


「今日は、これで正解です」


 その言葉に、私は毛布の中で少しだけ目元を和らげる。


 暖炉が、ぱち、と鳴る。

 風はなおも窓の外を叩いている。けれどそのたび、近くの体温があることがはっきり分かった。


 ソルが低く鼻を鳴らす。

 ロアがそれに応える。

 ノクトの喉の奥から、短いくぐもった音が返る。


 三頭とも、もう互いをただの異物とは思っていないのだろう。

 その気配だけで、胸の奥のどこかが静かにあたたかくなった。


 嵐の夜だった。

 城の外では風が荒れ、壁を揺らし、窓を鳴らしている。

 それでも、この部屋の中には火があって、息づかいがあって、眠ろうとしているものたちがいる。


 それだけで、十分だった。


 やがて、レディヴィアが本当に小さな声で言った。


「……アルシエラ様」


「はい」


「起こしてくれて、よかったです」


 私はその言葉を、しばらく胸の中で受け止めてから答えた。


「ええ」


 風がもう一度、大きく城を叩く。

 けれど今度は、その音に目を覚まされることはない気がした。


 私は毛布の端を少しだけ引き寄せ、静かに目を閉じた。


「良い夜を」


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