ep.34 三人の夜
浴場の湯は、今夜は少しだけ強く湯気を上げていた。
嵐の前触れのせいか、石の壁の冷たさがいつもより際立っている。けれど、そのぶん湯のあたたかさもよく分かった。肩まで沈めれば、外の黒い雲も、解体の血の匂いも、少しずつ遠のいていく。
私は髪をまとめ直しながら、息をひとつ吐く。
向かいでは、レディヴィアが静かに肩へ湯をかけていた。
「今日は、少し慌ただしかったですね」
私がそう言うと、レディヴィアは小さく頷いた。
「はい。狩りも、解体も、部屋も増えました」
「増えましたね」
自分で言って、少しだけおかしくなる。
家族も、同居人も、獣も、部屋も、役目も、ここ数日でずいぶん増えた。増えたばかりで、まだどれも落ち着いてはいない。それでも、ひとつずつ形を持ち始めている。
湯気の向こうで、レディヴィアがふとこちらを見た。
「三人で入るのは、まだ難しいのですね」
「……ええ」
湯をひとすくい、肩へかける。
あたたかさと一緒に、言葉をゆっくり探した。
「背中の傷痕を、もう一度見せるのは」
口にしてから、少しだけ間を置く。
「私にとっても、ルルティナにとっても、まだ少し早いのです」
浴場の中は静かだった。
水の流れる細い音と、炉の火が時折鳴る気配だけが残っている。
レディヴィアはすぐには返事をしなかった。
ただ、湯の中で自分の手を見下ろし、それから静かに頷いた。
「……分かりました」
短い返事だった。
「急ぐことではありませんね」
「ええ。たぶん」
私はそう答えてから、少しだけ笑う。
「こういうことは、急いでもあまり良いことになりません」
レディヴィアも、ごくわずかに目元を和らげた。
「では、いつか」
そこでひと呼吸ぶんだけ間を置く。
「いつか、三人で入れるといいです」
私はその言葉を聞いて、湯の表面を見た。
揺れた水面の奥へ、ほんの少しだけ胸の内が沈んでいく。
「……ええ」
静かに頷く。
「そうですね」
それだけで十分だった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
湯は少しずつぬるくなっていく。けれど冷めるほどではない。炉の具合も悪くない。今日の薪はまだ持ちそうだった。
私は湯から立ち上がり、肩の水を払う。
レディヴィアもそれに続いた。麻布で身体を拭き、髪の水気を押さえる。
その後で、炉の前へ屈み込み、細い薪を二本、太い薪を一本だけ足す。
炎がすぐにはぜ、湿った石の匂いの中へ、乾いた木の匂いが混じった。
「火を足しておきましょう」
私がそう言うと、レディヴィアが頷く。
「ルルティナ様の分です」
「ええ」
衣を整えながら答える。
「ルルティナにもしっかりと体を休めてもらいましょう」
レディヴィアは濡れた髪を指で払ってから、静かにこちらを見る。
「一緒に行きます」
「ありがとうございます」
浴場の扉を開けると、冷えた廊下の空気が頬へ触れた。
けれど、湯上がりの身体には、その冷たさもまだ遠い。
私たちは並んで、ルルティナの部屋へ向かった。
書官室の扉を叩くと、すぐに返事があった。
私が「入ってもよろしいですか」と問うと、少しの間を置いてから、内側で布の擦れる音がして、やがて「どうぞ」と返る。
扉を開ける。
書官室の中は暖炉に火が灯り、まだ少し冷えていたが、礼拝所よりも十分な温かさがあった。
ルルティナは寝台のそばに立っていた。
腕まくりをしたまま、布を畳んでいたらしい。私たちが入ると、すぐに手を止めてこちらへ向き直る。
「お邪魔してしまいましたか」
私がそう言うと、ルルティナは首を振った。
「いいえ。空いた時間がどうにも落ち着かなかっただけです」
その答えに、私は小さく頷く。
分かる気がした。与えられたばかりの部屋というものは、ただ横になれば自分のものになるわけではない。布を畳み、位置を直し、何かひとつでも自分の手で整えて、ようやく身体がその場所へ馴染んでいく。そういうものだ。
「片づけ、ありがとうございました」
私は静かに言う。
ルルティナは一瞬だけ目を伏せた。それから、浅く首を振る。
「当然のことをしたまでです」
「それでもです」
今度はレディヴィアが言った。
「お肉も、きれいに分けてもらえました。助かりました」
ルルティナはその言葉に、すぐには返事をしなかった。
けれどやがて、小さく頭を下げる。
「……そう仰っていただけるなら、よかったです」
短い沈黙が落ちる。
外では風が少し強くなってきたらしく、窓の外で嵐の気配が低く鳴っていた。
私はその音を一度だけ聞いてから、ルルティナへ向き直る。
「浴場、今ちょうど湯がよい具合です」
ルルティナが顔を上げる。
「火も足してありますから、冷えないうちにどうぞ」
「はい」
頷く声は、昼間より少しだけ柔らかかった。
レディヴィアも小さく言う。
「温まってきてください」
ルルティナは、今度はためらいすぎることなく頷いた。
「……ありがとうございます」
その声を背に、私たちは書官室をあとにした。
暖炉の部屋へ戻ると、乾いた熱が静かに頬へ触れた。
火はまだよく保たれていた。
赤く残る熾火の上へ、私は扉の脇へ積んであった薪を二本だけ足す。細い枝を少しずらし、太い薪の位置を変える。空気の流れが通るように組み直すと、炎はすぐに小さく立ち上がった。
火が心許ないと、それだけでずいぶん落ち着かなくなる。
私は火掻き棒をそっと脇へ戻し、ようやく息をついた。
その時だった。
「……アルシエラ様」
隣から、レディヴィアの声がする。
振り向くと、レディヴィアは扉の近くに立っていた。いつものように静かな顔だったが、その手には黒い櫛がある。あの、箱の底から出てきた、小さな黒い櫛だ。
私は思わず目を瞬かせた。
「髪を、梳いてくれないですか」
その一言に、少しだけ止まる。
火の音だけが、小さく続いた。
黒い櫛は、レディヴィアの手の中で静かに光を吸っている。
彼女の母の櫛。幼い頃、髪を梳かれていた記憶に繋がるもの。
「……それは」
言葉の先が、すぐには出てこなかった。
私はレディヴィアと、櫛とを見比べる。
「いいのですか?」
ようやくそう聞き返すと、レディヴィアは少しも迷わずに頷いた。
「はい」
ただ、それだけだった。
私は一度だけ目を伏せ、それから櫛に手を伸ばす。
「……では、お借りします」
レディヴィアは暖炉のそばへ移動し、私に背を向けるようにして腰を下ろした。
私はその後ろへ静かに座る。
黒髪が、肩から背へ流れていた。
湯上がりの熱はまだ少し残っているらしく、火の明かりを受けた髪には、わずかな艶がある。指先でそっと髪をまとめて、角の根元へ絡まぬよう少しだけ避ける。
毛先からゆっくりと櫛を入れる。
櫛歯が通る音は小さい。
私は慎重に、毛先から少しずつ梳いていく。
この櫛に触れる自分の手が、いつもより少しだけよそよそしいのを、自分でも感じていた。壊しはしないか。引っかけはしないか。そんなことが気になってしまう。
しばらくして、レディヴィアが小さく言った。
「大丈夫です」
その声に、私はほんの少しだけ息を吐く。
「……緊張しているのが、分かりましたか」
「少しだけ」
レディヴィアの声には、わずかに笑いが混じっていた。
私はそれにつられるように、ようやく肩の力を抜く。
「当たり前です」
そう言いながら、角の根元の髪をそっと分ける。
「大事なものなのでしょうから」
レディヴィアはすぐには返事をしなかった。
ただ、火を見つめたまま静かに座っている。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
私は櫛を入れ直し、上からもう一度、ゆっくりと梳く。
今度はさっきよりも滑らかに通った。黒髪が、櫛のあとを追うように静かに背へ落ちていく。
暖炉の火が、ぱち、と鳴る。
「どうですか」
私がそう訊くと、レディヴィアは少し考えるようにしてから答えた。
「……よいです」
それから、ほんの少しだけ間を置いて付け足す。
「覚えていました」
「何をですか」
「こういう感じだったことを」
私はその言葉を聞いて、櫛を持つ手を一瞬だけ止める。
けれど止めたのはほんの一拍ぶんだけで、すぐにまた静かに動かした。
「そうですか」
火の明かりの中で、櫛歯が髪をすり抜けていく。
黒い櫛。黒い髪。角の根元の少し乾きにくいところだけ、丁寧に撫でるように整える。
「この櫛、使いやすいですね」
私がそう言うと、レディヴィアはごく小さく頷いた。
「母も、たぶんそう思っていたのだと思います」
その言い方に、私は少しだけ目を伏せた。
櫛を最後まで通す。
もう引っかかるところはほとんどなかった。私は毛先を軽く指で整え、それから櫛を持ったまま、小さく息を吐く。
「……終わりました」
レディヴィアがゆっくりとこちらを振り向く。
その黒髪は、火の明かりの中で先ほどよりもずっと落ち着いて見えた。角の根元も、毛先も、すっきりと整っている。
「ありがとうございました」
静かな声だった。
「こちらこそ」
私は櫛をそっと差し出す。
「預けてくださって」
レディヴィアはそれを受け取り、櫛へ目を落とす。
言葉も無く、じっと見つめたまま、少しの間だけ眼を閉じた。
それから、暖炉のそばの棚へ静かに置く。
外では、風がひとつ、強く窓を鳴らした。
嵐はもうすぐそこまで来ているらしい。
けれど暖炉の部屋の中は、まだ静かだった。




