ep.33 食事
重さを抱えた外の景色から目を離し、二人を見た。
「まずは、食事にしましょう」
レディヴィアが瞬きをする。
ルルティナもまた、わずかに目を上げた。
「今日の熊ですか」
「ええ。初めての成果です」
私は少しだけ口元を緩める。
「せっかくですし、最初は大雑把に焼いてみましょう。細かく工夫するのは、そのあとでもできます」
レディヴィアの目が、ほんの少しだけ和らいだ。
「豪快に、ですね」
「はい。初めての狩りですから」
その一言に、部屋の空気がほんのわずかに動いた気がした。
ルルティナは袖を整え、静かに頷く。
「では、塩だけ用意いたします」
「お願いします」
私たちはそろって厨房へ向かった。
外はもう暗くなり始めている。窓の向こうで、黒い雲が低く流れ、時折、遠くの空だけが鈍く白む。まだ雨は落ちてこない。
厨房へ入ると、炉に火を入れ、鍋ではなく網代わりの鉄板を乗せる。
レディヴィアが運んできた肉の塊は、布を解いてみると、思っていた以上に赤く、厚かった。筋もある。脂は白いというより、少し灰がかった色をしている。
ルルティナがそれを見て、ほんのわずかに眉を寄せた。
「本当に、食べても大丈夫なのでしょうか」
「多分……大丈夫でしょう」
私は指先で肉を軽く押す。
「本で似た生き物を見ましたし、肉は焼けば食べれるはずです」
「一応……、しっかり火は通した方が良さそうですね」
ルルティナは少しだけ困ったように目を伏せ、それから粗塩の鉢を寄せる。
私は肉の表面へ惜しまず塩を振った。ぱらり、というより、少し乱暴に落とす。細かく計ったりはしない。ただ、片面へまんべんなく行き渡る程度に。それを見ていたレディヴィアが、もう片方の面にも同じように塩を振った。
「こうですか」
「ええ。たぶん、それで十分です」
「たぶん」
「今日は、そういう日です」
私がそう答えると、レディヴィアは目元を和らげた。
熱した鉄板へ肉を置く。
次の瞬間、じゅ、と低い音が立った。
静かな厨房に、その音だけが響く。脂がじわりと浮き、塩気を帯びた匂いと一緒に、獣肉の強い香りが立ちのぼった。
私は思わず、少しだけ目を細める。
「……すごい匂いですね」
「はい」
レディヴィアは火の上の肉を見つめたまま頷く。
「ちゃんと、獣です」
その表現が妙にもっともで、私は小さく息を吐いた。
ルルティナは布を持ったまま、その匂いに少しだけ顔をしかめている。
「燻製とも、鍋とも違いますね」
「ええ。かなり直接的です」
肉の表面はすぐに色を変えた。
赤かった面が、焦げる寸前の濃い褐色へ近づいていく。端からは脂が落ち、火へ触れるたび小さく爆ぜた。獣臭さはたしかにある。鼻の奥へ残る、少し野太い匂いだ。上等な肉とは言い難い。
私は細い鉄串で端を持ち上げ、裏返す。
また音が鳴る。
「焼けていますか」
「たぶん」
私が答えると、レディヴィアがすぐに言う。
「これもたぶん、ですね」
「今日は最初ですから」
そう言いながらも、私は肉の縁を少し切って中を見る。
まだ赤い。だが生ではない。もう少しだけ火を通したほうがよさそうだった。
「もう少しですね」
ルルティナが、小さく安堵したように息をつく。
「普通の肉ですね」
「そんなに心配でしたか」
「……少し」
率直な返事に、私は少しだけ笑った。
さらに火を入れ、ようやくよさそうなところで、私はそのまま大きめに切り分けた。細かくはしない。厚みのあるまま、三人ぶんへ分ける。
「はい」
私はひとつをレディヴィアへ、もうひとつをルルティナへ渡した。
「初めての狩りのご馳走です」
レディヴィアは両手で受け取り、まっすぐに肉を見る。
ルルティナはためらいつつも器を受け取った。
「スープと保存食以外は初めてです」
レディヴィアが言う。
「ええ。今日は少しだけ豪華です」
私はそう答えてから、自分の器へ目を落とした。
火のそばの木箱へ、三人で腰を下ろす。
端を切って口へ入れようとしたところで、ルルティナが手で制した。私は思わず動きを止める。
ルルティナは真面目な表情のまま、何も言わず、自分の器から先にひと口だけ切り分けて口へ運んだ。
噛む。
飲み込む。
それから、ほんのわずかに息を吐く。
「……大丈夫です」
その一言だけで、胸の奥がひどく静かになった。
何か言おうとする。
そんなことをしなくていいとか、そんなふうに。
けれど、喉まで上がった言葉は、そのまま止まる。
ルルティナは眉を下げ、困ったような表情をしていた。
侍女として、ずっと身体へ染み込ませてきたものなのだろう。
ただの習いではなく、役目であり、癖であり、たぶん彼女なりの誠実さでもある。
私は器を持ったまま、少しだけ目を伏せる。
それから、もう一度ルルティナを見た。
「……ありがとうございます」
結局、出てきたのはそれだけだった。
「……いえ」
小さな返事だった。
レディヴィアは少し考えるように視線を動かした後、真面目な顔で頷く。
「なるほど」
それだけ言って、レディヴィアも肉を噛む。
空気が、ほんの少しやわらぐ。私は少しだけ息を吐いた。
それから、今度こそ肉に歯を立てた。
少し硬い。
脂は思ったより重くなく、その代わりに強い匂いがある。噛むたびに獣臭さがわずかに上がる。けれど、塩だけの味つけは意外なほど悪くなかった。肉そのものの濃さがあり、火で焼いた香ばしさがそのまま舌へ残る。
「……すこし獣臭いですが」
レディヴィアがすぐに続く。
「ちゃんと美味しいです」
ルルティナも、今度は自分の分をもうひと口口へ運び、慎重に噛んでから言った。
「ええ。野趣がございます」
「上品な言い方ですね」
「獣臭い、と申し上げるよりは」
「それは確かに」
レディヴィアが器を見下ろしたまま言う。
「ですが、獣臭いです」
私は思わず笑いそうになって、どうにか堪えた。
「ええ。そこは否定できませんね」
少しだけ笑いが落ちる。
小さい。けれど、ちゃんとした食卓の音だった。
そのあとは、しばらく三人とも黙って肉を食べた。
噛むたび、少し硬い繊維が歯へ返る。脂は少ないが、噛めば噛むほど味が出る。塩だけなのに、妙に物足りなさはない。火で焼かれた肉の表面が香ばしく、中は少しだけ汁を残している。洗練された食事ではなかった。けれど、自分たちで狩り、解体し、焼いた物だと考えれば、十分に美味しい。
ふと見ると、レディヴィアはもう自分の分を半分近く食べ終えている。
その様子に気づいたらしいルルティナが、ほんの少しだけ目を瞬かせた。
「レディヴィア様は、お肉がお好きなのですね」
レディヴィアは口の中のものをきちんと飲み込んでから答える。
「好きです」
「それは、よかったです」
「はい。よかったです」
返答があまりにまっすぐで、私は笑ってしまう。
ルルティナもほんの少しだけ、口元を緩めた。
食べ進めるうちに、最初に強く感じた獣臭さも、少しずつ気にならなくなっていった。ただ、これは明日から少し工夫したほうがよいだろうとは思う。香草か、煮込みか、干す前の処理か。やりようはいくらでもあるはずだ。
私は最後のひと切れを口へ入れながら言う。
「明日からは、もう少し丁寧に食べ方を考えましょう」
「はい」
ルルティナが頷く。
「次は、臭みを抜けるようにいたします」
レディヴィアが器の底を見る。
「でも、これはこれで好きです」
私は少しだけ首を傾げる。
レディヴィアは目元を和らげた。
「三人の、初めての味です」
その一言に、私は器を持ったまま少しだけ黙った。
初めての味。
「ええ」
私は静かに頷く。
「初めての味ですね」
窓の外で、風がひとつ鳴った。
それまで重く沈んでいた空気が、ふいに動いたのだと分かる。嵐は、もう近い。
私は空になった器を見下ろし、それから二人の顔を見た。
「では」
少しだけ息をつく。
「食べ終わりましたし、お風呂にしましょうか」
レディヴィアが頷いた。
だが、その隣で、ルルティナはほんのわずかに目を伏せる。
私はすぐにはその意味を測れなかったが、口を開いたのはレディヴィアのほうだった。
「三人で入るのは、初めてですね」
私は一瞬だけ言葉を失う。
ルルティナは、はっきりと困った顔をした。
「……それは、まだ」
少しだけ声が小さくなる。
「少々、難しいかと」
私はレディヴィアとルルティナを見比べた。
少しだけ迷う。だが、その迷いは長く要らなかった。
「……そうですね」
私は穏やかに言う。
「三人で入るのは、今度にしましょう」
レディヴィアが不思議そうに首を傾げる。
「なぜですか」
私は少しだけ息を吐いた。
こういうことを、彼女にどう言えば一番まっすぐ伝わるのか、まだ毎回少し迷う。
「裸の付き合いは、まだ少し難しいですから」
そう言ってから、もう一つ言葉を続ける。
「……お互いに」
レディヴィアはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
ルルティナがわずかに肩の力を抜く。
それから器をまとめながら言う。
「私は、食器の片づけをしておきます」
静かな声だった。
「お二人は、先にお入りください。そのあと、私は書官室におりますので」
私は一瞬だけ躊躇ってから、素直に頷く。
「……では、お言葉に甘えて」
「ここは任せます」
私とレディヴィアの言葉にルルティナも頷いた。
彼女は浅く礼を返し、言葉を受け止める。
「お任せください」
レディヴィアは立ち上がり、空になった器を卓へ戻す。
私はその横顔を見てから、ルルティナへもう一度だけ視線を向けた。
「何かあれば呼んでください」
「はい」
ルルティナはそう言って、器を抱えた。
私はそれを見届けてから、レディヴィアと一緒に厨房を出る。
廊下の先には、浴場へ続く冷たい石の道が待っていた。外では、嵐の最初の風が、ようやく城の壁へ触れ始めているようだった。




