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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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33/41

ep.33 食事

 重さを抱えた外の景色から目を離し、二人を見た。


「まずは、食事にしましょう」


 レディヴィアが瞬きをする。

 ルルティナもまた、わずかに目を上げた。


「今日の熊ですか」


「ええ。初めての成果です」


 私は少しだけ口元を緩める。


「せっかくですし、最初は大雑把に焼いてみましょう。細かく工夫するのは、そのあとでもできます」


 レディヴィアの目が、ほんの少しだけ和らいだ。


「豪快に、ですね」


「はい。初めての狩りですから」


 その一言に、部屋の空気がほんのわずかに動いた気がした。

 ルルティナは袖を整え、静かに頷く。


「では、塩だけ用意いたします」


「お願いします」


 私たちはそろって厨房へ向かった。


 外はもう暗くなり始めている。窓の向こうで、黒い雲が低く流れ、時折、遠くの空だけが鈍く白む。まだ雨は落ちてこない。


 厨房へ入ると、炉に火を入れ、鍋ではなく網代わりの鉄板を乗せる。

 レディヴィアが運んできた肉の塊は、布を解いてみると、思っていた以上に赤く、厚かった。筋もある。脂は白いというより、少し灰がかった色をしている。


 ルルティナがそれを見て、ほんのわずかに眉を寄せた。


「本当に、食べても大丈夫なのでしょうか」


「多分……大丈夫でしょう」


 私は指先で肉を軽く押す。


「本で似た生き物を見ましたし、肉は焼けば食べれるはずです」


「一応……、しっかり火は通した方が良さそうですね」


 ルルティナは少しだけ困ったように目を伏せ、それから粗塩の鉢を寄せる。

 私は肉の表面へ惜しまず塩を振った。ぱらり、というより、少し乱暴に落とす。細かく計ったりはしない。ただ、片面へまんべんなく行き渡る程度に。それを見ていたレディヴィアが、もう片方の面にも同じように塩を振った。


「こうですか」


「ええ。たぶん、それで十分です」


「たぶん」


「今日は、そういう日です」


 私がそう答えると、レディヴィアは目元を和らげた。


 熱した鉄板へ肉を置く。


 次の瞬間、じゅ、と低い音が立った。

 静かな厨房に、その音だけが響く。脂がじわりと浮き、塩気を帯びた匂いと一緒に、獣肉の強い香りが立ちのぼった。


 私は思わず、少しだけ目を細める。


「……すごい匂いですね」


「はい」


 レディヴィアは火の上の肉を見つめたまま頷く。


「ちゃんと、獣です」


 その表現が妙にもっともで、私は小さく息を吐いた。

 ルルティナは布を持ったまま、その匂いに少しだけ顔をしかめている。


「燻製とも、鍋とも違いますね」


「ええ。かなり直接的です」


 肉の表面はすぐに色を変えた。

 赤かった面が、焦げる寸前の濃い褐色へ近づいていく。端からは脂が落ち、火へ触れるたび小さく爆ぜた。獣臭さはたしかにある。鼻の奥へ残る、少し野太い匂いだ。上等な肉とは言い難い。


 私は細い鉄串で端を持ち上げ、裏返す。

 また音が鳴る。


「焼けていますか」


「たぶん」


 私が答えると、レディヴィアがすぐに言う。


「これもたぶん、ですね」


「今日は最初ですから」


 そう言いながらも、私は肉の縁を少し切って中を見る。

 まだ赤い。だが生ではない。もう少しだけ火を通したほうがよさそうだった。


「もう少しですね」


 ルルティナが、小さく安堵したように息をつく。


「普通の肉ですね」


「そんなに心配でしたか」


「……少し」


 率直な返事に、私は少しだけ笑った。


 さらに火を入れ、ようやくよさそうなところで、私はそのまま大きめに切り分けた。細かくはしない。厚みのあるまま、三人ぶんへ分ける。


「はい」


 私はひとつをレディヴィアへ、もうひとつをルルティナへ渡した。


「初めての狩りのご馳走です」


 レディヴィアは両手で受け取り、まっすぐに肉を見る。

 ルルティナはためらいつつも器を受け取った。


「スープと保存食以外は初めてです」


 レディヴィアが言う。


「ええ。今日は少しだけ豪華です」


 私はそう答えてから、自分の器へ目を落とした。


 火のそばの木箱へ、三人で腰を下ろす。


 端を切って口へ入れようとしたところで、ルルティナが手で制した。私は思わず動きを止める。

 ルルティナは真面目な表情のまま、何も言わず、自分の器から先にひと口だけ切り分けて口へ運んだ。


 噛む。

 飲み込む。

 それから、ほんのわずかに息を吐く。


「……大丈夫です」


 その一言だけで、胸の奥がひどく静かになった。


 何か言おうとする。

 そんなことをしなくていいとか、そんなふうに。

 けれど、喉まで上がった言葉は、そのまま止まる。


 ルルティナは眉を下げ、困ったような表情をしていた。

 侍女として、ずっと身体へ染み込ませてきたものなのだろう。

 ただの習いではなく、役目であり、癖であり、たぶん彼女なりの誠実さでもある。


 私は器を持ったまま、少しだけ目を伏せる。

 それから、もう一度ルルティナを見た。


「……ありがとうございます」


 結局、出てきたのはそれだけだった。


「……いえ」


 小さな返事だった。

 レディヴィアは少し考えるように視線を動かした後、真面目な顔で頷く。


「なるほど」


 それだけ言って、レディヴィアも肉を噛む。

 空気が、ほんの少しやわらぐ。私は少しだけ息を吐いた。


 それから、今度こそ肉に歯を立てた。


 少し硬い。

 脂は思ったより重くなく、その代わりに強い匂いがある。噛むたびに獣臭さがわずかに上がる。けれど、塩だけの味つけは意外なほど悪くなかった。肉そのものの濃さがあり、火で焼いた香ばしさがそのまま舌へ残る。


「……すこし獣臭いですが」


 レディヴィアがすぐに続く。


「ちゃんと美味しいです」


 ルルティナも、今度は自分の分をもうひと口口へ運び、慎重に噛んでから言った。


「ええ。野趣がございます」


「上品な言い方ですね」


「獣臭い、と申し上げるよりは」


「それは確かに」


 レディヴィアが器を見下ろしたまま言う。


「ですが、獣臭いです」


 私は思わず笑いそうになって、どうにか堪えた。


「ええ。そこは否定できませんね」


 少しだけ笑いが落ちる。

 小さい。けれど、ちゃんとした食卓の音だった。


 そのあとは、しばらく三人とも黙って肉を食べた。

 噛むたび、少し硬い繊維が歯へ返る。脂は少ないが、噛めば噛むほど味が出る。塩だけなのに、妙に物足りなさはない。火で焼かれた肉の表面が香ばしく、中は少しだけ汁を残している。洗練された食事ではなかった。けれど、自分たちで狩り、解体し、焼いた物だと考えれば、十分に美味しい。


 ふと見ると、レディヴィアはもう自分の分を半分近く食べ終えている。

 その様子に気づいたらしいルルティナが、ほんの少しだけ目を瞬かせた。


「レディヴィア様は、お肉がお好きなのですね」


 レディヴィアは口の中のものをきちんと飲み込んでから答える。


「好きです」


「それは、よかったです」


「はい。よかったです」


 返答があまりにまっすぐで、私は笑ってしまう。

 ルルティナもほんの少しだけ、口元を緩めた。


 食べ進めるうちに、最初に強く感じた獣臭さも、少しずつ気にならなくなっていった。ただ、これは明日から少し工夫したほうがよいだろうとは思う。香草か、煮込みか、干す前の処理か。やりようはいくらでもあるはずだ。


 私は最後のひと切れを口へ入れながら言う。


「明日からは、もう少し丁寧に食べ方を考えましょう」


「はい」


 ルルティナが頷く。


「次は、臭みを抜けるようにいたします」


 レディヴィアが器の底を見る。


「でも、これはこれで好きです」


 私は少しだけ首を傾げる。

 レディヴィアは目元を和らげた。


「三人の、初めての味です」


 その一言に、私は器を持ったまま少しだけ黙った。

 初めての味。


「ええ」


 私は静かに頷く。


「初めての味ですね」


 窓の外で、風がひとつ鳴った。

 それまで重く沈んでいた空気が、ふいに動いたのだと分かる。嵐は、もう近い。


 私は空になった器を見下ろし、それから二人の顔を見た。


「では」


 少しだけ息をつく。


「食べ終わりましたし、お風呂にしましょうか」


 レディヴィアが頷いた。

 だが、その隣で、ルルティナはほんのわずかに目を伏せる。

 私はすぐにはその意味を測れなかったが、口を開いたのはレディヴィアのほうだった。


「三人で入るのは、初めてですね」


 私は一瞬だけ言葉を失う。

 ルルティナは、はっきりと困った顔をした。


「……それは、まだ」


 少しだけ声が小さくなる。


「少々、難しいかと」


 私はレディヴィアとルルティナを見比べた。

 少しだけ迷う。だが、その迷いは長く要らなかった。


「……そうですね」


 私は穏やかに言う。


「三人で入るのは、今度にしましょう」


 レディヴィアが不思議そうに首を傾げる。


「なぜですか」


 私は少しだけ息を吐いた。

 こういうことを、彼女にどう言えば一番まっすぐ伝わるのか、まだ毎回少し迷う。


「裸の付き合いは、まだ少し難しいですから」


 そう言ってから、もう一つ言葉を続ける。


「……お互いに」


 レディヴィアはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……分かりました」


 ルルティナがわずかに肩の力を抜く。

 それから器をまとめながら言う。


「私は、食器の片づけをしておきます」


 静かな声だった。


「お二人は、先にお入りください。そのあと、私は書官室におりますので」


 私は一瞬だけ躊躇ってから、素直に頷く。


「……では、お言葉に甘えて」


「ここは任せます」


 私とレディヴィアの言葉にルルティナも頷いた。

 彼女は浅く礼を返し、言葉を受け止める。


「お任せください」


 レディヴィアは立ち上がり、空になった器を卓へ戻す。

 私はその横顔を見てから、ルルティナへもう一度だけ視線を向けた。


「何かあれば呼んでください」


「はい」


 ルルティナはそう言って、器を抱えた。


 私はそれを見届けてから、レディヴィアと一緒に厨房を出る。

 廊下の先には、浴場へ続く冷たい石の道が待っていた。外では、嵐の最初の風が、ようやく城の壁へ触れ始めているようだった。

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