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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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ep.32 今後

 肉の処理にひと区切りついたあと、私たちはようやく暖炉の部屋へ戻った。


 血の匂いはまだ袖口に薄く残っている。けれど、暖炉の火の前へ来ると、それも少しだけ遠のいた。石の壁へやわらかく返る熱と、乾いた薪の匂い。ようやく息がつける気がする。


 レディヴィアが火に手をかざしながら、静かに言った。


「……では、次ですね」

「ええ」


 私は頷いた。


「次は、ルルティナの部屋を決めましょう」


 部屋はある。けれど、ただ空いている場所へ押し込めるみたいな決め方はしたくなかった。寝るだけなら礼拝室でもよい。けれど住むとなれば話は別だ。扉を閉めて、息をつける場所でなければならない。


「それでしたら」


 控えめな声がして、私は振り向いた。

 ルルティナが、浅く視線を伏せたまま立っている。口を挟んでよいか、まだ測りかねている顔だった。


「どうしました」


 私がそう言うと、ルルティナは一度だけ息を整えてから、静かに口を開いた。


「……もし、差し支えなければ」

「はい」

「城の掃除を進めていた時に、書官室を見ました」


 私はレディヴィアと顔を見合わせた。

 書官室。小さな机と、まだ使えそうな暖炉の残っていた、あの静かな部屋が思い浮かぶ。


 ルルティナは続けた。


「広くはございませんが、暖炉もありました。机も、そのまま使えるようでしたし……扉も、きちんと閉まりましたので」


 最後の一言だけ、少し遠慮がちだった。

 けれど、その部屋を思い返せば、たしかに悪くない。暖炉の部屋にも厨房にも近い。水場へ行くにも困らない。


 レディヴィアが先に頷いた。


「その部屋、よかったです」

「ええ」


 私も頷く。


「書官室にしましょう」


 そう言うと、ルルティナが顔を上げた。


「お借りして、よろしいのですか」

「借りるのではなく」


 私は少しだけ笑った。


「ルルティナの部屋です」


 その言葉に、彼女はすぐには返事をしなかった。何か言おうとして、言葉にならないまま唇だけがかすかに動く。やがて、ようやく目を伏せ、小さく一礼した。


「……ありがとうございます」


 暖炉の火が、ぱち、と小さく鳴る。


 その静けさの中で、私はふと壁際の木箱の山へ目をやった。まだ開け切っていない嫁入り道具が残っている。布も、細かな道具も、きっと中にあるはずだった。


「それから」


 私はその箱を指した。


「ルルティナの部屋に置けるものを探しましょう」


 ルルティナが目を瞬かせる。


「ですが、それは」

「どうせいつかは開ける物ですし、今がちょうどいいでしょう」


 そう言うと、レディヴィアも当然のように頷いた。


「全部、生活に回す予定でした」


 ルルティナはまだ迷っていたが、もう強くは引かなかった。


「……では、必要なものだけ」

「ええ」


 私は箱の前へしゃがみ込む。


「しまっておいても意味がありません」


 レディヴィアが、それを聞いてごく小さく頷いた。


「その通りです」


 私たちは三人で箱を引き寄せた。


 最初に開いたのは、人の側の大きな木箱だった。

 以前開けた時と同じく、どれも花嫁のために用意されたのだろう物が出てくる。けれど、いまの私たちに必要なのは、見せるためのものより、使えるものだった。


 ルルティナは布へ指を滑らせ、すぐに分け始めた。


「こちらは寝台用にできます」

「こちらは、少し詰め物を足せば枕に」

「これは身につけるより、布巾にしたほうが長く使えます」


 その手つきに迷いはない。布は布でも、何をどう使うかがもう見えている人の手だった。私はひとつひとつ頷きながら、使うものと後で回すものを分ける。レディヴィアは脇へ寄せる箱を、静かに積み直していった。


 やがて、人の箱の中身がほとんど床へ出揃う。


 つぎに開くのは黒い金具の打たれたレディヴィアの箱。


 私はそちらへ手をかける。

 レディヴィアも無言で隣へしゃがみ込んだ。


 中に入っていたのは、すでに見知ったものの続きだった。

 見せるためではなく、生きるためのものばかり。


 ルルティナがひとつずつ取り上げ、整えていく。

 私も手を伸ばし、底のほうへ押し込まれていた布束を持ち上げた。


 その下に、まだ何かがある。


 指先に触れたのは、布でも革でもなかった。木とも少し違う、乾いてなめらかな感触だ。小さく、けれど、ただの留め具にしては形がある。


「……まだありますね」


 言いながら、私は箱の底へ手を差し入れた。


 出てきたのは、小さな櫛だった。


 黒い。

 艶を抑えた黒で、飾りはほとんどない。歯は細かく、華美ではない。けれど、ただの道具とも違った。持ち手の端にだけ、指先で撫でなければ分からぬほど浅く、蔓のような彫りが入っている。


 私はそれを掌に乗せたまま、レディヴィアを見る。


 レディヴィアは返事をしなかった。

 ただ、その櫛を見つめていた。

 顔色が変わったわけではない。けれど、いつもならすぐに出てくるはずの相槌が、どこにも来ない。


「……レディヴィア様?」


 ようやく私がそう呼ぶと、彼女はゆっくりと瞬きをした。

 それから、ほんの少しだけ躊躇って、櫛へ手を伸ばす。


 指先が触れる。

 そのまま、壊れものにでも触れるみたいに、静かに受け取った。


「……母の、櫛です」


 声はひどく低かった。


 私も、ルルティナも、すぐには何も言わなかった。

 レディヴィアは櫛を手の中で返し、裏を見る。持ち手の端を親指でなぞる。


「幼い頃」


 レディヴィアは櫛を見たまま続ける。


「これで髪を梳かれていました」


 その一言のあと、また沈黙が落ちた。


 暖炉の火が小さく鳴る。

 箱の中身を広げた部屋の静けさが、急に深くなる。


 ただ捨てるだけなら、こんなものは箱の底へ入らないだろう。

 王冠や実用品と一緒に、黙って紛れ込ませる必要もない。

 生き延びるためのもののいちばん底へ、それが残されていたということは。


 私はそこまで考えて、口を閉じた。

 その先を今ここで言葉にするのは、違う気がしたからだ。


 けれど、レディヴィアはいつもより遅く、ぽつりと言った。


「……ただ、捨てられたのでは、なかったのかもしれません」


 ルルティナが、そっと目を伏せた。

 私は櫛ではなく、レディヴィアの横顔を見る。


 泣いてはいない。

 けれど、あの静かな顔の奥で、何かがひどくゆっくりとほどけていくのが分かる気がした。


「そうかもしれません」


 私がそう答えると、レディヴィアは小さく頷いた。

 櫛をそのまま箱へ戻さず、自分の膝の上へ置く。


「使います」


 その言葉は短かった。

 けれど、それで十分だった。

 ルルティナが、わずかに声を和らげる。


「よい品です」


 レディヴィアは櫛へ目を落としたまま、ごく小さく頷いた。


「はい」


 それ以上、誰も余計なことは言わなかった。


 箱の底にはもう何も残っていない。けれど、その小さな櫛ひとつで、レディヴィアの箱は先ほどまでと違うものになった気がした。


 私は人の側の布の山と、魔の側の道具の山を見比べる。

 どちらももう、嫁入り道具というより、生活のための物だった。


「……では」


 私は静かに言った。


「書官室へ運びましょうか」


 ルルティナが顔を上げる。

 レディヴィアもまた、櫛を握ったままこちらを見る。


「ルルティナの部屋へ」


 そう言い直すと、ルルティナはゆっくりと頷いた。


「はい」


 三人で暖炉の部屋から書官室へ向かう。


 書官室は暖炉の部屋からそう遠くも無く、他の場所への出入りは悪くない。

 広くはないが、それでも部屋としては十分だった。


 少なくとも、礼拝室よりはずっとましに見える。


 それからは三人で、書官室を、ひとまず人の眠れる形に整える。

 終わるころには陽はもうだいぶ傾いていた。

 私は一歩ぶんだけ下がって、部屋を見回した。


「……こんなところでしょうか」


 そう言うと、隣で毛布の端を整えていたレディヴィアが頷いた。


「はい。ちゃんと部屋です」


 その言い方が妙に真面目で、私は少しだけ目元を和らげる。


 ルルティナは、扉の内側へ立ったまま、しばらく何も言わなかった。

 机。寝床。暖炉。窓。扉。

 そのどれもを、自分へ与えられたものとして受け取ろうとしている顔だった。


 やがて彼女は、ほんの少しだけ目を伏せる。


「……ありがとうございます」

「まだ途中です」


 私は静かに答えた。


「暮らしながら、足りないものは足していけばいいでしょう」


 ルルティナは小さく頷いた。

 その頷き方が、朝より少しだけ自然に見えた。


 部屋の中へ、短い静けさが落ちる。

 けれど、それは居心地の悪いものではなかった。むしろ、ひとつの場所がようやく誰かの部屋になったあとに訪れる静けさに近い。


 私は暖炉の口を一度だけ確かめてから、振り返った。


「……では、今後の話をしておきましょうか」


 レディヴィアがこちらを見る。

 ルルティナも、少しだけ背筋を伸ばした。


 三人とも、自然に暖炉の前へ寄る。

 火はまだ入れていなかったが、部屋の中にはもう、これから使われる場所の気配があった。


「何を優先するかは、はっきりしていると思います」


 私は一人ずつ顔を見る。


「食糧と、住める場所です」


 それに異を唱える者はいなかった。

 レディヴィアはごく当然のように頷き、ルルティナもまた真剣な顔で聞いている。


「城はまだ広すぎますし、使えない場所も多いです。全部を一度にどうにかするのは無理でしょう」


 私は続ける。


「だから、まずは使う場所をちゃんと保つこと。それから、必要なところを少しずつ増やしていくこと」


 そこで一度、言葉を切った。

 次を誰が言うのか、たぶん皆わかっていたのだろう。

 先に口を開いたのは、レディヴィアだった。


「食糧は、私が」


 声音に迷いはなかった。


「狩りへ行きます」


 私は彼女を見る。

 あの日、半分ずつ持つと決めたあとの顔だと思った。静かで、けれど引かない顔だった。


「ええ」


 私は頷く。


「お願いします」


 するとレディヴィアは、ほんの少しだけ肩の力を抜く。

 任せてもらえたことに安堵したのだと分かる、小さな緩みだった。


「無理はなさらないでくださいね」


 言いながら、私は少しだけ苦笑する。


「と言っても、あまり効かない気もしますが」

「気をつけます」


 レディヴィアは真面目な顔で答えた。


「ですが、行きます」

「はい。存じております」


 そのやりとりを聞いていたルルティナが、視線を落としてから静かに言う。


「私は、引き続き城の清掃を進めます」


 彼女の声も、今度ははっきりしていた。


「使える部屋を増やし、廊下と水場のまわりを整えます。布や寝具も、洗えるものは洗って……」


 そこで少しだけ息を継ぐ。


「レディヴィア様がお戻りになったら、解体もお手伝いします」


 私はその言葉に、少しだけ目を見開いた。

 もう「できることがありません」とは言わないのだと思ったからだ。

 自分の役目として、きちんとそこへ置いた。


「助かります」


 私がそう言うと、ルルティナは今度は否定しなかった。

 ただ、ほんの少しだけ目を伏せるだけだった。


 残る視線が、自然にこちらへ集まる。


 私は一瞬だけ口を閉じた。


 本当は、すぐには言えなかった。

 自分が何を引き受けるのがいちばん良いのか、先ほどまで少し迷っていたからだ。


 けれど、ふと頭に浮かぶのは、前室の隅で耳を伏せていたソルとロアの姿だった。崩れかけた厩舎の下で、雪をしのぐように身を寄せていた姿。あれを、もう一度あそこへ戻したくはなかった。


「……私は」


 そこで一度だけ息を継ぐ。


「外庭の整理をします」


 二人が黙って聞いている。

 私はゆっくりと続けた。


「厩舎も、建て直したいです。今のままでは、雪や雨をしのぐには足りませんから」


 そう言うと、レディヴィアがすぐに頷いた。


「それは、必要です」


 ルルティナもまた、小さく頷く。


「ソルとロアのためにも、そのほうがよろしいかと」


 私は少しだけ肩の力を抜いた。


「ええ。前室を馬の寝場所にしたままでは、いずれ不便になりますし」


 外庭の整理。倒木の処理。残った資材の見直し。厩舎の骨組みを作り、風を避ける壁を立てる。考えることは多い。だが、不思議と嫌ではなかった。

 むしろ、ちゃんと生活へ繋がる仕事だと思えた。


「それぞれ、別のことをしますが」


 私は二人を見て言う。


「結局は全部、同じ家のためです」


 レディヴィアが、静かにこちらを見返す。

 ルルティナもまた、目を伏せずに聞いていた。


「一人ではなく三人で、同じ家のために」


 口にしてから、ようやくそれがいまの私の本音なのだと分かった。

 一緒にいることは、同じことをすることではない。

 それでも、同じ家を支えることならできる。


 短い沈黙のあとで、レディヴィアが言う。


「ちゃんと、役目が揃いましたね」


 私は頷いた。


「ええ」


 その時だった。


 窓の外が、ふいに暗くなる。


 私は反射的に顔を上げた。

 細い窓の向こうを、厚い黒い雲がゆっくりと覆い始めている。さっきまで薄くても明るかった空が、いつの間にか湿り気を帯びた重さへ変わっていた。風もないのに、空だけが低く沈んでくる。


 レディヴィアもまた、窓を見たまま小さく言う。


「……来ます」

「ええ」


 私は立ち上がる。

 空気の匂いまで変わっていた。雨の前触れとも少し違う。もっと重い。


「嵐ですね」


 家ができたばかりのところへ、世界は間を置かず試しに来るらしい。

 本当に、どうしようもない。

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