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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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ep.31 三人

 ノクトが骨を噛む音を背に聞きながら、私たちは前室の片づけに取りかかった。


 血の匂いは濃い。

 石の目に入り込み、薄く流しただけでは色も匂いも落ちない。布で押さえ、削ぎ、水で流し、それでもなお残る。

 前室はもともと薪と藁と乾いた木の匂いに満ちていたはずなのに、今はそこへ獣の熱の名残が濃く染みついている。


「ルルティナ」


 私は床へ広げた布を足先で避けながら、振り向いた。


「肉のほうをお願いできますか」


 袖を捲ったルルティナは、血のついた布の上に視線を落としてから、静かに言った。


「はい。食べるところを先に分けておきます」


 ルルティナは桶と布を持ち上げ、切り分けた肉を手早く見回す。脂の多いところ、赤身の厚いところ、傷を避けて切り出したところ。どこを先に運ぶべきか、もう頭の中で順番がついているらしい。


 ルルティナが肉と布の山を抱えて前室を出ていく。

 血の匂いだけが、その場に残された。


「では」


 レディヴィアが、桶をひとつ持ち上げた。


「水ですね」

「ええ。お願いします」


 彼女が中庭へ向かう背を見送り、私はひとり前室へ残る。

 石床にしゃがみ込み、薄く残った赤黒い筋へ視線を落とした。血の匂いは鮮明で、鼻の奥にひっかかる。生ぬるいような、生臭いような、どこか金気を含んだ匂い。


 私は小さく息を止めた。


 血は、あまり好きではない。

 見慣れたくもない。

 それでも、好きではないという理由で、このまま放っておくわけにはいかなかった。ここはもう、物を置くだけの前室ではない。薪も藁も馬も通る場所で、いずれまた私たちが何度も出入りする場所になる。


 なら、残った始末くらいは自分がやらなければならない。

 そう思うほうが、嫌悪を意識するより楽だった。


 私は小さく息を吐き、両手を軽く上げた。

 中庭から汲んできた水が桶の中で持ち上がる。ひと塊のままではなく、薄い膜のように広がって、床へ落ちる。続けて、ぼろ布を二枚、三枚と浮かせた。水を含ませると、重くなった布がゆっくりと石の上を滑っていく。


 血は、一度で綺麗には落ちない。


 赤黒い筋が薄まり、広がり、また継ぎ目に残る。

 私はもう一度水を呼び、今度は石の目に沿って細く流した。布がそのあとを追い、汚れを掻き寄せる。血の匂いは、水で薄まるたびかえって立ちのぼった。生臭さと鉄の匂いが、冷えた空気の中で妙に近い。


 思わず少しだけ顔をしかめる。


「……大丈夫ですか」


 大きな桶を両手で抱えたレディヴィアが戻ってくる。

 

「大丈夫です」


 そう答えたものの、匂いに顔をしかめている自覚はあった。

 レディヴィアは何も言わず、空になった桶を持って戻っていく。

 その往復のあいだ、私は床へ残る血の筋を水で浮かせては流し、石の目に入り込んだ汚れを布でこそげた。


 何度目かの水を流した頃には、床の赤はようやくほとんど見えなくなっていた。

 匂いはまだ薄く残っている。けれどそれも、薪と藁と冷えた石の匂いに押され始めていた。


「……ひとまず、こんなものでしょうか」


 私が言うと、レディヴィアは桶を下ろして前室を見回した。


「さっきより、ずっといいです」

「ええ。見た目は、だいぶ」


 私は布を絞り、水を切る。

 レディヴィアは扉のそばへ視線を向けていた。

 ノクトはもう、食べ終えたらしい。骨の残りだけが端へ寄せられ、その姿は見えなかった。


「ルルティナ様を探しましょうか」


 その言葉に、私は頷いた。


「ええ。肉のほうも、様子を見ないと」


  厨房へ向かう廊下は、前室よりいくぶんましな匂いがした。


 血の気配はまだ袖口や指先に薄く残っている気がした。

 私は一度だけ自分の手を見下ろし、それから何も言わずに歩みを進める。


 ルルティナは、卓の前に立っていた。


 布を何枚も広げ、その上へ切り分けた肉を整然と並べている。厚みのあるもの、薄く削いだもの、脂の多いもの、筋の多いもの。


 私たちに気づくと、ルルティナは手を止める。


「前室は」

「どうにか、見られる程度にはなりました」


 そう答えると、ルルティナはほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「よかったです。こちらも、もう少しで一段落いたします」


 私は卓へ近づき、並べられた肉を見る。

 厚みのある塊は布へ包まれ、別に寄せられている。薄いものはさらに広げられ、塩を当てる準備でもしているのだろう。脇には、小さな鉢へ粗塩が入っていた。


「こちらは」

「干します」


 ルルティナはそう言って、薄く引いた肉の縁を指先で持ち上げた。


「この寒さなら、保管庫へ置いたままでもすぐには傷みません。ですが、全部をそうしておくのは危ういです」


 その声音は、もう迷っていなかった。

 私へ向けた遠慮や躊躇いがなくなったわけではない。それでも、いま目の前にある肉を、どうすれば冬の食糧へ変えられるかという点では、はっきりとした自分の考えを持っている声だった。


「薄く切って、風の通るところへ干します。今日食べるぶんは別にして、残りは冷える場所へ。塩も、今あるだけは使ったほうがよろしいかと」


 私は作業台の上を見回す。

 切り分けられた肉。広げられた布。干すために細く引かれた紐。


 その光景を見ているうちに、胸の奥で、何かがゆっくりと形を持ち始める。

 助かる、と最初に思った。

 もう一つは、まだ形にならなかった。


 私は少しだけ目を伏せる。

 隣で、レディヴィアが静かに肉の山を見ていた。


「助かります」


 先にそう言ったのは、彼女だった。


「これなら、しばらく困りません」


 ルルティナは手を止めないまま、小さく首を振る。


「大したことでは……」

「それでも」


 今度は、私が言った。


「こうして分けてもらえると、助かります」


 ルルティナはそこでようやくこちらを見た。

 感謝を向けられることに、まだ慣れていない顔だった。

 ただ、どう受け取ればよいか分からないまま、少しだけ目を伏せる。


「……それしか、できませんので」


 その言い方に、私は少し黙った。

 それしか、ではない。

 けれど、そう切り返されるだろうとも分かっていた。


 私は肉の並ぶ卓と、布の山と、鉢の塩を見てから、ようやく口を開く。


「ルルティナ」


 彼女が顔を上げる。


「このまま」


 言いかけて、少しだけ息を継いだ。

 私がいま口にしようとしているものが、ただの願いではなく、この家の形を変える言葉になるのだと分かっていたからだ。


「このまま、ここにいるつもりはありませんか」


 ルルティナの手が止まる。

 指先に触れていた薄い肉が、そのまま布の上へ戻った。


「……ここに」


「はい」


 私は頷く。


「手伝いとして、ではなく」


 その先は、思っていたより静かに言えた。


「ちゃんと、同居人として」


 ルルティナは何も言わなかった。

 驚いてはいる。けれど、驚きだけではない。もっと深いところで、いま言われたことの重さを測りにかかっている顔だった。


 私は続ける。


「部屋はあります。仕事もあります。あなたがいてくださると助かる、というのも本当です」


 そこまで言ってから、少しだけ首を振った。


「でも、それだけではありません」


 ルルティナはなおも黙っている。

 レディヴィアが、その横顔を静かに見ていた。


「客人ではなく、侍女でもありません」


 私の言葉に、ルルティナの睫毛がかすかに揺れる。

 それは、切り離すためではなかった。


「関係をやり直すのではなく」


 私は少しだけ迷ってから、それでも言った。


「……新しく、の方がいいと思うのです」


 言い切ると、胸の奥のどこかがひどく静かになった。

 そこへ、レディヴィアが続ける。


「私も、そのほうがよいと思います」


 まっすぐな声だった。


「三人のほうが、うまく回ります」


 ルルティナがゆっくりとレディヴィアを見る。

 レディヴィアはそれ以上、甘い言葉は足さない。ただ静かに、けれど迷いなく彼女を見ていた。


 私は、最後にようやく言葉を置く。


「私たちの生活を、始めませんか」


 部屋が静まり返る。

 肉の匂いと、塩と、冬の冷えた空気だけがそこにある。


 ルルティナはすぐには返事をしなかった。

 そう簡単に頷けるはずがないと思った。過去は消えていない。王城も、信仰も、四年間も、そのまま残っている。


 だから私は急かさなかった。

 レディヴィアもまた、何も言わない。


 長い沈黙のあとで、ルルティナはようやく息を吐いた。


「……私は」


 声は低かったが、震えてはいなかった。


「ここへ来るまで、どこへ行くとも決めておりませんでした」


 それはもう知っていることだった。

 けれど、彼女が自分の口で言うと、重さが違う。


「帰る場所は、ございます」


 そこで一度だけ言葉が止まる。

 私は少しだけ目を伏せた。

 その言葉の温度が、他人事ではなかったからだ。


 ルルティナは両手を、卓の端へ静かに置いた。

 そこに積まれた肉ではなく、もっと別のものへ触れるような手つきだった。


「それに」


 彼女は私を見る。


「ここにいてよいと、まだすぐには思えません」


 私は頷く。

 当然だった。


「ですが」


 今度はレディヴィアのほうを見る。


「それでも、もし」


 彼女はほんの少しだけ息を呑み、それでも目を逸らさない。


「お二人が、本当にそのように仰るのであれば」


 そこまで言ってから、ルルティナは小さく目を伏せた。

 迷いは消えていない。けれど、その迷いの中に、もう逃げ道ばかりではないものが混じっていた。


「……私も、新しく始めたいと思います」


 声は小さかった。

 けれど、それで十分だった。


 私は返事の代わりに、ほんの少しだけ息を吐く。

 隣で、レディヴィアの肩からも、わずかに力が抜ける気配がした。


 しばらく、誰も何も言わなかった。

 その沈黙のあとで、レディヴィアが真面目な顔のまま言う。


「では、ルルティナ様の部屋も、ちゃんと決めないといけません」


 私は思わず少しだけ笑った。


「ええ。そうですね」


 ルルティナもまた、驚いたように目を瞬かせてから、本当に少しだけ、口元を和らげた。


 三人分の静かな息づかいがあった。

 まだ何も整ってはいない。

 けれど、ここから始まるのだと、ようやく言葉にできる気がした。

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