ep.30 役割分担
城へ戻るころには、獣の血も、冬の光の中ではもう黒く見えていた。
前室の扉を押し開けると、ソルとロアがすぐに顔を上げた。藁の上へ並んで立っていた二頭は、こちらの気配より先に、運び込まれてきた獣の匂いに気づいたのだろう。耳を伏せ、落ち着かなさそうに鼻を鳴らす。
「……まず、この子たちは外へ出したほうがよさそうですね」
私がそう言うと、レディヴィアは頷いた。
「はい。びっくりしています」
ソルはともかく、ロアまで後ずさりしかけている。私は二頭の首筋を順に撫で、いったん外庭の、雪の残りがまだ浅いほうへ導いた。幸い陽は出ている。風も弱い。前室の戸を開けて作業するあいだだけなら、外のほうがましだろう。
戻ると、ちょうどルルティナが前室の扉口で足を止めていた。
視線の先には、宙に半ば浮いたままの獣の巨体がある。肩から背へかけての黒褐色の毛並み。異様に発達した右腕。喉元に残る、深く細い傷。私が支えている左側と、レディヴィアが持つ右側のあいだで、獣はまだ人の手を拒む余地もなく静かに吊られていた。
ルルティナが小さく息を呑む。
「……もう、仕留められたのですか」
「ええ」
私は答えながら、獣の後肢が壁へぶつからぬよう少しだけ高さを調整した。
「思ったより大きくて、少し困っています」
そう言うと、ルルティナはなおも目を見開いたまま、その巨体を見上げた。驚くのも無理はない。私だって、こうして前室へ持ち込んでみて、ようやくその大きさを実感していた。
「……解体の手順は」
私が言いよどむと、ルルティナはすぐにこちらを見た。少しだけ迷うような間があってから、静かに言う。
「狩りの場でのことは分かりませんが……台所で大きな肉を扱うなら、まず内臓を出します」
「内臓を」
「はい。そのままにすると傷みますし、熱もこもります」
なるほどと思う。
言われてみれば、もっともだった。だが、ではどこを切ればよいのか、そのあとどの順番で進めるのかとなると、私にもレディヴィアにもほとんど分からない。
レディヴィアが獣の肩へ手を置いたまま言う。
「切るのは、できます」
「……そうですね」
私はひどく率直な感想を返してしまった。
ルルティナは一瞬だけ困ったように目を伏せたが、それでもすぐに気を取り直し、前室の壁際へ置いてあった桶と、昨日運び込んだ布をいくつか手に取る。
「血を受けるものと、内臓を仮に置く布が要ります。あと、できれば……」
そこで彼女は獣の腹を見る。
「アルシエラ様は、少し離れておいでください」
私が目を瞬かせるより先に、レディヴィアが低く言った。
「はい。後ろを向いていてください」
「……そこまでですか」
訊くと、レディヴィアはごく真面目に頷いた。
「はい。たぶん、あまりお好きではありません」
その通りだったので、私は素直に従うことにした。
前室の隅へ少し下がり、半分だけ身体を背ける。完全に背を向けるのも何となく落ち着かず、扉の外の白さと、壁際の薪の列と、浮かんだままの獣の影だけが視界へ残る位置を選んだ。
そのあと、最初の切開が入った。
すぐに分かった。
獣臭と、熱の抜ける匂いと、濃い血の匂いが、前触れもなく前室いっぱいに広がったからだ。冷えた石の空気が、一瞬で別のものになる。さっきまで乾いた木と藁の匂いばかりだった前室へ、急に生々しい湿りが満ちた。
私は思わず少しだけ顔をしかめる。
背後で、ルルティナが低く何か指示している。
レディヴィアが短く応える。続いて、水気を含んだ重い音がした。何かが布の上へ落ちる音だ。粘るような、ぬめるような音がひとつ、ふたつと続く。
私は外の白い雪の名残を見つめながら、息を浅くする。
「……大丈夫ですか」
レディヴィアの声がした。
「ええ」
答えたものの、声は少しだけ上擦っていた気がする。
背後ではなおも、水気のある音が続く。内臓を取り出しているのだろう。布が擦れる音。桶の縁へ何かが当たる低い音。ルルティナとレディヴィアの小さい言葉の掛け合い。
しばらくして、空気の匂いがもう一段変わった。
熱のこもった内側が外へ開ききったのだと分かる。冷たい前室の中で、獣の身体だけがまだ生き物だった時間を残しているみたいで、妙に現実味があった。
「……次は」
ルルティナの声が低く落ちる。
「四肢を、でしょうか」
「はい」
レディヴィアの返事は短い。
それから間を置かず、鈍い断音が響いた。骨と肉が一息で断たれるような音だった。私は反射的に肩を竦める。続いてもうひとつ、さらにふたつ。同じ音が、少しずつ位置を変えて続いた。
私は思わず目を閉じる。
背後で起きていることを見ないで済むのはありがたいのに、見えないぶんだけ想像が鮮明になるのは、あまりありがたくなかった。
そのあと、少し長い沈黙が落ちた。
私はそっと振り返りかける。
「まだです」
すぐにレディヴィアの声が飛ぶ。
私は仕方なくまた前を向いた。
「……皮を」
今度はルルティナが言う。
その声音に、難しさが滲んでいた。
「剥げるなら、取っておいたほうがよろしいかと」
「できますか」
「わかりません」
それはそうだろうと思う。
最初から、何もかもうまくいくはずがない。人の手で慣れた獣を扱うのとは違う。ましてこんな大きさで、こんな骨格だ。
背後で、また刃を入れる音がする。
今度はさっきの断音ではなく、もっと浅く長い音だった。肉と皮のあいだを探るような、慎重な動きだと分かる。けれど、すぐにその動きは止まる。
「……難しいです」
レディヴィアが淡々と言う。
「ええ、無理に全部は」
ルルティナもそう答えた。
その声音に、むしろ安堵が混じっている気がした。最初から完全を求めていないのだろう。
「食べられるところを優先しましょう。肩、腿、そのあたりを」
私はようやく少しだけ振り返った。
許される頃合いだろうと思ったからだ。
前室の床には、布が何枚も広げられていた。桶の中には暗いものが溜まり、切り離された四肢と頭部は壁際へ寄せられている。獣の胴はまだ半ば宙にあるが、先ほどより軽くなっているのだろう、浮かせる力の返りも少し違っていた。
ルルティナは袖を捲り、頬へかかった髪も気にせず、布の上へ切り分けた肉を並べている。レディヴィアはその傍らで刃を入れていた。髪にも袖にも血が点々とついているのに、本人はまったく気にした様子がない。
私はその光景を見て、少しだけ息を吐いた。
「見ても大丈夫ですか」
そう言うと、レディヴィアがこちらを見た。
目が合う。
「大丈夫なら」
私は小さく咳払いをした。
「大丈夫です」
するとレディヴィアは、ほんの少しだけ目元を和らげた。
それからまた獣へ向き直る。私は布をもう一枚広げ、切り出された可食部位を置く場所を整えた。
皮は、腹のあたりを少し剥いだところで難航していた。
厚く、しかも筋が強い。引けば肉ごと持っていかれる。最初からきれいに取れるはずがなかったし、今は冬のあいだの食糧が先だ。私たちは早々に皮を全部取ることは諦め、肩、腿、そして比較的損傷の少ない部位を中心に分けていった。
切り取った肉は布へ移し、さらにその上から別の布を被せる。冷たい前室なら、しばらくは保つだろう。血の多い部位と、脂の多い部位で置き方も分ける。ルルティナがそのあたりを自然に捌いてくれるので、私はひどく助かった。
やがて、前室の石床へ広がっていた生々しさも、少しずつ形を持った「食べられるもの」へ変わり始めた。
残ったのは、頭部と骨の多い脚、臓腑の一部、皮の失敗した端、背に生えた石のような突起、それからどう見ても私たちが扱いきれぬ部位だった。
私は壁際へ寄せられたそれらを見下ろす。
「……これは」
何と言えばいいのか分からない。
捨てるのか。埋めるのか。遠くへ持っていくのか。けれどどれも、あまり現実的ではない。血の匂いの残るものをそのまま城の近くへ置くのも嫌だった。
ルルティナも少しだけ眉を寄せる。
「前室へ置き続けるのは、よくありませんね」
「ですが、今すぐどうこうするには」
そう言いかけたところで、レディヴィアがふと扉のほうを見た。
私もつられて視線を向ける。
前室の半ば開いた扉の隙間から、黄みがかった目がこちらを覗いていた。
ノクトだった。
いつ来たのか分からない。音もなくそこにいて、ただ前室の中をじっと見ている。血の匂いに惹かれたのだろう。けれど飛び込んでくるわけでもなく、私たちの様子を窺うように、細い目で奥を見ていた。
しばらくの沈黙のあと、レディヴィアが言う。
「……ちょうどいいです」
私はノクトと、壁際の残った部位を見比べた。
「そう、ですね」
ノクトは相変わらず動かない。
ただ、こちらがそれをどう扱うか待っているみたいだった。
私は布に包まなかった骨付きの部位をひとつ浮かせて、外に置く。ノクトの鼻がわずかに動く。もうひとつ、さらに頭部に近いところの肉を寄せると、ノクトはようやく一歩だけ前へ出た。
警戒はしている。
けれど、逃げはしない。
「どうぞ」
レディヴィアが静かに言う。
「ノクトのです」
その言葉を理解したわけではないだろう。
けれどノクトは、低く喉を鳴らしてから、まず骨付きの部位へ鼻を寄せた。すぐには食いつかず、匂いを確かめる。それからちらりとこちらを見て、ようやく歯を立てた。
骨の砕ける音が、前室に低く響く。
私はそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
これで少なくとも、残りをどうするかで途方に暮れずに済む。
ノクトは一度噛み砕いてから、今度は頭部のほうへ顔を向けた。
黄の目が、ほんの少しだけ満足そうに細まる。
レディヴィアがそれを見て、静かに言う。
「機嫌が良くなりました」
私は思わず息を吐いた。
「そうみたいですね」
前室にはまだ血の匂いが濃く、石の上には熱の抜けた湿りが残っていた。けれど、布に覆われた肉の山と、静かに骨を噛むノクトを見ていると、ようやく「何とかした」という気持ちが少しだけ湧く。
最初からうまくできたわけではない。
皮は失敗したし、手順も探り探りで、床も匂いも散々だった。
それでも、冬を越すためのものを、自分たちの手で城へ持ち帰ったのだ。
私は血のついた袖を見下ろし、それからレディヴィアとルルティナを見た。
二人とも、少し汚れていた。けれどその姿が妙に頼もしく見えた。
「……まずは、洗いましょうか」
そう言うと、ルルティナが小さく頷く。
「はい。前室も、できるところまで」
レディヴィアは扉のそばで骨を押さえるノクトを一度だけ見て、それからこちらへ戻ってきた。
「ノクトと、私達で半分ずつですね」
私は、思わず少しだけ笑った。
「ええ」




