表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/41

ep.30 役割分担

 城へ戻るころには、獣の血も、冬の光の中ではもう黒く見えていた。


 前室の扉を押し開けると、ソルとロアがすぐに顔を上げた。藁の上へ並んで立っていた二頭は、こちらの気配より先に、運び込まれてきた獣の匂いに気づいたのだろう。耳を伏せ、落ち着かなさそうに鼻を鳴らす。


「……まず、この子たちは外へ出したほうがよさそうですね」


 私がそう言うと、レディヴィアは頷いた。


「はい。びっくりしています」


 ソルはともかく、ロアまで後ずさりしかけている。私は二頭の首筋を順に撫で、いったん外庭の、雪の残りがまだ浅いほうへ導いた。幸い陽は出ている。風も弱い。前室の戸を開けて作業するあいだだけなら、外のほうがましだろう。


 戻ると、ちょうどルルティナが前室の扉口で足を止めていた。


 視線の先には、宙に半ば浮いたままの獣の巨体がある。肩から背へかけての黒褐色の毛並み。異様に発達した右腕。喉元に残る、深く細い傷。私が支えている左側と、レディヴィアが持つ右側のあいだで、獣はまだ人の手を拒む余地もなく静かに吊られていた。


 ルルティナが小さく息を呑む。


「……もう、仕留められたのですか」


「ええ」


 私は答えながら、獣の後肢が壁へぶつからぬよう少しだけ高さを調整した。


「思ったより大きくて、少し困っています」


 そう言うと、ルルティナはなおも目を見開いたまま、その巨体を見上げた。驚くのも無理はない。私だって、こうして前室へ持ち込んでみて、ようやくその大きさを実感していた。


「……解体の手順は」


 私が言いよどむと、ルルティナはすぐにこちらを見た。少しだけ迷うような間があってから、静かに言う。


「狩りの場でのことは分かりませんが……台所で大きな肉を扱うなら、まず内臓を出します」

「内臓を」

「はい。そのままにすると傷みますし、熱もこもります」


 なるほどと思う。

 言われてみれば、もっともだった。だが、ではどこを切ればよいのか、そのあとどの順番で進めるのかとなると、私にもレディヴィアにもほとんど分からない。


 レディヴィアが獣の肩へ手を置いたまま言う。


「切るのは、できます」

「……そうですね」


 私はひどく率直な感想を返してしまった。

 ルルティナは一瞬だけ困ったように目を伏せたが、それでもすぐに気を取り直し、前室の壁際へ置いてあった桶と、昨日運び込んだ布をいくつか手に取る。


「血を受けるものと、内臓を仮に置く布が要ります。あと、できれば……」


 そこで彼女は獣の腹を見る。


「アルシエラ様は、少し離れておいでください」


 私が目を瞬かせるより先に、レディヴィアが低く言った。


「はい。後ろを向いていてください」

「……そこまでですか」


 訊くと、レディヴィアはごく真面目に頷いた。


「はい。たぶん、あまりお好きではありません」


 その通りだったので、私は素直に従うことにした。

 前室の隅へ少し下がり、半分だけ身体を背ける。完全に背を向けるのも何となく落ち着かず、扉の外の白さと、壁際の薪の列と、浮かんだままの獣の影だけが視界へ残る位置を選んだ。


 そのあと、最初の切開が入った。


 すぐに分かった。

 獣臭と、熱の抜ける匂いと、濃い血の匂いが、前触れもなく前室いっぱいに広がったからだ。冷えた石の空気が、一瞬で別のものになる。さっきまで乾いた木と藁の匂いばかりだった前室へ、急に生々しい湿りが満ちた。


 私は思わず少しだけ顔をしかめる。


 背後で、ルルティナが低く何か指示している。

 レディヴィアが短く応える。続いて、水気を含んだ重い音がした。何かが布の上へ落ちる音だ。粘るような、ぬめるような音がひとつ、ふたつと続く。

 私は外の白い雪の名残を見つめながら、息を浅くする。


「……大丈夫ですか」


 レディヴィアの声がした。


「ええ」


 答えたものの、声は少しだけ上擦っていた気がする。

 背後ではなおも、水気のある音が続く。内臓を取り出しているのだろう。布が擦れる音。桶の縁へ何かが当たる低い音。ルルティナとレディヴィアの小さい言葉の掛け合い。


 しばらくして、空気の匂いがもう一段変わった。

 熱のこもった内側が外へ開ききったのだと分かる。冷たい前室の中で、獣の身体だけがまだ生き物だった時間を残しているみたいで、妙に現実味があった。


「……次は」


 ルルティナの声が低く落ちる。


「四肢を、でしょうか」

「はい」


 レディヴィアの返事は短い。

 それから間を置かず、鈍い断音が響いた。骨と肉が一息で断たれるような音だった。私は反射的に肩を竦める。続いてもうひとつ、さらにふたつ。同じ音が、少しずつ位置を変えて続いた。


 私は思わず目を閉じる。

 背後で起きていることを見ないで済むのはありがたいのに、見えないぶんだけ想像が鮮明になるのは、あまりありがたくなかった。


 そのあと、少し長い沈黙が落ちた。

 私はそっと振り返りかける。


「まだです」


 すぐにレディヴィアの声が飛ぶ。

 私は仕方なくまた前を向いた。


「……皮を」


 今度はルルティナが言う。

 その声音に、難しさが滲んでいた。


「剥げるなら、取っておいたほうがよろしいかと」

「できますか」

「わかりません」


 それはそうだろうと思う。

 最初から、何もかもうまくいくはずがない。人の手で慣れた獣を扱うのとは違う。ましてこんな大きさで、こんな骨格だ。


 背後で、また刃を入れる音がする。

 今度はさっきの断音ではなく、もっと浅く長い音だった。肉と皮のあいだを探るような、慎重な動きだと分かる。けれど、すぐにその動きは止まる。


「……難しいです」


 レディヴィアが淡々と言う。


「ええ、無理に全部は」


 ルルティナもそう答えた。

 その声音に、むしろ安堵が混じっている気がした。最初から完全を求めていないのだろう。


「食べられるところを優先しましょう。肩、腿、そのあたりを」


 私はようやく少しだけ振り返った。

 許される頃合いだろうと思ったからだ。


 前室の床には、布が何枚も広げられていた。桶の中には暗いものが溜まり、切り離された四肢と頭部は壁際へ寄せられている。獣の胴はまだ半ば宙にあるが、先ほどより軽くなっているのだろう、浮かせる力の返りも少し違っていた。


 ルルティナは袖を捲り、頬へかかった髪も気にせず、布の上へ切り分けた肉を並べている。レディヴィアはその傍らで刃を入れていた。髪にも袖にも血が点々とついているのに、本人はまったく気にした様子がない。


 私はその光景を見て、少しだけ息を吐いた。


「見ても大丈夫ですか」


 そう言うと、レディヴィアがこちらを見た。

 目が合う。


「大丈夫なら」


 私は小さく咳払いをした。


「大丈夫です」


 するとレディヴィアは、ほんの少しだけ目元を和らげた。

 それからまた獣へ向き直る。私は布をもう一枚広げ、切り出された可食部位を置く場所を整えた。


 皮は、腹のあたりを少し剥いだところで難航していた。

 厚く、しかも筋が強い。引けば肉ごと持っていかれる。最初からきれいに取れるはずがなかったし、今は冬のあいだの食糧が先だ。私たちは早々に皮を全部取ることは諦め、肩、腿、そして比較的損傷の少ない部位を中心に分けていった。


 切り取った肉は布へ移し、さらにその上から別の布を被せる。冷たい前室なら、しばらくは保つだろう。血の多い部位と、脂の多い部位で置き方も分ける。ルルティナがそのあたりを自然に捌いてくれるので、私はひどく助かった。


 やがて、前室の石床へ広がっていた生々しさも、少しずつ形を持った「食べられるもの」へ変わり始めた。


 残ったのは、頭部と骨の多い脚、臓腑の一部、皮の失敗した端、背に生えた石のような突起、それからどう見ても私たちが扱いきれぬ部位だった。


 私は壁際へ寄せられたそれらを見下ろす。


「……これは」


 何と言えばいいのか分からない。

 捨てるのか。埋めるのか。遠くへ持っていくのか。けれどどれも、あまり現実的ではない。血の匂いの残るものをそのまま城の近くへ置くのも嫌だった。


 ルルティナも少しだけ眉を寄せる。


「前室へ置き続けるのは、よくありませんね」

「ですが、今すぐどうこうするには」


 そう言いかけたところで、レディヴィアがふと扉のほうを見た。


 私もつられて視線を向ける。

 前室の半ば開いた扉の隙間から、黄みがかった目がこちらを覗いていた。


 ノクトだった。


 いつ来たのか分からない。音もなくそこにいて、ただ前室の中をじっと見ている。血の匂いに惹かれたのだろう。けれど飛び込んでくるわけでもなく、私たちの様子を窺うように、細い目で奥を見ていた。


 しばらくの沈黙のあと、レディヴィアが言う。


「……ちょうどいいです」


 私はノクトと、壁際の残った部位を見比べた。


「そう、ですね」


 ノクトは相変わらず動かない。

 ただ、こちらがそれをどう扱うか待っているみたいだった。


 私は布に包まなかった骨付きの部位をひとつ浮かせて、外に置く。ノクトの鼻がわずかに動く。もうひとつ、さらに頭部に近いところの肉を寄せると、ノクトはようやく一歩だけ前へ出た。


 警戒はしている。

 けれど、逃げはしない。


「どうぞ」


 レディヴィアが静かに言う。


「ノクトのです」


 その言葉を理解したわけではないだろう。

 けれどノクトは、低く喉を鳴らしてから、まず骨付きの部位へ鼻を寄せた。すぐには食いつかず、匂いを確かめる。それからちらりとこちらを見て、ようやく歯を立てた。


 骨の砕ける音が、前室に低く響く。


 私はそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。

 これで少なくとも、残りをどうするかで途方に暮れずに済む。


 ノクトは一度噛み砕いてから、今度は頭部のほうへ顔を向けた。

 黄の目が、ほんの少しだけ満足そうに細まる。

 レディヴィアがそれを見て、静かに言う。


「機嫌が良くなりました」


 私は思わず息を吐いた。


「そうみたいですね」


 前室にはまだ血の匂いが濃く、石の上には熱の抜けた湿りが残っていた。けれど、布に覆われた肉の山と、静かに骨を噛むノクトを見ていると、ようやく「何とかした」という気持ちが少しだけ湧く。


 最初からうまくできたわけではない。

 皮は失敗したし、手順も探り探りで、床も匂いも散々だった。

 それでも、冬を越すためのものを、自分たちの手で城へ持ち帰ったのだ。


 私は血のついた袖を見下ろし、それからレディヴィアとルルティナを見た。

 二人とも、少し汚れていた。けれどその姿が妙に頼もしく見えた。


「……まずは、洗いましょうか」


 そう言うと、ルルティナが小さく頷く。


「はい。前室も、できるところまで」


 レディヴィアは扉のそばで骨を押さえるノクトを一度だけ見て、それからこちらへ戻ってきた。


「ノクトと、私達で半分ずつですね」


 私は、思わず少しだけ笑った。


「ええ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ