表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/41

ep.29 半分

 獣の重みを、二人で半分ずつ受け持ったまま、私たちは城へ向かって歩いていた。


 薄い雪の上に、私たちの足跡が並ぶ。

 黒い土はところどころ露出し、踏むたびに湿った音を返した。風は弱い。空は白く、陽の高さのわりに熱を持っていない。静かな昼だった。


 レディヴィアは前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。

 私もまた、浮かせた獣の脚へ気を配りながら、黙って歩く。


 けれど、その沈黙は長くは続かなかった。


「それでも……狩りなら」


 レディヴィアが、ぽつりと言う。


「私一人でも、できました」


 私はすぐには答えなかった。

 その続きがあるのだと分かったからだ。


「むしろ、アルシエラ様は」


 彼女は前を向いたまま続ける。


「ルルティナ様と一緒に、城を整えるほうがお得意だったはずです」


 そこで、ほんの少しだけ間があいた。


「でも、私一人には任せてくれませんでした」


 獣の毛先が、私の持ち上げた力の中でかすかに揺れる。

 私は視線を落としたまま、それでも耳だけは彼女へ向けていた。


「……それが」


 レディヴィアの声は静かだった。


「少し、寂しいです」


 胸の奥が、ひどく小さく痛んだ。


 それは責める声ではなかった。

 怒っているわけでもない。ただ、本当にそう感じたのだと分かる言い方だった。だから余計に、逃げ場がない。


 私は少しだけ息を吐く。

 冷たい空気が喉を通る。けれど、うまく言葉にならない。


「……そう、でしたか」


 出たのは、それだけだった。


 あまりに弱くて、自分でも情けなくなる。

 けれどレディヴィアは、その返事を薄いとも、ずるいとも言わなかった。ただ、前を向いたまま、もう一度だけ静かに言う。


「はい」


 それきり、また沈黙が戻る。


 私は歩きながら、何かましな言葉を探した。

 探したはずなのに、浮かんでくるのは、どれも言い訳みたいなものばかりだった。


 危ないから。

 まだ冬だから。

 ルルティナが来たばかりだから。

 あなたに無理をさせたくなかったから。


 どれも間違いではない。

 けれど、どれも足りない。


 レディヴィアは黙ったまま歩いている。

 半分の重みを持ち、半分の沈黙を抱えたまま。

 その背を見ているうちに、胸の内にあった別のものが、じわじわと浮いてくる。


 私は、また立ち止まった。


 今度はレディヴィアのほうが先にこちらを振り返る。

 浮かせた獣は、私たちのあいだで静かに揺れていた。


「アルシエラ様?」


 私は口を開きかけて、やめた。

 何から言えばいいのか分からない。

 分からないまま、しばらく雪の残る地面だけを見る。


「……私」


 ようやく出た声は、思ったより小さかった。


「小屋から出た時、本当は、すごく怖かったんです」


 言ってしまってから、胸の奥がひどく静かになった。

 ずっと奥へ沈めていたものが、やっとひとつ、表へ出たみたいだった。


 レディヴィアは何も言わない。

 その沈黙がありがたくて、私は少しだけ息を継ぐ。


「結婚とか、魔王とか、そういうのも怖かったですけれど」


 うまく笑おうとして、失敗する。

 口元だけが少し歪む。


「それより、外へ出たら、どうしていいか分からなくて」


 視線を上げられない。

 ただ、自分の足もとの黒い土と、薄く残る雪だけを見る。


「四年、ずっと小屋にいたので……本を読んで、火を入れて、茶を淹れて、それで一日が終わっていましたから。急に、誰かと話して、誰かと食べて、誰かと一緒に眠って」


 喉の奥が少しだけ詰まる。


「何を言えばいいのかも、どこまでしていいのかも、何も分かりませんでした」


 そこでやっと顔を上げる。

 レディヴィアは静かに私を見ていた。


 私はその目を見たまま、少しだけ困ったように笑う。


「でも」


 ここから先のほうが、きっと言いたくなかった。

 それでも、もう止まれない。


「楽しかったんです」


 レディヴィアの睫毛が、わずかに動く。


「最初に、馬車を一緒に引いた時も。厨房で、どっちの器が正しいのか分からなくて困った時も。長椅子で、毛布をどう掛ければ公平かと考えていた時も」


 思い出すと、胸の奥がじわりと熱くなる。

 あの時は必死だったのに、今はどうしようもなく愛おしい。


「おかしかったですし、変でしたし、たぶん全部、婚姻としては間違っていたのだと思います」


 私はようやく少しだけ笑えた。


「それでも、楽しかったんです」


 風が、枝のあいだをかすかに抜ける。


「朝、起きたら隣に人がいて。食事をして。薪を運んで。浴場を使えるようにして。家みたいで」


 そこで、言葉がひとつ途切れた。


 家みたいで。

 そこから先が、喉に引っかかる。


「……嬉しかったんです」


 その一言だけが、どうしても少し震えた。


 私は目を伏せる。

 情けないと思う。こんなことで、と思う。けれど胸の奥は、もうそんなふうには動かない。ただ、ようやく本当のところへ触れた痛みだけがあった。


「だから」


 今度は、あまり長く間を空けないようにした。

 空けると、たぶん言えなくなる。


「なくなるのが、怖かったんです」


 レディヴィアはまだ黙っている。

 私はその沈黙へ、少しだけ甘えるみたいに言葉を続ける。


「こんなふうに、一緒にいて、家みたいになって、でも、いつか終わるんじゃないかって」


 雪の上に落ちる自分の影を見る。

 歪んでいた。

 続く言葉が喉に張り付いたまま出てこない。

 情けなく、口を開けて、細い息だけが漏れる。


「また、あの小屋で、私一人」


 歪んだ影に、水滴が幾つかぽつぽつと音を立てる。

 喉が引きつる。


「あなたは魔王ですし、私はこんなふうですし」


 自分でも、ひどい言い方だと思う。

 けれど、うまく言い換えられない。


「何がどうなるのか、ずっと分からなかったです」


 視界の奥に、あの小屋の狭い窓が浮かぶ。

 積まれた本。薄い板壁。火の弱い炉。誰もいない朝。


 私は、少しだけ息を呑んだ。


「それで」


 声が小さくなる。


「……別々になるのが、怖かったんです」


 そこまで言ってから、私は少しだけ息を呑んだ。

 言いたくない。みっともない。幼い。分かっている。

 それでも、レディヴィアは待っている。


「狩りはあなたで、城のことは私で、そうやって、それぞれにできることをして」


 視線を上げられない。

 黒い土と、薄く残る雪だけを見る。


「それで、ちゃんと二人でいるのだと、思えたらよかったんですけれど」


 喉の奥が、ひどく熱くなる。


「……私には、まだよく分からなくて」


 少しだけ、声が掠れた。


「同じことをして、同じところに立っていないと、離れていく気がしたんです」


 言ってしまったあと、雪より白い沈黙が落ちた気がした。

 私は目を上げられない。

 顔が熱いのに、指先は冷たい。


「……変ですよね」


 自分で言って、自分で傷つくような言葉だった。

 私はうまく笑えず、ただ困ったように口元を動かす。


「一緒に暮らして、一緒にご飯を食べて、並んで寝るのに。

 別の事をするだけで、それが無くなるんじゃないかって」


 そこまで言って、ようやく顔を上げる。


 レディヴィアは、まだ同じ場所に立っていた。

 逃げてもいないし、困った顔もしていない。ただ静かに、私の言葉を受け取っている。


「だから……半分にしていたんだと思います」


 私は自分の掌を見る。

 さっき獣を浮かせていた手だ。


「同じものを、二人で持っていれば、一緒にいられる気がしたんです」


 そこまで言ってから、私は本当に小さく笑った。

 笑いというより、もう泣きそうな時の息に近かった。


「……ずっと、何も分からなかったんです」


 それが、たぶん最後の核だった。


「一緒にいることと、同じことをすることの違いも」


 私はゆっくりと息を吐く。

 吐いた息が、白く細くほどけて消える。


「分けて持つことと、離れていくことの違いも」


 それだけは、はっきり言えた。


「一人に戻るのが、嫌だった。

ただ、あなたと一緒にいたかったんです」


 レディヴィアは、それを聞いてもしばらく黙っていた。


 風が吹く。

 低い棘のある潅木の先で、雪がひとかけだけ落ちた。


 やがて彼女が、ほんの少しだけ近づいてくる。

 いつものように急がない。いつものように、静かだ。


「……寂しかったのは、私だけではなかったのですね」


 その声は、とても低かった。

 私は少しだけ目を瞬かせる。


「たぶん」


 うまく答えられなくて、それだけ返す。

 するとレディヴィアは、ごく小さく頷いた。


「よかったです」


「よかった、ですか」


「はい」


 彼女は真面目な顔で言う。


「私だけだと、少し格好がつきません」


 その返しがあまりにも彼女らしくて、私は思わず息を吐いた。

 笑うつもりではなかったのに、少しだけ笑ってしまう。


 レディヴィアはその小さな笑いを見て、ほんのわずかに目元を和らげた。

 それから、浮いたままの獣へ一度視線をやり、また私へ戻す。


「でも」


 彼女は言う。


「だからといって、任せてもらえないのは、やはり少し嫌です」


 私は顔を覆いたくなった。

 けれど覆わなかった。代わりに、困ったようにもう一度だけ笑う。


「……はい」


「寂しいですし、悔しいです」


「はい」


「怒ります」


「それも、はい」


 答えるたび、自分の声が少しだけ軽くなるのが分かった。

 隠していたものを全部言ったからだろうか。傷が消えたわけではない。けれど、胸の奥を塞いでいたものが、少しだけ動いた気がした。


 レディヴィアはしばらく私を見ていたが、やがて、いつもの静かな声へ戻って言った。


「では、これからは」


 そこで、彼女は私の手を見た。

 獣を浮かせている掌。

 それから、自分の手を見る。


「ちゃんと半分ずつです」


 私は頷いた。


「ええ」


 今度は、ためらわずにそう言える。


「半分ずつにしましょう」


 レディヴィアはその返事を聞いて、ようやく本当に安心したように息をついた。

 獣の重さは、彼女の手の上と私の術のあいだで、静かに分けられたままだった。


 私たちはまた歩き出す。


 足元の雪はまだらに白く、土は黒い。

 冬の光は薄い。けれど、先ほどより少しだけ遠くまで見える気がした。


 しばらくして、レディヴィアが前を向いたまま言う。


「アルシエラ様」


「はい」


「そういうことは、もっと早く言ってください」


 私は一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑ってしまう。


「……努力します」


「努力ではなく、言ってください」


「難しいですね」


「でも、言ってください」


 私は少しだけ考えてから、今度はちゃんと頷いた。


「はい」


 その返事を聞いて、レディヴィアもまた静かに前を向く。


 黒い土の上に、二人分の足跡と、一頭ぶんの血の細い筋が続いていた。

 城はまだ少し先だ。

 けれど、帰る場所があると分かっている道は、来る時よりずっと長くは感じなかった。


「レディヴィア様」


「はい」


「狩りと、解体は任せても良いですか」


「勿論です。解体は、これから頑張ります」


「ありがとうございます。……本当は、血が苦手で」


 私の言葉にレディヴィアは、ぎこちない笑みを浮かべ、頷いた。

 視線が私の背中に向いている。


 血は、背中の傷を思い出す。たくさんの感情が混じりあった日を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ