ep.29 半分
獣の重みを、二人で半分ずつ受け持ったまま、私たちは城へ向かって歩いていた。
薄い雪の上に、私たちの足跡が並ぶ。
黒い土はところどころ露出し、踏むたびに湿った音を返した。風は弱い。空は白く、陽の高さのわりに熱を持っていない。静かな昼だった。
レディヴィアは前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。
私もまた、浮かせた獣の脚へ気を配りながら、黙って歩く。
けれど、その沈黙は長くは続かなかった。
「それでも……狩りなら」
レディヴィアが、ぽつりと言う。
「私一人でも、できました」
私はすぐには答えなかった。
その続きがあるのだと分かったからだ。
「むしろ、アルシエラ様は」
彼女は前を向いたまま続ける。
「ルルティナ様と一緒に、城を整えるほうがお得意だったはずです」
そこで、ほんの少しだけ間があいた。
「でも、私一人には任せてくれませんでした」
獣の毛先が、私の持ち上げた力の中でかすかに揺れる。
私は視線を落としたまま、それでも耳だけは彼女へ向けていた。
「……それが」
レディヴィアの声は静かだった。
「少し、寂しいです」
胸の奥が、ひどく小さく痛んだ。
それは責める声ではなかった。
怒っているわけでもない。ただ、本当にそう感じたのだと分かる言い方だった。だから余計に、逃げ場がない。
私は少しだけ息を吐く。
冷たい空気が喉を通る。けれど、うまく言葉にならない。
「……そう、でしたか」
出たのは、それだけだった。
あまりに弱くて、自分でも情けなくなる。
けれどレディヴィアは、その返事を薄いとも、ずるいとも言わなかった。ただ、前を向いたまま、もう一度だけ静かに言う。
「はい」
それきり、また沈黙が戻る。
私は歩きながら、何かましな言葉を探した。
探したはずなのに、浮かんでくるのは、どれも言い訳みたいなものばかりだった。
危ないから。
まだ冬だから。
ルルティナが来たばかりだから。
あなたに無理をさせたくなかったから。
どれも間違いではない。
けれど、どれも足りない。
レディヴィアは黙ったまま歩いている。
半分の重みを持ち、半分の沈黙を抱えたまま。
その背を見ているうちに、胸の内にあった別のものが、じわじわと浮いてくる。
私は、また立ち止まった。
今度はレディヴィアのほうが先にこちらを振り返る。
浮かせた獣は、私たちのあいだで静かに揺れていた。
「アルシエラ様?」
私は口を開きかけて、やめた。
何から言えばいいのか分からない。
分からないまま、しばらく雪の残る地面だけを見る。
「……私」
ようやく出た声は、思ったより小さかった。
「小屋から出た時、本当は、すごく怖かったんです」
言ってしまってから、胸の奥がひどく静かになった。
ずっと奥へ沈めていたものが、やっとひとつ、表へ出たみたいだった。
レディヴィアは何も言わない。
その沈黙がありがたくて、私は少しだけ息を継ぐ。
「結婚とか、魔王とか、そういうのも怖かったですけれど」
うまく笑おうとして、失敗する。
口元だけが少し歪む。
「それより、外へ出たら、どうしていいか分からなくて」
視線を上げられない。
ただ、自分の足もとの黒い土と、薄く残る雪だけを見る。
「四年、ずっと小屋にいたので……本を読んで、火を入れて、茶を淹れて、それで一日が終わっていましたから。急に、誰かと話して、誰かと食べて、誰かと一緒に眠って」
喉の奥が少しだけ詰まる。
「何を言えばいいのかも、どこまでしていいのかも、何も分かりませんでした」
そこでやっと顔を上げる。
レディヴィアは静かに私を見ていた。
私はその目を見たまま、少しだけ困ったように笑う。
「でも」
ここから先のほうが、きっと言いたくなかった。
それでも、もう止まれない。
「楽しかったんです」
レディヴィアの睫毛が、わずかに動く。
「最初に、馬車を一緒に引いた時も。厨房で、どっちの器が正しいのか分からなくて困った時も。長椅子で、毛布をどう掛ければ公平かと考えていた時も」
思い出すと、胸の奥がじわりと熱くなる。
あの時は必死だったのに、今はどうしようもなく愛おしい。
「おかしかったですし、変でしたし、たぶん全部、婚姻としては間違っていたのだと思います」
私はようやく少しだけ笑えた。
「それでも、楽しかったんです」
風が、枝のあいだをかすかに抜ける。
「朝、起きたら隣に人がいて。食事をして。薪を運んで。浴場を使えるようにして。家みたいで」
そこで、言葉がひとつ途切れた。
家みたいで。
そこから先が、喉に引っかかる。
「……嬉しかったんです」
その一言だけが、どうしても少し震えた。
私は目を伏せる。
情けないと思う。こんなことで、と思う。けれど胸の奥は、もうそんなふうには動かない。ただ、ようやく本当のところへ触れた痛みだけがあった。
「だから」
今度は、あまり長く間を空けないようにした。
空けると、たぶん言えなくなる。
「なくなるのが、怖かったんです」
レディヴィアはまだ黙っている。
私はその沈黙へ、少しだけ甘えるみたいに言葉を続ける。
「こんなふうに、一緒にいて、家みたいになって、でも、いつか終わるんじゃないかって」
雪の上に落ちる自分の影を見る。
歪んでいた。
続く言葉が喉に張り付いたまま出てこない。
情けなく、口を開けて、細い息だけが漏れる。
「また、あの小屋で、私一人」
歪んだ影に、水滴が幾つかぽつぽつと音を立てる。
喉が引きつる。
「あなたは魔王ですし、私はこんなふうですし」
自分でも、ひどい言い方だと思う。
けれど、うまく言い換えられない。
「何がどうなるのか、ずっと分からなかったです」
視界の奥に、あの小屋の狭い窓が浮かぶ。
積まれた本。薄い板壁。火の弱い炉。誰もいない朝。
私は、少しだけ息を呑んだ。
「それで」
声が小さくなる。
「……別々になるのが、怖かったんです」
そこまで言ってから、私は少しだけ息を呑んだ。
言いたくない。みっともない。幼い。分かっている。
それでも、レディヴィアは待っている。
「狩りはあなたで、城のことは私で、そうやって、それぞれにできることをして」
視線を上げられない。
黒い土と、薄く残る雪だけを見る。
「それで、ちゃんと二人でいるのだと、思えたらよかったんですけれど」
喉の奥が、ひどく熱くなる。
「……私には、まだよく分からなくて」
少しだけ、声が掠れた。
「同じことをして、同じところに立っていないと、離れていく気がしたんです」
言ってしまったあと、雪より白い沈黙が落ちた気がした。
私は目を上げられない。
顔が熱いのに、指先は冷たい。
「……変ですよね」
自分で言って、自分で傷つくような言葉だった。
私はうまく笑えず、ただ困ったように口元を動かす。
「一緒に暮らして、一緒にご飯を食べて、並んで寝るのに。
別の事をするだけで、それが無くなるんじゃないかって」
そこまで言って、ようやく顔を上げる。
レディヴィアは、まだ同じ場所に立っていた。
逃げてもいないし、困った顔もしていない。ただ静かに、私の言葉を受け取っている。
「だから……半分にしていたんだと思います」
私は自分の掌を見る。
さっき獣を浮かせていた手だ。
「同じものを、二人で持っていれば、一緒にいられる気がしたんです」
そこまで言ってから、私は本当に小さく笑った。
笑いというより、もう泣きそうな時の息に近かった。
「……ずっと、何も分からなかったんです」
それが、たぶん最後の核だった。
「一緒にいることと、同じことをすることの違いも」
私はゆっくりと息を吐く。
吐いた息が、白く細くほどけて消える。
「分けて持つことと、離れていくことの違いも」
それだけは、はっきり言えた。
「一人に戻るのが、嫌だった。
ただ、あなたと一緒にいたかったんです」
レディヴィアは、それを聞いてもしばらく黙っていた。
風が吹く。
低い棘のある潅木の先で、雪がひとかけだけ落ちた。
やがて彼女が、ほんの少しだけ近づいてくる。
いつものように急がない。いつものように、静かだ。
「……寂しかったのは、私だけではなかったのですね」
その声は、とても低かった。
私は少しだけ目を瞬かせる。
「たぶん」
うまく答えられなくて、それだけ返す。
するとレディヴィアは、ごく小さく頷いた。
「よかったです」
「よかった、ですか」
「はい」
彼女は真面目な顔で言う。
「私だけだと、少し格好がつきません」
その返しがあまりにも彼女らしくて、私は思わず息を吐いた。
笑うつもりではなかったのに、少しだけ笑ってしまう。
レディヴィアはその小さな笑いを見て、ほんのわずかに目元を和らげた。
それから、浮いたままの獣へ一度視線をやり、また私へ戻す。
「でも」
彼女は言う。
「だからといって、任せてもらえないのは、やはり少し嫌です」
私は顔を覆いたくなった。
けれど覆わなかった。代わりに、困ったようにもう一度だけ笑う。
「……はい」
「寂しいですし、悔しいです」
「はい」
「怒ります」
「それも、はい」
答えるたび、自分の声が少しだけ軽くなるのが分かった。
隠していたものを全部言ったからだろうか。傷が消えたわけではない。けれど、胸の奥を塞いでいたものが、少しだけ動いた気がした。
レディヴィアはしばらく私を見ていたが、やがて、いつもの静かな声へ戻って言った。
「では、これからは」
そこで、彼女は私の手を見た。
獣を浮かせている掌。
それから、自分の手を見る。
「ちゃんと半分ずつです」
私は頷いた。
「ええ」
今度は、ためらわずにそう言える。
「半分ずつにしましょう」
レディヴィアはその返事を聞いて、ようやく本当に安心したように息をついた。
獣の重さは、彼女の手の上と私の術のあいだで、静かに分けられたままだった。
私たちはまた歩き出す。
足元の雪はまだらに白く、土は黒い。
冬の光は薄い。けれど、先ほどより少しだけ遠くまで見える気がした。
しばらくして、レディヴィアが前を向いたまま言う。
「アルシエラ様」
「はい」
「そういうことは、もっと早く言ってください」
私は一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑ってしまう。
「……努力します」
「努力ではなく、言ってください」
「難しいですね」
「でも、言ってください」
私は少しだけ考えてから、今度はちゃんと頷いた。
「はい」
その返事を聞いて、レディヴィアもまた静かに前を向く。
黒い土の上に、二人分の足跡と、一頭ぶんの血の細い筋が続いていた。
城はまだ少し先だ。
けれど、帰る場所があると分かっている道は、来る時よりずっと長くは感じなかった。
「レディヴィア様」
「はい」
「狩りと、解体は任せても良いですか」
「勿論です。解体は、これから頑張ります」
「ありがとうございます。……本当は、血が苦手で」
私の言葉にレディヴィアは、ぎこちない笑みを浮かべ、頷いた。
視線が私の背中に向いている。
血は、背中の傷を思い出す。たくさんの感情が混じりあった日を。




