ep.28 獣
獣はすぐには飛びかかってこない。
低く唸りながら、半円を描くように二人の前を移る。右へ。左へ。わずかに距離を詰め、また測るように引く。
私は指先に集めた風をそのまま維持しながら、視線だけで足元を見る。
雪の残り方。土の湿り。石の位置。棘の多い低木の根元。踏み込めば沈む場所と、まだ硬い場所。
正面から受ける必要はない。
右腕の振り下ろしは重い。けれど重いなら、そのぶん軌道は読みやすい。
そこまで考えてから、私は隣を見た。
レディヴィアはすでに一歩前へ出ていた。
細い肩で獣と向き合っているのに、押される気配がない。
獣が先に動く。
唸りが低く沈んだ次の瞬間、右腕が横薙ぎに走った。
空気が遅れて裂ける。まともに受ければ、骨ごと持っていかれそうな軌道だった。
レディヴィアは避けなかった。
半歩だけ踏み込み、振り抜かれる肘の内側へ身体を運ぶ。ほとんど獣へ寄るような位置で、そのまま左手を肩口へ当てた。
軽く触れただけに見えた。
けれど、獣の巨体が横へ揺れる。
足が半歩ぶんだけ流れ、重心が崩れた。左前肢は沈み、土が深く抉れる。
私は指を動かして風を動かす。
ひとつは獣の鼻先へ。もうひとつは、踏み直そうとした左前肢の足元へ。
鼻先へ叩きつけられた風が雪と砂を巻き上げた。
獣の顔がわずかに上がる。
同時に、足元の黒土が浅く削れ、前肢が半拍だけ滑る。
レディヴィアが今度は真正面へ立つ。
獣の懐へ身体を入れた。低く、短く、息を吐く。
次の瞬間、鈍い音がした。
獣の胸が、沈む。
ただ、肩と体重をまっすぐぶつけただけのように見えた。それだけで、巨体が半歩ぶん浮いた。後肢が土を掻き、喉から濁った息が漏れる。
獣が吠える。
右腕を引き、振り下ろすより早く、身体ごと前へ乗せてくる。
「アルシエラ様」
レディヴィアの声は低かった。
振り返らない。けれど、それだけで十分だった。
開いている。
喉の下。肩口。前肢と前肢のあいだ。巨体が前へ来たせいで、首がほんの少し長く見えた。
指先の風を、細く絞る。
狙うなら、喉だ。切り裂くというより、通す。深く。一筋だけ。
そこまで定めて、私は止まった。
喉を断てば死ぬ。
それは当たり前のことだった。
今、私が指をひとつ振れば終わる。
その迷いを、獣は逃さなかった。
右腕が、途中で軌道を変える。
レディヴィアではなく、後ろの私へ向けて、欠けた爪が斜めに走った。
私はつま先で地を軽く打つ。
黒い土が、すぐ目の前で隆起した。
雪ごと持ち上がり、石混じりの壁になって立つ。
爪がそこへ食い込んだ。土が裂け、雪の欠片が散る。壁は一撃で半ば崩れたが、その半ばで十分だった。爪の軌道は逸れ、破片だけが肩を掠めて過ぎる。
私は一歩も退かない。
崩れた土の端から獣を見る。
右腕が壁へ刺さったまま、巨体の動きが一瞬だけ止まる。
抜こうとしている。力はある。すぐに外れるだろう。
レディヴィアが、軽く飛び上がる。
獣の右肩へ、そのまま体重を落とした。巨体が沈む。
「今です」
短い声だった。
私は息を吸う。
指先を、獣の喉へ向ける。
刃の形すら取らず、ただ細く、深く、まっすぐに入った。喉の下、柔らかなところへ一点だけ圧を叩き込み、そのまま奥へ抜ける。肉を大きく裂きはしない。それだけだった。
獣の目が見開かれる。
右腕の爪が、土を掻く。
抜こうとした力が途中で失われ、巨体が揺れた。喉の奥から漏れた唸りは、水気を帯びて零れる。
静かだった。
雪の残る黒土へ、巨体が横たわる。
しばらく、誰も動かなかった。
隣でレディヴィアが立ち上がった。
服にも髪にも、土と雪が少しついている。けれど息は乱れていない。ただ、私を見る前に一度だけ獣の喉元を見た。
「綺麗です」
その言葉に、私は少しだけ首を傾けた。
「そうでしょうか」
「はい。無駄がありません」
私は獣のほうを見る。
傷口は大きく開いていなかった。血も派手には流れていない。喉の下に、暗い線がひとつ見えるだけだ。
殺した。
初めて、自分からそうした。
けれど胸は、不思議なくらい静かだった。
レディヴィアが、私の隣へ戻る。
「お怪我は」
「ありません」
私は崩れた土壁を一瞥する。
「服が少し汚れたくらいです」
「それならよかったです」
そこでようやく、レディヴィアの肩からも少し力が抜けた。
彼女は倒れた獣を見下ろし、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「……食べられるでしょうか」
私は思わず、息を吐いた。
口元が少しだけ緩むのが分かった。
「ちょうど同じことを考えていました」
獣の前へしゃがみ込み、毛並みをかき分ける。損傷は、外から見えるぶんには最小限だ。右腕は硬そうだが、肩と背は使えるだろう。腹を傷めていないのは助かる。内臓の損傷も少ないはずだった。
「十分だと思います」
レディヴィアが隣へしゃがむ。
黒い土と雪のあいだに、二人の影が並んだ。
しばらくしてから、彼女が静かに言う。
「アルシエラ様」
「はい」
「風以外も、お使いになるのですね」
私は地面に視線だけを動かす。
さきほど地を打った足元の土は、もう崩れかけた壁の残骸へ戻っていた。
「……必要でしたので」
レディヴィアはじっと私を見つめたまま、黙り込む。
私は彼女の視線の意味を少しだけ考える。
結局わからず、首を傾げてしまう。
「レディヴィア様……?」
私の言葉にはっとしたように表情を変えたレディヴィアは、口を開いたまま、少し考え込む。やがて、ひどく慎重な声で言う。
「私は、魔王です。 それで……アルシエラ様は、勇者なのだと、思いました」
それだけ言って、彼女は立ち上がる。
私は、返す言葉が浮かばずに、辛うじて笑みを浮かべるだけだった。
彼女は獣の巨体を見下ろし、それから私へ手を差し出した。
「では、持って帰りましょう」
私はその手を見上げる。
細い手だ。けれど、つい先ほどまで、この巨体の重みを真正面から受け止めていた手でもある。
その手を取って立ち上がる。
獣の巨体をその場で解体するには、ここは安全ではない。
雪の名残を踏み、私たちはひとまず城へ持ち帰ることにした。
レディヴィアが先に身を屈める。
太い前肢の下へ腕を差し入れ、そのまま肩へ担ぎ上げた。動きそのものは滑らかだったが、持ち上げた次の瞬間だけ、わずかに足元が沈む。巨体は思っていた以上に重いらしい。後肢が地を擦り、黒い土の上へ短い筋を引いた。
「……大丈夫ですか」
私が問うと、レディヴィアは顔を上げずに答えた。
「歩けます」
けれど、その声の奥には、少しだけ余計な力があった。
私は獣の後ろへ回り、指先を軽く上げる。
風ではなく、もっと静かな力で、引きずられていた後肢だけを持ち上げた。地面とのあいだに、ほんの指二本ぶんの隙ができる。毛先が雪へ触れずに済む程度の高さだった。
そのまま、私たちは歩き出した。
しばらくは、どちらも何も言わなかった。
踏みしめるたび、薄い雪が土へ沈む。冬の光はまだ低い。枝の影が細く足元へ落ち、そのあいだを、獣の重みを抱えたレディヴィアが静かに進んでいく。
やがて、彼女が口を開いた。
「……やはり」
少しだけ間があく。
「アルシエラ様は、もっと何でもできたはずです」
その言葉に、私はすぐには返事ができなかった。
聞いたことのある問いだった。
けれど、最初の朝に向けられたものとは違う。
私は歩みを止める。
レディヴィアも、それに合わせて立ち止まった。
獣の後肢を支えていた指先を、そっとほどく。代わりに掌を向ける。
次の瞬間、巨体がふわりと持ち上がった。
レディヴィアの肩から、重みが離れる。
獣は落ちない。ただ、その場で静かに浮いていた。地を離れているのに、不安定さはない。まるで最初から、そこにあるべき重さではなかったみたいに。
私はその光景を見たまま、静かに問う。
「……怒っていますか」
レディヴィアは、肩から失せた重みのあとを確かめるように、一度だけ自分の手を見た。
それから、浮かぶ獣へ視線を上げ、はっきりと言った。
「今は、少しだけ」
そこで言葉を切り、ようやく私を見る。
「あなたが強いことに怒っているのではありません」
声は静かだった。
けれど、その静けさの底へ、今までになかった硬さがある。
「私が、知らないまま守られていたことに」
胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。
たぶん私は、今どんな顔をしているのか、自分でも分かっていた。
悲しいのだと思う。見抜かれたからではなく、それがたぶん、彼女の言う通りだからだ。
レディヴィアは、そんな私を見て、目を逸らさなかった。
「二人とも花嫁です」
彼女はゆっくりと言う。
「けれど、それだけではありません」
そして一歩、こちらへ近づく。
「私は、魔王です」
そのまま、浮かぶ獣へ手を伸ばした。
指先が触れるより早く、私の掌へ軽い衝撃が走る。
制御の糸が、す、と切れた。思わず息を呑む。けれど獣は落ちなかった。
浮いている、というより違った。
そこにあるのに、重さだけが抜かれている。
獣の巨体は、私の魔術から離れたあとも、静かに宙へ留まっていた。
レディヴィアの瞳の奥で、赤い光がほんのかすかに揺れる。焔ほど強くはない。ただ、薄い膜の向こうで熱が呼吸しているみたいな色だった。
「アルシエラ様が、何でもできても」
レディヴィアは、獣へ触れたまま続けた。
「私は、私にできることを探します」
私は何も言えない。
彼女の声は少しも大きくなかった。
なのに、一言ごとに、こちらの奥へ深く落ちてくる。
「私のために、小さくならないでください」
そこで、彼女はほんの少しだけ眉を寄せた。
「それは、公平ではありません」
公平。
その言葉が、あまりにもまっすぐで、私は小さく息を詰める。
レディヴィアは、もう一歩ぶんだけ言葉を重ねた。
「花嫁が二人いると、あなたは言ってくれました」
赤い光は、もうほとんど見えない。
けれど獣はなお軽いままだった。彼女の手の上で、地に引かれることを忘れたように。
「それなのに、私だけ何もできないままなのは嫌です」
その一言だけは、少しだけ幼かった。
拗ねたようにも聞こえる。悔しさにも、誇りにも聞こえる。
私は視線を落とした。
雪の上へ落ちる自分の影が、少しだけ歪んでいる。
「……そんなつもりは」
言いかけて、やめた。
そんなつもりは、あった。
最初から全部、そうだったわけではない。けれど、一緒に暮らし始めてから私はずっと、半分にしていたのだろう。
レディヴィアが一人にならないように。
そしてたぶん、自分もまた、一人にならないように。
私はようやく、顔を上げる。
「……そうだったのかもしれません」
レディヴィアは何も言わなかった。
ただ、そのまま獣に向けた手を下ろさず、静かにこちらを見ていた。
私は少しだけ笑おうとして、うまくいかなかった。
「あなたと一緒にいたかったのだと思います」
それは言い訳ではなかった。
正しさでもない。ただ、いちばん底にあったものを言葉にしただけだ。
「一緒にいるために、片方だけが小さくなるのは、違います」
レディヴィアが言う。
私は、今度こそ少しだけ笑った。
困ったような、情けない笑いだったと思う。
「ええ」
その通りだった。
「あなたは、本当に……容赦がありませんね」
「いま少し、怒っていますから」
返ってきた言葉に、私はようやく息を吐いた。
それでいいのだと思う。
少しの沈黙のあとで、レディヴィアは視線を獣へ戻した。
「でも」
赤い光はもう消えている。
それでも獣はまだ軽そうに見えた。
「これは、半分ずつにしましょう」
私は目を瞬かせる。
「半分ずつ?」
「はい」
彼女は真面目に頷いた。
「最初も、一緒でした」
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かが、少しだけやわらかくほどけた。
私は浮いた獣へそっと手を向ける。
浮かせたまま、獣の左手に触れる。
レディヴィアは右手の爪を軽く引いて、前を向いた。
「……ええ」
私は静かに答えた。
「そうしましょう」
冬の光はまだ薄い。
黒い土の上で、獣の血だけが鈍く沈んでいる。




