ep.27 魔の領域
見たことのある草もある。
けれど、その隣に、知らないものが平然と生えていた。
灰緑の葉の先端だけが妙に赤い低木。霜に触れてなお艶を失わない、肉厚な葉。節ごとに膨らみのある黒い茎は、枯れているように見えて、近づくとまだ芯に水を含んでいるのが分かる。
書物の中で似たような図譜を見た覚えはある。だが、頁の上の挿絵と、実際の冬の地に根を張るそれとは、どうにも結びつかなかった。
「……知っているものは、あまりありません」
私がそう言うと、隣を歩くレディヴィアも周囲を見回した。
「私もです」
返ってきた声は静かだった。
「見たことはあります。ですが、名前までは」
それならなおさらだった。
見たことがあることと、触れてよいことは違う。
書物の知識だけで決めてよい地ではなかった。
私は足元の低い蔓を避けながら言う。
「安易には触れないようにしましょう」
「はい」
「食べられそうに見えても、そう見えるだけかもしれません」
「全部、バツですね」
彼女の言葉に、私は少しだけ目元を和らげた。
風は弱い。だから余計に、音の少なさが分かった。
鳥の声はない。
枝の擦れる音も、人の側よりずっと乾いている。私たちの足音だけが、やけに近く聞こえた。けれど完全に静かなわけではなかった。
少し先の藪で、何かが身を引く気配がある。
さらに奥の木立の向こうでも、別の何かがこちらに気づいて、気配だけを置いて退いていく。
見えない。
だが、いないのではない。
レディヴィアもそれを感じているらしく、歩を緩めた。視線が右へ、左へと動く。けれど何かを見つけた顔ではない。
「……逃げていきます」
「ええ」
その言葉に、私は少しだけ周囲を見回した。
枝の陰。黒い石の向こう。棘の多い潅木の根元。こちらを窺う気配はあるのに、近づいてくるものがない。獣の視線は、どれもひどく遠慮がちに感じられた。
どうしてだろう、と考えかけて、すぐに思い至る。
私が勇者であること。
レディヴィアが魔王であること。
それをそのまま口にするつもりはなかった。だから私は、少しだけ言い換えて、静かに言う。
「……私たちのような存在は、獣たちには恐ろしいのかもしれませんね」
レディヴィアはすぐには答えなかった。
ただ、足を止める。
それから、何かを確かめるみたいに一度だけ周囲へ目をやり、浅く息を吸った。瞼が閉じられる。喉の奥で、ごく低い、唸りとも呼べぬ音がかすかに鳴った。
「レディヴィア様?」
問いかけたものの、返事はない。
次の瞬間、彼女の気配がすっと薄くなる。
消えたわけではない。目の前にいる。けれど、一人の存在として掴んでいた輪郭だけが、景色の中へ静かに溶けていく。先ほどまで彼女のまわりへ寄り添うように満ちていたものが、留まるのをやめたのだと分かった。
レディヴィアが引いた分の余白に、土地のほうが近づいてきた。
空気が濃く、重く、匂いは強くなる。
土の下にも、枝の先にも、薄く残る雪の底にも、魔が沈んでいる。ひとつの主の影に隠れて見えなかったそれが、急に輪郭を持つ。この地そのものが、人の領域よりずっと濃い魔を抱えているのだと、遅れて身体が知った。
私は目を瞬かせ、 思わず片手を上げる。
指先を軽く振る。魔術を呼ぶというより、ほんの細い糸を確かめる程度の動きだ。
すると、空気が驚くほど素直に応じた。風の筋が、普段より少ない力で指へ絡む。人の領域より、果ての地より、もっと自然に。
まるで、隠れていた魔が、隠れる事を止めたかのように。
そこで私は、ようやく理解する。
果ての地で獣が近寄らなかったのは、ただレディヴィアが強いからではない。
彼女の存在が、このあたり一帯の魔を自らの側へ従わせていたからだ。獣たちはそれを、本能で避けていたのだろう。
恐ろしい、とは思わなかった。
ただ、今更になってはっきりと、感覚で知った。
今まで隣にいた少女の中に、魔王というものが確かにあるのだと。
レディヴィアが、ゆっくりと瞼を開ける。
先ほどまで掴みにくかった輪郭が、少しずつ戻る。
けれど完全には同じではない。彼女のまわりだけ、まだ薄く張りつめたものが残っていた。
「……我慢すれば」
小さく息を吐いてから、レディヴィアは言った。
「これで、獣も寄って来るでしょう」
その声音はいつも通りだった。
けれど、その言葉が、妙に身体に近く響く。
「我慢、ですか」
「はい」
レディヴィアは少しだけ眉を寄せた。
「抑えるのは、落ち着きません」
私は彼女を見た。
無理をしているのだと分かる顔ではない。ただ、自然に呼吸しているものを、ひとつ余計に意識して整えているような、そんな静かな緊張だけがあった。
「……無理はなさらないでくださいね」
「片足をちょっと上げるくらいです」
あまり間を置かずに返ってくる。
それは大変なことではないが、ずっと続けるのは少し困る。
わかりやすい例えだと思った。
私は今度は自分が目を閉じる番だと思い、足を止めた。耳を澄ませるというより、あたりへ沈むように意識を向ける。枝の軋み。雪の残る土を伝う水の細い音。遠くで何かが葉を踏む気配。
さっきまでは、どれも遠ざかるものばかりだった。
けれど今は違う。
見えないところに、確かに視線がある。
低い場所から。少し高い岩の上から。棘のある藪の向こうから。
数は多くない。だが、こちらがここにいることを、いくつかの生き物がもう一度測り始めている。
私は目を開き、ゆっくりと息を吐いた。
「……たしかに」
「いますか」
「ええ」
私は苦笑する。
「今度は、ちゃんと見られています」
レディヴィアはそれを聞いて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
それから周囲を見回し、静かに言う。
「では、これ以上進めば、何か見つかるかもしれません」
「そうですね」
私は足元の黒い土を見下ろす。
薄く残る雪は、ところどころ植物の棘へ引っかかり、白い布片みたいに揺れていた。人の領域側と似た地形なのに、ここではすべてが少しずつ鋭い。
「ですが、慎重に」
「バツには近寄りません」
互いに確認するみたいに言い交わしてから、私たちはまた歩き出した。
耳の奥で、遠く地面が揺れた。
私たちが気が付くより早く、気が付かれている。
私は剣に手を添えて、反対の指先へ薄い風を集める。
レディヴィアは何も言わなかった。
ただ、先ほどより静かになった気配のまま、私の半歩前を歩いている。
その背を見ながら、私はひどく静かな驚きを胸の奥へ残していた。
魔王。
隣にいる少女の名を、私はもう知っている。
けれど今、初めてその肩書きが、生きた重さを持って私の中へ落ちた気がした。
それでも、不思議と怖くはなかった。
少し先で、低く大きな唸り声がした。
レディヴィアが遠くに視線を向ける。
「強い獣です」
「いきなりですか」
「多分、私たちが美味しい獲物だと思って、急いできたのでしょう」
唸り声は、藪の向こうからではなかった。
もっと低く、もっと重く、地面そのものが先に気づいていたような響きだった。
次の瞬間、黒い潅木のあいだから、それは姿を現した。
思わず息を止める。
熊に似ていた。
だが、熊だと呼ぶには骨格の圧が違う。体高は馬よりも高く、毛は土と煤を混ぜたような濁った黒褐色をしている。背には岩の瘤のような突起がいくつも並び、肩から背へかけて不自然なほど盛り上がっていた。
何より異様だったのは右腕だった。
左の前肢で重い身体を支えながら、右腕だけがひときわ大きく、異様な発達を見せている。肘から先がひどく長く、垂れた先には黒く太い爪が何本も伸びていた。一本一本が刃のように鈍く光り、そのうちの一本は根元近くで欠けている。古い傷なのだろう。肩口や脇腹にも、治りきった痕がいくつか走っていた。
血は流れていない。
すでに癒えた傷ばかりだった。
腹の奥で石を擦るような低い唸りを鳴らしながら、二人の前へゆっくりと歩み出る。涎が糸を引き、雪の残る土へ落ちた。近づいてくるにつれて獣臭が濃くなる。生臭さと湿った毛皮の匂いが、冷えた空気を押してきた。
すぐには飛びかかってこない。
距離を取り、角度を変え、ぐるりと半円を描くようにして二人を見る。測っているのだと、見なくても分かった。
私はその姿を見据えたまま、小さく息を吐く。
「……書物で見たことがあります」
隣で、レディヴィアが視線を外さぬまま問う。
「知っている獣ですか」
「ええ。図譜の中でですが」
わずかに眉を寄せる。
「あんなに大きくはありませんでしたが……」
書物の挿絵では、せいぜい大男をひと回り越える程度の大きさだったはずだ。こんなふうに、馬より高い影が地を踏みしめるようには描かれていなかった。
だが、それでも完全な未知ではない。
知らない異形ではないというだけで、わずかに息がしやすくなる。
獣から目を離さぬまま、その次を考える。
「……食べられるでしょうか」
レディヴィアが少しだけこちらを見る。
「今、そこを考えたのですか」
「狩りに出るつもりでしたし、獣ならまずそこを考えるべきかと」
レディヴィアは一瞬だけ目を瞬かせたが、否定はしなかった。代わりに、獣を見たまま低く問う。
「アルシエラ様は、戦ったことがありますか」
その問いに、腰の剣へ添えたままの手を動かす。
鞘走る音は、自分で思っていたより軽かった。
剣を抜く。白い冬の光を受けて、刃が細く光った。
「……魔術は磨きましたが」
そう言って構えようとしたところで、わずかに息を止める。
「戦ったことは、ありません」
剣先が定まらなかった。
自分の腕の先にある刃が、どこを向くべきか分からない。獣の喉か、右腕か、目か、脚か。考えれば考えるほど、切っ先がわずかに揺れる。足の置き方も浅い。身体より先に剣だけが前へ出てしまい、ひどく不自然だった。
数拍ぶんだけその違和感を味わい、それから小さく息を吐いた。
静かに剣を収める。
その動きを見て、レディヴィアが一歩前へ出た。
「前は、私が」
低い声だった。
いつもの静けさのまま、けれど迷いなくそう言う。
「いいえ」
そう答えて、レディヴィアの隣へ並ぶ。
肩が触れそうな位置で止まり、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「……思えば、剣を抜いたことはありませんでした」
自分で言って、ようやく本当にそうなのだと腑に落ちる。
持たされたことはある。飾られたこともある。けれど、抜いて向けたのは今が初めてだった。
片手を上げる。
指先を、ゆっくりと獣へ向けた。
風が、細い糸みたいに絡みつく。
隣では、レディヴィアが獣を見据えたまま、ごく浅く息を吸っていた。
低く、大きな獣は、二人の前で再び唸る。
右腕の爪が、雪の残る黒い土へ深く食い込んだ。
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