ep.26 生活
鍋の底が見えるころには、三人ともあまり言葉を交わさなくなっていた。
遅い朝食は、朝と昼のあわいみたいな時刻に終わる。
私は匙を置き、ほんの少しだけ息を吐く。
「……では」
椀を重ねながら、私は顔を上げた。
「改めて、紹介に行きましょうか」
レディヴィアが目を瞬かせる。
「ソルとロアとノクトです」
そう言うと、ルルティナはまだ少し戸惑いの残る顔で、けれど静かに頷いた。
「はい」
片付けを済ませ、三人で広間へ向かう。
広間の扉を押し開けると、壁際の乾いた場所に、ノクトが伏せていた。
すぐにこちらへ向く。耳がひとつ動き、けれど身体は起こさない。
私は数歩だけ近づき、静かに呼ぶ。
「ノクト」
その名に、魔獣は首を上げた。
はっきりとこちらを見返し、耳をこちらへ向ける。けれど、それだけだった。次の瞬間には、何事もなかったように姿勢を戻してしまう。
レディヴィアが、ノクトの前へしゃがみ込む。
黄の目が、今度は彼女を映した。
「……やはり、機嫌が悪いのかもしれません」
私は小さく息を吐いた。
広間の床へほとんど落ちていた外套を拾い上げ、その背へそっと掛ける。首から肩を覆い、脇腹のあたりまで包み込むように整えてから、もう一度だけ呼んだ。
「ノクト」
今度は、喉の奥で低く音が鳴った。
唸り声ではない。短く、くぐもった響きだった。ノクトは外套の下で少しだけ身体の力を抜き、それからまた伏せる。
その様子を見ていたレディヴィアが、ほんのわずかに目元を和らげる。
「今度は、満足そうですね」
そう言って、今度は嫌がられぬ程度に頭へ手を置き、ひとつだけ撫でた。
広間を出て、今度は前室へ向かう。
扉を開けると、壁際で二頭の馬が並んでいた。足元の藁は少し潰れている。首を上げた二頭は、こちらを見ると、すぐに短く鼻を鳴らした。
私は近いほうの首筋へ手を伸ばす。
「ソル」
ぴくりと耳が動き、すぐに軽い嘶きが返る。
隣でレディヴィアも、もう一頭へ向かって呼びかけた。
「ロア」
ロアもまた、低く優しい声を漏らした。
その応じ方があまりに素直で、私は少しだけ頬を緩める。
「こちらは、すぐに受け入れてくれましたね」
「はい。賢いです」
レディヴィアはそう言ってから、ルルティナのほうを振り向いた。
「この子たちなら、触っても大丈夫です」
ルルティナは少しだけためらったが、やがてソルの首元へそっと手を伸ばした。
馬は身を強ばらせることもなく、むしろその指先へ鼻先を寄せるようにして、静かに息を吐く。ロアもまた、鼻筋をルルティナの背に押し付ける。
私はその様子を見て、何気なく尋ねる。
「前にも会ったことがあるのですか」
ルルティナは鬣へ手を滑らせたまま、少しだけ考える顔をした。
「……この子たちは、王城の厩舎にいた子たちでしょうから」
そう言ってから、記憶の端を探るように目を伏せる。
「何度か厩舎へ寄った時に、居たのかもしれません。しっかりとは、覚えておりませんが」
レディヴィアと私は、ほとんど同時に頷いた。
前室の搬入口を開けると、外の雪明かりが静かに差し込んだ。
薄く積もった白さは、もう深くはない。
「まだ三頭とも、中にいたほうがよさそうですね」
私が言うと、レディヴィアは頷く。
「はい。外はまだ冷たいです」
藁と、少しだけ麦をソルとロアへ運ぶ。二頭はすぐにそれへ鼻先を寄せた。
次に私たちは、保存食を細く裂いたものを器へ乗せ、ノクトの前へ置くため広間へ戻った。
けれど、ノクトは器に微かに鼻を寄せた後、ゆっくりと立ち上がった。
外套が背から滑り落ちる。
黄の目は、食べ物ではなく、正門のほうを見ていた。
「……ノクト?」
呼ぶと、彼は一度だけこちらを見た。
それから迷いなく広間の正門へ歩み寄り、閉じられていた閂へ頭を押しつける。木と鉄が低く鳴った。
レディヴィアが、ほんの少し残念そうに言う。
「……帰ってしまうのでしょうか」
私はその背を見ながら、静かに答えた。
「気が向いたら、また戻ってくるかもしれません」
閂へ手をかける。
「ノクトには、広間は狭いのでしょう」
木の棒を外す。
正門がわずかに開いた途端、ノクトはするりとその隙間を抜けた。
外へ出た次の瞬間、彼はぐっと脚へ力を込める。
地を蹴り、外庭の白さを飛び越えるように跳躍した。鉄色の毛並みが、薄い冬の光の中で一瞬だけしなる。
そして、空へ向けて大きく咆哮した。
低く、長く、胸の奥まで震わせるような声だった。
雪の朝の静けさを、ひと息に裂いていく。
ルルティナがわずかに息を呑み、足を引いた。
その隣で、レディヴィアは黄の残像を目で追いながら、むしろ安堵したように言う。
「元気になりましたね」
私は正門の外を一度だけ見てから、振り返る。
「ええ」
それから閂を脇へ立てかけた。
「正門は、開けておきましょう。他の扉を閉めておけば、冷気はそれほど入りませんから」
ノクトがいつ戻るかは分からない。
戻らないかもしれない。
けれど、戻れる形だけは残しておきたかった。
広間に置いた保存食を持ち直し、三人で食料庫へ向かう。
厨房の隣の小さな食料庫は、相変わらず多くを約束してはくれない。袋の口を軽く覗けば、麦はまだある。豆もある。けれど豊かではない。燻製肉も保存食も、数えはじめれば心許ないのがすぐ分かる。
私は手にした包みを棚へ戻し、そのまましばらく中を見回した。
「……そこまで、無いですね」
ぽつりと漏らすと、レディヴィアが隣へ立つ。
「足りませんか」
「すぐに尽きるほどではありません」
私は袋の重さを指で確かめる。
「ですが、冬のあいだ安心できるほどでもない。一番早いのは、狩りに出ることです」
そこまで言ってから、私は少しだけ口を閉じる。
頭の中に、ノクトの黄の目がよぎった。
「……ただ」
棚から視線を外さず、静かに続ける。
「ノクトを世話した以上、少し気が引けます」
レディヴィアは少しだけ考えるように目を伏せた。
それから、落ち着いた声で言う。
「外には、外の生き物がいます」
私は彼女を見る。レディヴィアは変わらず静かな顔だった。
「私たちを食料だと思っている獣だけ、襲いかかってきたら狩りましょう」
私は少しだけ黙る。反対する理由を探しかけて、けれど見つからない。
「……そうしないと、食事がありませんね」
「はい」
ルルティナは、私たちのやりとりを聞きながら、なおも少し迷うような顔をしていた。やがて、静かに口を開く。
「私に、戦う術はありません」
声は低かったが、はっきりしていた。
「王城の周りくらいなら、ともかく。エヴェルデナは、人と魔の果ての地です。侍女にできることは、ありません」
最後の一言で、彼女は目を伏せた。
己の無力を飾らずに置いた声音だった。
「では、私とレディヴィア様が外へ出ます」
ルルティナが顔を上げる。
「ルルティナには、城の中を頼みます」
「城ですか」
「ええ」
私は頷く。
「食糧は必要です。ですが、住める場所を整えるのも同じくらい必要です。前室も、まだ片づけきれていませんし、厩舎もどうにかしなければなりません。使える部屋も、もっと増やしたい」
レディヴィアが、静かに続けた。
「帰りを待っていてください」
その言葉に、ルルティナは今度は迷わなかった。
「はい」
しっかりした返事だった。
私は暖炉の部屋に戻り、古地図を持ち出し、卓の上へ広げた。
端を石で押さえ、炭で記した印を指先でなぞる。
「見てください」
丸のついた場所を示す。
「ここが今使っている部屋です」
次に、三角の印を指で辿る。
「こちらは保留です。手を入れれば、使えるかもしれません」
最後に、バツと、まだ何も印のない白い区画を見る。
「バツの部屋と、印のない部屋には入らないでください」
ルルティナが地図の上へ視線を落とす。
私は静かに続けた。
「危ないからです。床が抜けるかもしれない。梁が落ちるかもしれない。まだ見ていない場所は、それだけで危険です」
ルルティナは真剣な顔で地図を見ていた。
私は最後に、指を地図から離す。
「どうですか」
ルルティナは少しのあいだ黙っていた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「……分かりました」
そしてもう一度、今度は先ほどよりしっかりした声で言った。
「任せてください」
私は小さく頷いた。
続けて、私はルルティナと一緒に、掃除や洗濯に使ってよい布を見分けることにした。
物置の棚に積まれた布は、見た目こそ似ていても、用途はばらばらだった。厚く丈夫な麻布、端に飾りの残る古い敷布、擦り切れた外套の裏地、まだ使えるが肌へ当てるには少し硬い布切れ。
ルルティナは一枚ずつ手に取り、指先で厚みを確かめ、光へ透かし、縫い目の残り方まで見ていく。
「こちらは、洗って繕えばまだ身につけられます」
そう言って脇へ寄せたのは、少し起毛した厚手の下布だった。
次に、別の山から粗い麻布を抜き出す。
「こちらは、掃除に向いております。水を吸いますし、破れても惜しくありません」
その言い方に、私は思わず少しだけ目元を和らげた。
「なるほど」
「こちらは……」
ルルティナは端の傷んだ布を広げ、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「切ってしまってよいと思います。雑巾にできます」
雑巾、という言葉がこの城で口にされるのを、私は少しだけ新鮮に感じた。
「では、そちらは任せます」
私がそう言うと、ルルティナは布を抱えたまま顔を上げた。
まだ少しだけ遠慮の残る顔だったが、迷いは朝より薄れている。
「……まずは、洗濯から始めます」
私は頷く。
「布も、服も、そのまま重ねて使っていては傷みます。助かります」
ルルティナはほんの少しだけ目を伏せた。
感謝を向けられることに、まだ慣れないのだろう。けれど、今度はそれをすぐに否定しなかった。
「水場と、干せる場所を見てまいります」
「中庭が一番でしょうか」
「ええ。晴れていれば、ですが……今日は風もありますので、暖炉の近くと使い分けたほうがよろしいかと」
その答えに、私は素直に頷いた。
こういうところは、たしかにルルティナの領分なのだろう。暮らしを保つための細かな判断は、私より彼女のほうがずっと正確だった。
布の山を前にした彼女の顔は、昨夜の礼拝室とも、今朝の厨房とも違って見えた。
何を洗い、どこへ干し、何を残すかを考えている顔だ。
そういう表情が、少しだけ嬉しかった。
「では、お願いします」
「はい」
ルルティナは抱えた布を持ち直し、深くはないが、きちんとした頷きを返した。
そのまま中庭のほうへ向かう背を見送り、私はレディヴィアへ視線を向ける。
「私たちも行きましょうか」
「はい」
外套を羽織り、剣を確かめる。
前室を抜けると、雪の名残がまだ白く残っていた。空はもう晴れている。けれど冬の光は薄く、陽が高くなっても冷えは土の底へ残ったままだった。
石畳を踏みながら、私は城の外を見渡す。
昨日までの雪は浅かったが、そのぶん地面の湿りが残っている。沢沿いはぬかるむだろうし、監視塔の方向は足跡も目立つはずだった。
「監視塔のほうには、あまり近寄らないようにしましょう」
私がそう言うと、レディヴィアはすぐに頷いた。
けれど、そのまま少し考えるように目を細める。
「では、反対側へ行きますか」
「反対側?」
「魔の領域のほうです」
その一言で、私は足を止めた。
城塞の外壁の向こう、地図の線が途端に粗くなっていた側を思い出す。人の側は旧街道や沢、監視塔がまだ記されていたが、魔の領域側は驚くほどあっさりしていた。丘陵と森らしき濃い影が描かれ、その先は余白のまま近かった。
「……たしかに、まだ見ていませんね」
「地図にも、あまりありませんでした」
レディヴィアは空の色を一度だけ見て、それから静かに続ける。
「調べておいたほうがよいと思います」
「そうですね」
私は頷いた。
「人の側ばかり知っていても仕方がありませんし、魔獣が多いなら、狩りのあてもあるかもしれない」
私たちが外へ向かうのを見ると、ソルが一度だけ頭を上げ、ロアは鼻先をこちらへ向けたが、二頭ともそれ以上は動かなかった。
「行ってきます」
何となくそう言うと、ロアが小さく鼻を鳴らした。
レディヴィアはそれを見て、少しだけ目元をやわらげる。
「待っていてくれます」
「そうですね」
正門を出て、外庭を横切る。
魔の領域側の外門を抜けると、辺りは人の領域側とそう変わらない。
しばらく歩くと、徐々に足元の土の色が少し変わり始めた。人の側の地面より黒く、石が多い。
植生も違った。枯れていることに変わりはないのに、枝の伸び方がどこか鋭い。低い潅木は棘を隠さず、地を這う草も、人の側のものより葉が厚かった。




