ep.25 朝
目が覚めた時には、部屋の明るさがいつもより高かった。
暖炉の火は灰の奥に赤を残しているだけで、毛布の内側の熱ももう穏やかになっている。昨夜は真夜中に一度起きたせいだろう。窓の向こうは白く明るく、夜の雪はすでに止んでいた。空は薄い。けれど朝というには少し遅い光だった。
私は毛布をそっと押しのける。
「アルシエラ様」
隣から、すぐに声がした。振り向くと、レディヴィアはもう目を開けていた。寝起きのせいか、いつもより少しだけ静かな顔でこちらを見ている。
「おはようございます」
「おはようございます、レディヴィア様」
返してから、私は窓へ目をやった。雪は本当に止んでいる。石の縁や崩れた木材の上に、昨夜降った白さだけが静かに残っていた。
「ずいぶん寝てしまったようですね」
「はい。昼に近いかもしれません」
私たちは起き上がり、手早く支度を整えた。顔を洗いに行く前に、私はふと礼拝室の方角を思い出す。
「……ルルティナの様子を見に行きましょうか」
そう言うと、レディヴィアはすぐに頷いた。
「はい」
簡単に身支度だけを済ませ、二人で廊下へ出る。雪の明るさのせいか、石の回廊もいつもより少し白く見えた。冷えはある。けれど、昨夜のように刺すような寒さではない。
礼拝室へ続く角を曲がると、扉が少しだけ開いていた。
私は足を止める。レディヴィアも同じように立ち止まり、その隙間をじっと見た。
「……開いていますね」
「ええ」
そっと扉へ手をかけ、押し広げる。
冷えた空気が、静かに流れ出た。
礼拝室の中は、昨夜と変わらず薄暗かった。高い窓から落ちる雪明かりが、石の床を淡く照らしている。祭壇の傍では、重ねた外套にもたれるようにして、ルルティナが眠っていた。壁へ背を預け、肩まで布を引き上げている。眠りは浅くはなさそうだった。疲れが勝ったのだろう。
けれど、礼拝室の真ん中には、別のものがいた。
ノクトだった。
黄みがかった目を開けたまま、床の中央に伏せている。こちらが扉を開けた音にも驚いた様子はなく、ただ静かに顔だけを上げて、私たちを見ていた。昨夜より毛並みは乾いていて、肩の傷も、少なくとももう血は滲ませていないように見える。
私はしばらく、その光景を黙って見ていた。
ルルティナは祭壇にもたれ、ノクトは礼拝室の真ん中にいる。
レディヴィアが少しだけ不思議そうな顔をして、礼拝室の中を進む。
ノクトは耳をひとつ動かしたが、立ち上がりはしない。
その前にレディヴィアがしゃがみ込む。
「ここにいたのですね」
返事の代わりに、ノクトは鼻先をわずかに上げた。
レディヴィアが手を伸ばし、その頭をそっと撫でる。
ノクトはすぐに頭を振った。手を払うようにして身をよじり、低く鼻を鳴らす。そのままゆっくりと立ち上がると、私たちの間をすり抜けるようにして扉の外へ出て行った。
呼び止める間もなかった。
私は思わず、その背を目で追う。ノクトは振り返りもしない。廊下の先へ、音もなく消えていく。
レディヴィアは扉のほうを見たまま、ほんの少しだけ首を傾げた。
「機嫌が良くなかったです」
「……かもしれませんね」
私が返すと、レディヴィアは納得したように頷いた。
細い息を溢して、礼拝室の扉に目を向ける。
何も無くて良かった。安堵が胸の内を占めていた。
もしもを考えると、穏やかな朝では居られなかった。
それから、ようやく祭壇のほうへ目を向ける。
ルルティナはまだ眠っている。夜のあいだ、礼拝室の冷えの中で休んでいたのだろう。けれど、その表情は昨夜ほど張りつめてはいなかった。肩の力が少しだけ抜けている。
私は祭壇に寄り、静かに声をかけた。
「……ルルティナ」
彼女の睫毛がかすかに震える。
少し遅れて、ゆっくりと目が開いた。最初は焦点が合わず、次に祭壇の上、そして私たちの姿を捉える。目覚めたばかりの戸惑いが、そのまま顔に浮かんだ。
「……アルシエラ様」
かすれた声だった。
続いてレディヴィアを見て、ほんのわずかに身体を起こす。
「レディヴィア様も……」
「おはようございます」
レディヴィアが言う。
ルルティナは一瞬だけ返事に迷ったようだったが、それでも小さく頷いた。
「……おはようございます」
彼女の肩から、ずり落ちかけた外套を私はそっと持ち上げ直す。石の礼拝室は、昼近い光が入ってもまだ冷たい。
「よく眠れましたか」
尋ねると、ルルティナは少しだけ考える顔をした。
それから、昨夜ほど硬くはない声で答える。
「はい。……寝すぎたかもしれません」
「それなら良かったです」
私は祭壇の傍と、部屋の中央を見比べた。
つい先ほどまでノクトがいた石床は、もう何事もなかったみたいに静かだった。
ルルティナも、その視線の動きに気づいたのか、礼拝室の真ん中へ目を向ける。
「何か……」
「ノクトがいました」
レディヴィアが先に答えた。
「ノクト、ですか?」
彼女の言葉に、ルルティナが疑問を口にする。
「魔獣です」
ルルティナがほんの少し目を見開く。
レディヴィアは真面目な顔で頷いた。
「私が撫でたら、嫌そうにされました」
ルルティナはすぐには言葉を返せなかった。
けれど、その沈黙の端に、ごく小さな戸惑いと、ほんのわずかな可笑しさが混じった気がした。
私はそれ以上その話を引き延ばさず、扉のほうへ身体を向ける。
「ひとまず、朝食にしましょう」
ルルティナは祭壇へ背を預けたまま、少しだけ息を吐いた。
そして、今度はためらいすぎることなく頷く。
「はい」
礼拝室の冷たい空気の中で、その返事だけが少しだけやわらかく響いた。
厨房へ入ると、石の床はまだ朝の冷えを残していた。
私は袖を少しだけ捲り、鍋に手をかける。
「朝食というには、少し遅いですが」
そう言ってから、豆の残りを小鍋へ移す。
「私が」
ルルティナが口を開く。
私は振り向かずに答えた。
「こちらは任せてください」
麦を加え、燻製肉は少しだけ裂けばよい。慣れた手順になりつつあるその動きを、背後から静かな視線が追っているのが分かった。
背後の気配がほんの少しだけためらうように揺れる。私は鍋の底をさらいながら、ようやく一度だけそちらを見る。
ルルティナは立ったまま、私の手元を見ていた。
その顔に浮かんでいたのは、遠慮でも、恐縮でもない。もっと別の、痛みに近い静けさだった。
たぶん彼女は、私がこういうふうに鍋を持ち、火加減を見て、当たり前みたいに三人分の食事を整えていくこと自体が、まだ胸に刺さるのだろう。
小屋に押し込められていたはずの少女が、自分の前で淡々と暮らしを回している。その事実を、目で見てしまうことが。
その沈黙を破ったのは、レディヴィアだった。
「では、水を汲んできます」
私が何か言うより早く、レディヴィアは水差しを持ち上げる。
そして、ほんの少しだけ首を傾げた。
「ルルティナ様も、来ますか」
ルルティナは一瞬、私のほうを見た。
それから、少し遅れて頷く。
「……はい」
二人の足音が、厨房から遠ざかっていく。
静かになったところで、私は小さく息を吐いた。
鍋の中では、まだ固い豆が鈍く転がっている。燻製肉の塩気は強い。茶葉ももう多くはない。干した果実は残っているが、あれは腹を満たすものではない。
薪は確保した。
雪も止んだ。
けれど冬は、何かを与えてくれる季節ではない。
草花の恵みは期待できない。
狩りに出るしかないのだろう。
そう思ったところで、頭の中にノクトの黄の目が浮かんだ。
私は鍋を混ぜながら、少しだけ眉を寄せた。
――困りましたね。
そう胸の内で呟いたところで、足音が戻ってきた。
レディヴィアが水差しを抱え、ルルティナがその横で布を二枚持っている。
「水です」
「ありがとうございます」
受け取って鍋へ注ぐ。
ルルティナは何も言わず、布を作業台へ置いた。そこから少しだけ迷い、椀を三つ、棚から取って並べる。
レディヴィアが椀を拭くのに習って、隣で椀を拭い始める。
それを背後に、私は鍋を見つめ続けた。
やがて鍋の蓋が小さく鳴り始める。
豆の匂いと麦の甘み、燻製肉の塩気が、冷えた厨房へじわじわと広がった。
私たちはそれぞれ木箱へ腰を下ろし、少し遅い食事を始めた。
豆と麦の鍋に、保存食の薄い切れ端。湯気の立つ茶。変わり映えはしない。けれど、今日は椀が三つある。
しばらくは、誰も多くを語らなかった。
匙が椀に触れる音だけが、小さく続く。
先に口を開いたのは、私だった。
「……ルルティナ」
彼女が顔を上げる。
「あなたは、これからどうするつもりだったのですか」
問いは静かに落ちた。
ルルティナはすぐには答えなかった。椀の中の豆をひとつ、視線だけで追ってから、やがて小さく息を吐く。
「王城を、勝手に出てまいりました」
声は低かったが、昨夜ほど掠れてはいない。
「ここへ辿り着くつもりも、本当は……なかったのだと思います」
それだけで十分だった。
どこへ行くとも決めず、ただ歩き始めてしまったのだと分かる。言い切らないところが、かえってその空白の深さを示していた。
レディヴィアが、椀を持ったまま静かに尋ねる。
「帰る場所が、無いのですか」
ルルティナは首を横に振った。
「……帰られる場所は、まだあります」
その言い方に、私は少しだけ目を伏せた。
あるのだ。帰るべき場所は。けれど、それが帰る場所であるとは限らない。
「ですが」
私はゆっくり言う。
「一人で返すのも、歩いて帰るのも危険です」
雪のあとだ。道はぬかるみ、森も静かではない。城塞の外に何がいるか、私たちはもう知っている。
ルルティナは椀を両手で包んだまま、少しだけ口元を引き結ぶ。
「ずっと、ご迷惑をおかけしてばかりです」
それに対して返事をしたのは、レディヴィアだった。
「城は広いです」
まっすぐな声だった。
「まだまだ、やることが沢山あります」
ルルティナが、ゆっくりと顔を上げる。
レディヴィアは椀を置き、淡々と続けた。
「片づける部屋もあります。前室も、まだ整えきれていません。厩舎も、どうにかしなければなりません」
そこで一度だけ息を継いでから、彼女は言った。
「手伝ってくれませんか」
ルルティナは返事をしなかった。
ただ、目だけがわずかに揺れる。
私はその横顔を見てから、小さく頷いた。
「私も、そのほうが良いと思います」
ルルティナはようやく視線をこちらへ移した。
何かを言いかけて、やめる。代わりに、ほんの少しだけ唇を噛んだ。
「……ありがとうございます」
そう言ってから、彼女はまだ何かを飲み込めていない人の顔のまま、私を見つめ返した。
「それでも……少しの間だとしても」
声は静かだった。
けれど、その先にあるものを隠さない声だった。
ルルティナの目は逸れない。
「貴方のお側にいても、よろしいのでしょうか」
私はすぐには答えなかった。
厨房の天井を見上げる。
煤で少し黒ずんだ石の継ぎ目が見える。答えはもう決まっている。
拒むつもりなど最初からなかった。
けれど、言葉のほうが追いつかない。
少しして視線を戻すと、ルルティナがこちらを見ていた。
その隣で、レディヴィアもまた、まっすぐに私を見ている。
私はつい、苦笑してしまった。
「……やり直すなら、まだ遅くはないはずです」
言葉は、ルルティナへ向けたはずだった。
けれど口にした瞬間、それが自分にも向いているのだと分かった。
ルルティナの目が、ひどく静かに揺れた。
泣くというほどではない。けれど、目の奥で何かが崩れそうになっているのは分かった。
ただ、小さく頷く。
「はい」
そのひとことだけが、妙にまっすぐに響いた。
鍋の底には、もうほとんど何も残っていない。
椀の中の湯気も、少しずつ薄くなっていく。
私は立ち上がり、空になった鍋を持ち上げた。
「……では、まずは今日の続きを考えましょう」
そう言うと、ルルティナが少し遅れて息を吐いた。




