表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/41

ep.25 朝

 目が覚めた時には、部屋の明るさがいつもより高かった。


 暖炉の火は灰の奥に赤を残しているだけで、毛布の内側の熱ももう穏やかになっている。昨夜は真夜中に一度起きたせいだろう。窓の向こうは白く明るく、夜の雪はすでに止んでいた。空は薄い。けれど朝というには少し遅い光だった。

 私は毛布をそっと押しのける。


「アルシエラ様」


 隣から、すぐに声がした。振り向くと、レディヴィアはもう目を開けていた。寝起きのせいか、いつもより少しだけ静かな顔でこちらを見ている。


「おはようございます」


「おはようございます、レディヴィア様」


 返してから、私は窓へ目をやった。雪は本当に止んでいる。石の縁や崩れた木材の上に、昨夜降った白さだけが静かに残っていた。


「ずいぶん寝てしまったようですね」


「はい。昼に近いかもしれません」


 私たちは起き上がり、手早く支度を整えた。顔を洗いに行く前に、私はふと礼拝室の方角を思い出す。


「……ルルティナの様子を見に行きましょうか」


 そう言うと、レディヴィアはすぐに頷いた。


「はい」


 簡単に身支度だけを済ませ、二人で廊下へ出る。雪の明るさのせいか、石の回廊もいつもより少し白く見えた。冷えはある。けれど、昨夜のように刺すような寒さではない。


 礼拝室へ続く角を曲がると、扉が少しだけ開いていた。

 私は足を止める。レディヴィアも同じように立ち止まり、その隙間をじっと見た。


「……開いていますね」


「ええ」


 そっと扉へ手をかけ、押し広げる。


 冷えた空気が、静かに流れ出た。


 礼拝室の中は、昨夜と変わらず薄暗かった。高い窓から落ちる雪明かりが、石の床を淡く照らしている。祭壇の傍では、重ねた外套にもたれるようにして、ルルティナが眠っていた。壁へ背を預け、肩まで布を引き上げている。眠りは浅くはなさそうだった。疲れが勝ったのだろう。


 けれど、礼拝室の真ん中には、別のものがいた。


 ノクトだった。


 黄みがかった目を開けたまま、床の中央に伏せている。こちらが扉を開けた音にも驚いた様子はなく、ただ静かに顔だけを上げて、私たちを見ていた。昨夜より毛並みは乾いていて、肩の傷も、少なくとももう血は滲ませていないように見える。


 私はしばらく、その光景を黙って見ていた。

 ルルティナは祭壇にもたれ、ノクトは礼拝室の真ん中にいる。


 レディヴィアが少しだけ不思議そうな顔をして、礼拝室の中を進む。

 ノクトは耳をひとつ動かしたが、立ち上がりはしない。

 その前にレディヴィアがしゃがみ込む。


「ここにいたのですね」


 返事の代わりに、ノクトは鼻先をわずかに上げた。

 レディヴィアが手を伸ばし、その頭をそっと撫でる。


 ノクトはすぐに頭を振った。手を払うようにして身をよじり、低く鼻を鳴らす。そのままゆっくりと立ち上がると、私たちの間をすり抜けるようにして扉の外へ出て行った。


 呼び止める間もなかった。

 私は思わず、その背を目で追う。ノクトは振り返りもしない。廊下の先へ、音もなく消えていく。

 レディヴィアは扉のほうを見たまま、ほんの少しだけ首を傾げた。


「機嫌が良くなかったです」


「……かもしれませんね」


 私が返すと、レディヴィアは納得したように頷いた。

 細い息を溢して、礼拝室の扉に目を向ける。

 何も無くて良かった。安堵が胸の内を占めていた。

 もしもを考えると、穏やかな朝では居られなかった。


 それから、ようやく祭壇のほうへ目を向ける。

 ルルティナはまだ眠っている。夜のあいだ、礼拝室の冷えの中で休んでいたのだろう。けれど、その表情は昨夜ほど張りつめてはいなかった。肩の力が少しだけ抜けている。


 私は祭壇に寄り、静かに声をかけた。


「……ルルティナ」


 彼女の睫毛がかすかに震える。

 少し遅れて、ゆっくりと目が開いた。最初は焦点が合わず、次に祭壇の上、そして私たちの姿を捉える。目覚めたばかりの戸惑いが、そのまま顔に浮かんだ。


「……アルシエラ様」


 かすれた声だった。

 続いてレディヴィアを見て、ほんのわずかに身体を起こす。


「レディヴィア様も……」


「おはようございます」


 レディヴィアが言う。

 ルルティナは一瞬だけ返事に迷ったようだったが、それでも小さく頷いた。


「……おはようございます」


 彼女の肩から、ずり落ちかけた外套を私はそっと持ち上げ直す。石の礼拝室は、昼近い光が入ってもまだ冷たい。


「よく眠れましたか」


 尋ねると、ルルティナは少しだけ考える顔をした。

 それから、昨夜ほど硬くはない声で答える。


「はい。……寝すぎたかもしれません」


「それなら良かったです」


 私は祭壇の傍と、部屋の中央を見比べた。

 つい先ほどまでノクトがいた石床は、もう何事もなかったみたいに静かだった。

 ルルティナも、その視線の動きに気づいたのか、礼拝室の真ん中へ目を向ける。


「何か……」


「ノクトがいました」


 レディヴィアが先に答えた。


「ノクト、ですか?」


 彼女の言葉に、ルルティナが疑問を口にする。


「魔獣です」


 ルルティナがほんの少し目を見開く。

 レディヴィアは真面目な顔で頷いた。


「私が撫でたら、嫌そうにされました」


 ルルティナはすぐには言葉を返せなかった。

 けれど、その沈黙の端に、ごく小さな戸惑いと、ほんのわずかな可笑しさが混じった気がした。


 私はそれ以上その話を引き延ばさず、扉のほうへ身体を向ける。


「ひとまず、朝食にしましょう」


 ルルティナは祭壇へ背を預けたまま、少しだけ息を吐いた。

 そして、今度はためらいすぎることなく頷く。


「はい」


 礼拝室の冷たい空気の中で、その返事だけが少しだけやわらかく響いた。

 厨房へ入ると、石の床はまだ朝の冷えを残していた。

 私は袖を少しだけ捲り、鍋に手をかける。


「朝食というには、少し遅いですが」


 そう言ってから、豆の残りを小鍋へ移す。


「私が」


 ルルティナが口を開く。

 私は振り向かずに答えた。


「こちらは任せてください」


 麦を加え、燻製肉は少しだけ裂けばよい。慣れた手順になりつつあるその動きを、背後から静かな視線が追っているのが分かった。


 背後の気配がほんの少しだけためらうように揺れる。私は鍋の底をさらいながら、ようやく一度だけそちらを見る。


 ルルティナは立ったまま、私の手元を見ていた。

 その顔に浮かんでいたのは、遠慮でも、恐縮でもない。もっと別の、痛みに近い静けさだった。


 たぶん彼女は、私がこういうふうに鍋を持ち、火加減を見て、当たり前みたいに三人分の食事を整えていくこと自体が、まだ胸に刺さるのだろう。

 小屋に押し込められていたはずの少女が、自分の前で淡々と暮らしを回している。その事実を、目で見てしまうことが。


 その沈黙を破ったのは、レディヴィアだった。


「では、水を汲んできます」


 私が何か言うより早く、レディヴィアは水差しを持ち上げる。

 そして、ほんの少しだけ首を傾げた。


「ルルティナ様も、来ますか」


 ルルティナは一瞬、私のほうを見た。

 それから、少し遅れて頷く。


「……はい」


 二人の足音が、厨房から遠ざかっていく。

 静かになったところで、私は小さく息を吐いた。


 鍋の中では、まだ固い豆が鈍く転がっている。燻製肉の塩気は強い。茶葉ももう多くはない。干した果実は残っているが、あれは腹を満たすものではない。


 薪は確保した。

 雪も止んだ。

 けれど冬は、何かを与えてくれる季節ではない。


 草花の恵みは期待できない。

 狩りに出るしかないのだろう。


 そう思ったところで、頭の中にノクトの黄の目が浮かんだ。

 私は鍋を混ぜながら、少しだけ眉を寄せた。


 ――困りましたね。


 そう胸の内で呟いたところで、足音が戻ってきた。

 レディヴィアが水差しを抱え、ルルティナがその横で布を二枚持っている。


「水です」


「ありがとうございます」


 受け取って鍋へ注ぐ。

 ルルティナは何も言わず、布を作業台へ置いた。そこから少しだけ迷い、椀を三つ、棚から取って並べる。


 レディヴィアが椀を拭くのに習って、隣で椀を拭い始める。

 それを背後に、私は鍋を見つめ続けた。


 やがて鍋の蓋が小さく鳴り始める。

 豆の匂いと麦の甘み、燻製肉の塩気が、冷えた厨房へじわじわと広がった。


 私たちはそれぞれ木箱へ腰を下ろし、少し遅い食事を始めた。

 豆と麦の鍋に、保存食の薄い切れ端。湯気の立つ茶。変わり映えはしない。けれど、今日は椀が三つある。


 しばらくは、誰も多くを語らなかった。

 匙が椀に触れる音だけが、小さく続く。

 先に口を開いたのは、私だった。


「……ルルティナ」


 彼女が顔を上げる。


「あなたは、これからどうするつもりだったのですか」


 問いは静かに落ちた。

 ルルティナはすぐには答えなかった。椀の中の豆をひとつ、視線だけで追ってから、やがて小さく息を吐く。


「王城を、勝手に出てまいりました」


 声は低かったが、昨夜ほど掠れてはいない。


「ここへ辿り着くつもりも、本当は……なかったのだと思います」


 それだけで十分だった。

 どこへ行くとも決めず、ただ歩き始めてしまったのだと分かる。言い切らないところが、かえってその空白の深さを示していた。


 レディヴィアが、椀を持ったまま静かに尋ねる。


「帰る場所が、無いのですか」


 ルルティナは首を横に振った。


「……帰られる場所は、まだあります」


 その言い方に、私は少しだけ目を伏せた。

 あるのだ。帰るべき場所は。けれど、それが帰る場所であるとは限らない。


「ですが」


 私はゆっくり言う。


「一人で返すのも、歩いて帰るのも危険です」


 雪のあとだ。道はぬかるみ、森も静かではない。城塞の外に何がいるか、私たちはもう知っている。

 ルルティナは椀を両手で包んだまま、少しだけ口元を引き結ぶ。


「ずっと、ご迷惑をおかけしてばかりです」


 それに対して返事をしたのは、レディヴィアだった。


「城は広いです」


 まっすぐな声だった。


「まだまだ、やることが沢山あります」


 ルルティナが、ゆっくりと顔を上げる。

 レディヴィアは椀を置き、淡々と続けた。


「片づける部屋もあります。前室も、まだ整えきれていません。厩舎も、どうにかしなければなりません」


 そこで一度だけ息を継いでから、彼女は言った。


「手伝ってくれませんか」


 ルルティナは返事をしなかった。

 ただ、目だけがわずかに揺れる。


 私はその横顔を見てから、小さく頷いた。


「私も、そのほうが良いと思います」


 ルルティナはようやく視線をこちらへ移した。

 何かを言いかけて、やめる。代わりに、ほんの少しだけ唇を噛んだ。


「……ありがとうございます」


 そう言ってから、彼女はまだ何かを飲み込めていない人の顔のまま、私を見つめ返した。


「それでも……少しの間だとしても」


 声は静かだった。

 けれど、その先にあるものを隠さない声だった。

 ルルティナの目は逸れない。


「貴方のお側にいても、よろしいのでしょうか」


 私はすぐには答えなかった。


 厨房の天井を見上げる。

 煤で少し黒ずんだ石の継ぎ目が見える。答えはもう決まっている。

 拒むつもりなど最初からなかった。

 けれど、言葉のほうが追いつかない。


 少しして視線を戻すと、ルルティナがこちらを見ていた。

 その隣で、レディヴィアもまた、まっすぐに私を見ている。


 私はつい、苦笑してしまった。


「……やり直すなら、まだ遅くはないはずです」


 言葉は、ルルティナへ向けたはずだった。

 けれど口にした瞬間、それが自分にも向いているのだと分かった。


 ルルティナの目が、ひどく静かに揺れた。

 泣くというほどではない。けれど、目の奥で何かが崩れそうになっているのは分かった。

 ただ、小さく頷く。


「はい」


 そのひとことだけが、妙にまっすぐに響いた。


 鍋の底には、もうほとんど何も残っていない。

 椀の中の湯気も、少しずつ薄くなっていく。


 私は立ち上がり、空になった鍋を持ち上げた。


「……では、まずは今日の続きを考えましょう」


 そう言うと、ルルティナが少し遅れて息を吐いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ