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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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ep.24 不器用

 やがて彼女は顔を上げ、まっすぐにこちらを見た。


「私の信仰が、あなたの存在を認められないのです」


 それは、あまりに真っ直ぐな告白だった。


「唯一の教えで、唯一の勇者で、唯一の正しさで、そうして生きてきました。だから、あなたがそこにいるということ自体が、私には恐ろしかった」


 ルルティナの指が、さらに深く掌へ食い込む。


「ですが」


 声が、少しだけ掠れる。


「ですが、私は……あなたに、生きていてほしかった」


 そこで初めて、彼女の顔が少しだけ歪んだ。

 泣き顔というほど大きくはない。ただ、長く押し殺してきたものが、ようやく形を持ちかけたような歪みだった。


「勇者に罪はありません。彼にも、あなたにも」


 握り込んだ手のひらの下から、細い赤が滲み始めていた。


「罪があるのは、私の心内です。目を逸らす事も出来ず、真っすぐ見つめる事も出来なかった……罪です」


 私は立ち上がった。


 ルルティナは目を伏せたまま、掌をさらに強く、握り込む。

 私は何も言わず、その前へ歩み寄った。

 膝を折り、ぎちぎちに閉じられた彼女の手へ指を添える。


「開いてください」


 ルルティナは、すぐには従えなかった。

 私はもう一度だけ、静かに言った。


「……ルルティナ」


 その名を呼ぶと、彼女の指先が、ほんのわずかに震えた。

 ようやく力が緩み、私は一本ずつその指を開いていく。


 掌には、細い傷がいくつも走っていた。

 浅いが、血は出ている。赤い筋が、冷えた皮膚の上を鈍く光っていた。


 私はその掌を、自分の両手で包む。

 淡い光が、指のあいだから滲むように集まった。傷の縁が、静かに寄る。血が止まり、裂けた皮膚だけが、薄い痕を残して閉じていった。

 ルルティナは息を止めたまま、それを見ていた。


「……私は」


 傷が塞がるのを見届けてから、私はようやく口を開いた。


「あなたを赦しはしません」


 ルルティナの肩が、わずかに揺れる。


「ですが、あなたを咎めもしません」


 そのまま掌を離さず、私は続けた。


「四年という時間は、長いです」


 火の音が、背後で静かに続いている。

 次の一言を口にするまでに、少しだけ時間が必要だった。


「私は、その時間を受け入れました」


 自分で言って、少しだけ喉が重くなる。

 受け入れた、と呼ぶしかなかった。飲み込んだわけでも、忘れたわけでもない。ただ、それ以外に生きる道がなかっただけだ。


「そして、あなたは、私を生かし続けた」


 食材も、本も、走り書きも。

 あの小屋へ届いたものの一つひとつを、私は今さら数え上げなかった。


「……それだけです」


 ルルティナは、何も言えないようだった。

 目だけが、ひどく揺れている。

 私は、ゆっくりとその手を離した。


「私のことは、もう」


 そこで少しだけ言葉を選ぶ。


「あなたの罰にしなくてよいのです」


 ルルティナの唇が、わずかに震えた。

 けれど、すぐには返事が出ない。


「抱えたまま、これ以上ここへ来続ける必要はありません」


 ルルティナはようやく息を吐いた。

 それは安堵ではなく、長く胸の内へ押し込めていた棘が、少しだけ外へ出た時のような息だった。


「……それでも」


 かすれた声で、彼女は言う。


「私は、遅すぎたのです」


 私は少しだけ目を伏せた。


「ええ」


 否定はしなかった。


「遅かったのでしょう」


 ルルティナの目に、また涙が溜まる。

 けれど今度は、零れる前に彼女自身が瞬きをした。


「でも」


 私は火のほうへ少しだけ顔を向ける。


「遅すぎたからといって、ずっと雪の中に立っている必要はありません」


 その言葉が落ちたあと、部屋はまた静かになった。


 ルルティナは、治ったばかりの掌をそっと見下ろした。

 爪の痕は、もう血を滲ませていない。薄く赤い線が残るだけだ。


「……私は」


 彼女は、ひどく慎重に口を開く。


「これから、どうすればよいのでしょう」


 その問いは、あまりに素直で、だからこそ少しだけ痛かった。

 私はすぐには答えなかった。そうしてから、静かに言う。


「まずは、お茶を飲みましょう」


 ルルティナが顔を上げる。

 その視線には、困惑と、拍子抜けしたようなものがあった。


「それから、雪が弱くなるまで、火の前にいてください」


 私は長椅子へ視線を戻す。


「それ以上のことは、今夜考えなくていい」


 ルルティナはしばらく黙っていたが、やがてごく小さく頷いた。


「……はい」


 しばらく、間があった。

 私は扉に目を向けて、少しだけ悩んだ。


 控えめに扉を叩く音が鳴る。


「……入っても、大丈夫でしょうか」


 私は思わず少しだけ目元を和らげた。


「はい」


 そう答えると、扉がそっと開く。

 湯気の立つ茶器を抱えたレディヴィアが、慎重な顔つきで部屋へ戻ってきた。黒髪の先はまだ少しだけ湿っていて、頬にも、雪の名残がひとつ残っている。


 レディヴィアは私とルルティナの顔を見比べ、それから何も尋ねずに、静かに卓の上へ茶器を置いた。


 「ありがとうございます、レディヴィア様」


 私が言うと、彼女は一度だけ頷いた。

 返事の代わりみたいに、私の前へ椀を差し出す。


 受け取る。

 掌へじんわり熱が移った。湯気の向こうに、乾いた茶葉の匂いがある。先ほどの雪の冷たさを思えば、それだけでずいぶん人心地がした。


 レディヴィアはもう一つの椀を持ち、今度はルルティナのほうへ差し出した。

 けれど、ルルティナはすぐには手を伸ばさなかった。視線だけが椀へ落ち、それから自分の膝へ戻る。


 私は椀へ口をつけた。

 熱すぎはしない。舌の上に少しだけ濃い苦みが残る。けれど、冷えた夜にはちょうどよい味だった。


「冷めますよ」


 そう言ってから、もう一口だけ飲む。

 ルルティナはなおもためらっていたが、その横でレディヴィアがほんのわずかに瞼を伏せた。


「……お茶は、お嫌いでしたか」


 責める響きはない。低い声だった。

 ルルティナがはっとしたように顔を上げる。


「い、いえ、そのようなことは」


 少しだけ言葉が急ぐ。

 彼女はようやく椀を受け取り、両手で包むように持った。熱が沁みたのか、指先がわずかに動く。それから、慎重に口をつける。


 しばらくして、ルルティナは小さく息を吐いた。


「……暖かい」


 その声は、独り言みたいに落ちた。

 さらに、もう一口だけ含んでから、少し遅れて続ける。


「美味しゅうございます」


 レディヴィアの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。

 それからようやく、自分の分の椀を持ち上げる。口をつけ、数秒ののちに、真面目な顔のままぽつりと言った。


「……少し、濃いです」


 思わず私は目元を和らげた。

 椀を眺めながら答える。


「いい味です」


 たぶん、扉の前で入る時機をうかがっていたのだろう。

 戻るべきか、もう少し待つべきか。そうしているうちに、茶葉が思ったより長く湯へ浸かった。ほんの少し濃い苦みは、その迷いの時間の味に思えた。


 ルルティナは椀を手にしたまま、静かに私たちを見ていた。

 その視線は長くはない。けれど、目を逸らすこともない。


「……本当に」


 ぽつりと、ルルティナが言う。


「帰る場所を、お持ちなのですね」


 私は椀を持ったまま、少しだけ火のほうを見た。

 暖炉の赤い光が、茶の表面へ鈍く映っている。


「ええ」


 そう答えてから、少しだけ笑う。


「……まだ、整っては居ませんが」


 すると、隣でレディヴィアがすぐに言葉を継いだ。


「今、整えているところです」


 その声音はひどくまっすぐだった。

 ルルティナは何も言わなかった。

 ただ、目元だけがほんのわずかにやわらいだ。


 暖炉へ薪を一本足す。

 ぱち、と火が鳴る。私は椀を両手で包み直し、それから何気なく窓のほうへ目をやった。外はまだ白い。雪は弱まっていないらしい。


 それを見ていたレディヴィアが、ルルティナへ静かに向き直る。


「雪が弱くなるまでは、ここにいてください」


 ルルティナの唇が、何かを言おうとしてわずかに開く。

 けれどその前に、レディヴィアは続けた。


「外は寒いです。……その後は」


 そこで一度だけ、彼女の視線が私へ向いた。

 尋ねるような一瞬だった。私は何も言わず、ただ視線を返すに留める。


 レディヴィアはまたルルティナへ向き直った。


「明日、考えればよいです」


 短い言葉だった。

 けれど、それで十分だった。


 ルルティナはしばらく黙っていたが、やがて、今度はためらいなく頷く。


「……はい」


 それだけの返事だった。

 短い。けれど、先ほどまでよりずっとしっかりした声だった。


 私は椀の底に残った茶を一口だけ飲み、それから静かに言った。


「では、とりあえず今夜の寝る場所を考えましょう」


 ルルティナが少しだけ目を上げる。

 私は椀を卓へ置き、火のほうへ半ば身体を向けたまま言った。


「この部屋でよければ、寝床はどうにかなります。厚い布もありますし、火もありますから」


 言いながら、暖炉の前に敷いた寝床へ視線をやる。

 毛布も、外套も、今夜を越すだけなら三人で使えなくはない。少し手狭にはなるだろうが、雪の夜に石の城で凍えるよりはずっとましだ。


 けれど、ルルティナはその視線を追いもせず、静かに首を振った。


「……いいえ」


 その返事の中にある硬さは、遠慮というより意志に近かった。

 私はルルティナを見た。彼女は膝の上へ椀を置き、真っすぐこちらを見ている。疲れてはいる。冷えてもいる。けれど、その一点だけは譲れぬという顔だった。


「同じ部屋で休むことだけは、お許しくださいませんか」


 はっきりとした声で、ルルティナは言う。


「……ご迷惑であることは承知しております。それでも、まだ私が、そのようにしてよい者だと思えません」


 暖炉の火が小さく鳴った。

 私はすぐには返せなかった。レディヴィアもまた、椀を両手で包んだまま、少しだけ目を伏せている。


「この部屋以外は、まだ」


 私はゆっくりと口を開く。


「寝られるよう整っている場所が、ほとんどありません」


 ルルティナは黙っていた。

 たぶん、それは分かっているのだろう。それでも言ったのだ。


 私も少し考える。

 整えられた寝室が頭をよぎる。厚い寝具の残り、きれいな枠のついた寝台、白く整った空気。

 けれど、すぐにその考えを捨てた。あの部屋へルルティナを通すのは、たぶん私にも、レディヴィアにも、そしてルルティナ自身にも無理だ。

 代わりに、地図の上の三角がいくつか浮かんだ。


「今すぐ入っても大丈夫そうなのは」


 私は言いながら、指折り数える。


「静かな書記部屋と、階段下の小さな書記官の部屋。長い兵舎の部屋。それから、礼拝室の名残です」


 ルルティナは少しだけ迷うような間を置いてから、それでも静かに答えた。


「……でしたら、礼拝室をお借りしたいです」


 私は思わず目を瞬かせた。


「礼拝室を?」

「はい」


 ルルティナは暖炉の前の寝床を一度だけ見た。

 その上に重ねた厚い外套へ視線が落ちる。


「こちらを、一枚だけお借りできるなら」

「ですが」


 思わず私が言いかけると、今度はレディヴィアが先に続けた。


「床が冷たいです」

「礼拝室は、暖かくなりません」


 ルルティナはその言葉を静かに受けた。

 そして、ほんの少しだけ複雑な顔をする。


「……まだ」


 やがて彼女は言った。


「まだ、アルシエラ様とレディヴィア様と、共に居るには時間が要ります」

「客人という立場にも、まだ……うまく馴染めません」


 ルルティナは目を伏せる。


「それなら、礼拝室のほうが、少なくとも今夜は安心して眠れます」


 私は小さく息を吐いた。

 反対したい気持ちはある。けれど、無理にこの部屋へ引き留めるほうが、かえって今夜を長くするかもしれない。レディヴィアのほうを見ると、彼女もまた少し考えるようにしていたが、やがてごく小さく頷いた。


「一枚だけでは足りません、何枚か持っていきましょう」


 ルルティナは今度はさすがに断らなかった。

 ただ、わずかに顔を伏せて、「ありがとうございます」と小さく言うだけだった。


 私たちは立ち上がる。

 物置から厚い外套を数枚持ち出し、さらに起毛した布も一枚加えた。


 礼拝室は、廊下を二つ折れた先の、石造りの小さな区画の奥にあった。

 扉を開けると、冷えた空気がそのまま頬へ触れる。窓は高く細く、雪明かりだけが薄く落ちていた。辛うじて残った祭壇と、壁へ刻まれた浅い意匠。

 がらんとした、冷たい石畳の部屋だった。


 ルルティナは中へ一歩入って、そこで足を止めた。

 礼拝のために作られた静けさは、夜には少し厳しい。

 レディヴィアは少し躊躇いながらも言葉を溢した。


「燃やす物が無かった部屋です」

「広いけど、寒いです」


 ルルティナは部屋を見回した後、軽く山になった外套をみて呟いた。


「……十分です」


 やがて、そう言った声には、ほんの少しだけ安堵が混じっていた。


「ありがとうございます」


 私は同じように部屋の中を見回した。

 石の床はまだ冷たい。けれど、むき出しのまま眠るよりはずっとよい。今夜だけなら、何とかなるだろう。


「何かあれば、すぐ呼んでください」


 私がそう言うと、ルルティナは頷いた。


「はい」


 扉を半ば閉め、私たちは廊下へ戻る。

 礼拝室の冷気が背に残るまま、暖炉の部屋への道を歩き始めた。


 途中で、レディヴィアが一度だけ振り返る。


 それから少し歩いて、また振り返った。

 礼拝室の扉はもう暗がりへ沈みかけている。それでも彼女は、何かそこへ置いてきたものが気になるみたいに、二度、三度と視線を戻した。


 私はその横顔を見て、ぽつりと言う。


「……みな、不器用なのです」


 レディヴィアがこちらを見る。


「私も、彼女も」


 廊下の先には、暖炉の部屋の明かりがある。

 私はその小さな橙を見たまま続ける。


「うまく近づけず、離れきれず、ちょうどよい場所を探してしまうのでしょう」


 レディヴィアは少しだけ首を傾げた。

 そのまま数歩ぶん考えるように黙っていたが、やがて口元をほんのわずかに緩める。


「……私も、不器用です」


 私は思わず笑いそうになった。

 けれど、笑う代わりに小さく頷いた。

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