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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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23/41

ep.23 過去

 侍女のその一言は、雪よりも静かに落ちた。


 けれど、はっきりと夜気を裂いたように思えた。

 ――姫様は、もう一人では無いのですね。


 レディヴィアの指が、まだ私の背を掴んでいる。

 その震えは少しずつ落ち着きつつあったが、離れる気配はなかった。雪の冷たさの中で、その手だけがひどく熱く感じられる。


 レディヴィアは一度だけ唇を結んだ。

 それから、もう一度、声を押し出す。


「一人で、どこかに行かないでください」


 その言葉と一緒に、彼女の指先がまた少しだけ強くなる。

 背を掴む腕のぎこちなさが、かえって切実だった。咄嗟に出てきて、形も整えぬまま、ただ離すまいとしているのだと分かる。


 私は一度だけ目を伏せ、それから侍女を見た。


 彼女の頬には、涙の筋が細く光っていた。けれど、泣き顔というにはあまりに静かだった。むしろ、泣くことすらずっと遅れてしまった人の顔に近い。


「……もう一人ではありません」


 自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。

 侍女は何も言わなかった。

 ただ、その返事を受け取るように、ほんの少しだけ睫毛を伏せる。


 背中の手が、かすかに動く。

 振り返れば、レディヴィアは唇を結んだまま、侍女ではなく私だけを見ていた。頬は雪で冷え、黒髪の先にも白い粒が溶けかけている。ここまで慌てて出てきたのだろう。


「レディヴィア様」


 名を呼ぶと、彼女はようやく少しだけ力を緩めた。

 けれど手は離さない。


「……勝手にいなくなられたのかと思いました」


「申し訳ありません」


 レディヴィアは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく首を振った。


「謝ってほしいわけではありません」


 声は低い。


「……目が覚めたら、いなかったので」


「分かっています」


 私は身体をレディヴィアに向けてそっと動かす。

 正面から、彼女の手に触れて持ち上げた。


 冷たい。

 レディヴィアの指先がかすかに震えた。


「寒いです」


 口を開いたのは、レディヴィアだった。

 私の指先を、軽い力で握る。


「……外に長くいてはいけません」


 私は少しだけ目元を和らげた。


「ええ。そうですね」


 そう返してから、侍女へ視線を向ける。


 彼女の肩にも、雪が薄く積もっていた。

 着古した外套の裾は濡れ、片膝をついたところから冷えが上がっているのだろう。もう長くここへ置いておくべきではない。


 私はレディヴィアの手に触れたまま、静かに言う。


「中へ入りましょう」


 侍女がわずかに目を見開く。


「ですが、私は」


「客人を雪の中へ置いたままにするほど、私は礼を失っておりません」


 言葉を選んだつもりだったが、侍女はその一言に息を呑んだようだった。

 客人。

 たぶん、その呼び方を予想していなかったのだろう。


「姫様」


「もう、姫ではありません」


 そこで一度言葉を切り、それから少しだけ声を和らげる。


「あなたも、もう私の侍女ではないでしょう」


 侍女の唇がかすかに震えた。

 返す言葉を探しているのが分かった。けれど、そのどれもがきっと足りないのだろう。代わりに口を開いたのは、レディヴィアだった。


「初めての、お客様です」


 侍女が、ゆっくりとレディヴィアを見る。

 その視線には、戸惑いと、測りきれないものへの警戒と、わずかな安堵が混じっていた。


「……あなた様が」


「レディヴィアです」


 彼女は静かに言った。


「今は、そう呼ばれています」


 侍女は何も言えなかった。

 レディヴィアもまた、それ以上は付け加えない。


 雪が、外門の石へ細く落ちる。

 私はそれを一息ぶんだけ見てから、城の正門のほうへ視線を向けた。


「まず、中へ入りましょう。話はそのあとです」


 侍女はなおためらっていたが、やがて本当にわずかに頷いた。


「……ご無礼を」


「今さら数えません」


 正門から広間へ入ると、風は途端に弱くなった。

 壁際にはノクトが横たわり、耳を立ててこちらを伺っていた。見慣れぬ人影に一瞬だけ落ち着かぬ気配を見せたが、私の匂いが近いせいか、すぐに耳を横に倒した。


 侍女はノクトを見て、一瞬だけ目を見開いた。


「魔獣が……中に」


「雪ですから」


 レディヴィアが当然のことのように答える。


「外より、こちらのほうがましです」


 その響きがあまりにも自然だったので、侍女は何か言いかけたようだったが、結局口を閉じた。

 暖炉の部屋へ通すと、火の気のある空気が、ようやく三人の身体へ届いた。


 扉を閉めた瞬間、外の雪の音が一枚向こうへ遠ざかる。

 乾いた薪の匂い。石壁に残る熱。毛布と外套へ移った、わずかな湯気の名残。

 彼女は敷居の内側で足を止め、部屋の中を見回したあと、わずかに視線を揺らした。


 私は長椅子を手で示す。


「どうぞ」


 ルルティナは、はっとしたように顔を上げた。


「いえ、私は」


 すぐに辞退の言葉が返ってきた。

 ルルティナは続ける。


「そのようなところへは、とても」


 その声音に、レディヴィアが小さく目を瞬かせた。

 長椅子と窓際の寝台を見比べる。そうしてから、ふと何かを思い出したように視線が下がった。


 レディヴィアは何も言わず、寝床に被せていた厚い外套を手に取った。

 床の少し離れたところへしゃがみ、それを二つ折りにして、静かに敷く。さらに端をきちんと揃え、少しだけ火のほうへ寄せた。


「座れない理由があるのでしたら」


 顔を上げたレディヴィアの表情は、ひどく真面目だった。


「こちらにしますか」


 ルルティナはますます困ったような顔をした。


「ですが」


「お座りになってください」


 私が言うと、ルルティナはなおも戸惑う。

 その迷い方があまりに深く、私は少しだけ息を吐いた。


「あなたが立ったままなら、私たちも立ちます」


 その一言に、ルルティナはようやく顔を上げた。

 目が、ひどく揺れている。けれど私が視線を逸らさずにいると、ようやくルルティナは本当にわずかに頷いた。


「……失礼、いたします」


 彼女はゆっくりと、敷かれた外套の上へ腰を下ろす。

 三人が座ったところで、部屋の静けさが際立った。


 そこから先の最初の一言が、なかなか見つからない。


 火の音だけが、小さく続いている。

 ルルティナは背筋を伸ばしすぎるほど伸ばしたまま、膝の上で指を組んでいた。雪で濡れた外套はまだ脱いでいない。乾いていない布の匂いが、火の熱で少しずつ立ちのぼってくる。


 その沈黙を破ったのは、レディヴィアだった。


「……お名前を、伺ってもよろしいですか」


 ルルティナが、少しだけ息を呑んだ。

 問いがその程度のものであること自体に、少し驚いたのかもしれない。


 ルルティナは少し遅れて答える。


「……ルルティナ、と申します」


 レディヴィアが、その名を小さく繰り返した。


「ルルティナ」


「はい」


「良い名前ですね」


 ルルティナは、明らかに戸惑った。

 それから、戸惑いの残る顔のまま、かすかに頭を下げる。


「……ありがとう、ございます」


 ぎこちない礼が落ちる。

 私は少しだけ目元を和らげた。


「私は、アルシエラです」


 ルルティナが、はっとしたようにこちらを見る。

 そのまま、レディヴィアも背筋を伸ばした。


「レディヴィアと申します」


「……はい」


 ルルティナは小さく頷くしかなかった。

 しばらく、また沈黙が戻る。

 今度の沈黙は先ほどより少しだけましだった。

 けれど、会話が自然に続くほどやわらかくもない。


 ふと隣を見ると、レディヴィアが指先を小さく動かしている。

 先ほどまで背を掴んでいた名残なのか、指がまだ少しだけ落ち着きなく動いている。


 やがて彼女は、決心したように顔を上げた。


「お茶を、淹れましょう」


 その一言に、私とルルティナがほとんど同時に顔を上げる。


「レディヴィア様」


 私が呼ぶのと、ルルティナが「そのような」と立ちかけるのがほとんど同時だった。


 けれどレディヴィアは珍しく素早かった。


「任せてください」


 きっぱり言うと、彼女はそのまま扉へ向かう。

 振り返りもせず、ほとんど逃げるように部屋を出ていった。扉が閉まる直前、黒髪の端だけがふわりと揺れた。


 ルルティナは所在なさげに視線を巡らせた。暖炉。寝床。扉の脇に掛けられた外套。壁際の短剣。棚の上の壺。

 そうして最後に、視線はレディヴィアが出て行った扉に戻る。


「お客様は初めてなので」


 ルルティナがこちらを見る。


「レディヴィア様も、嬉しいのだと思います」


 ルルティナは少し考えるように黙った。

 そのあとで、声を落とす。


「……もう一度、迎え入れていただけるとは思いませんでした」


 その言葉に、私は少しだけ笑った。

 たぶん、寂しそうに見える笑いだったのだと思う。


「追い出してからは、一度も顔を合わせませんでしたね」


 ルルティナは、すぐに首を振った。


「私が、出て行ったのです」


 言葉を継ぎ足すように、さらに続ける。


「私が、あなたを一人にさせてしまった」


 暖炉の火が鳴る。

 私はすぐには答えなかった。


 代わりに、少しだけ顔を上げて天井を見る。

 石の天井は高くない。けれど小屋の板の天井よりは、ずっと余白があるように思えた。


「……この城は、広いです」


 ぽつりと言うと、ルルティナが目を上げた。


「あの小屋は、全てを押し込めるには狭すぎました」


 そう言って、私は少しだけ笑う。

 笑いながら、あの小屋の壁の薄さや、窓の狭さや、積み上がった本の匂いを思い出していた。


 少しだけ笑う。

 今度は、さっきよりほんのわずかに柔らかい笑いだった。


 ルルティナは唇を噛んだ。

 言葉を探しているのだと分かった。

 けれど、きっとどの言葉も足りないのだろう。

 だから何も言えずにいる。


「私にはもう、過去の出来事です」


 私は火を見たまま続ける。


「ルルティナにも、そうあってほしいとは言えません」


 私にとってはもう過去でも、ルルティナにとってはまだ今日のことみたいに痛むのかもしれない。それを、同じ速さで終わらせることはできない。


「でも」


 暖炉のほうへ手をかざす。

 熱はゆっくりと指先へ届いていた。


「お互い語り合う程、良き日々では無いのですから」


 ルルティナの目が揺れる。


「今はただ、身体を温めましょう」


 その一言のあとで、部屋の空気がほんの少しだけ動いた気がした。

 

 レディヴィアはまだ、戻らない。

 もう少しだけ、二人の時間が続きそうだった。


 暖炉の火が、小さく鳴る。

 濡れた外套から立つ匂いも、先ほどより少しずつ薄れていた。けれど、ルルティナの肩からは、まだ外の雪の気配が抜けきっていないように見えた。


 私は火を見たまま、何も言わなかった。

 ルルティナもまた、膝の上で組んだ指をじっと見つめている。


 先に口を開いたのは、ルルティナのほうだった。


「……あの日から、ずっと迷っておりました」


 声音は低く、かすかに掠れていた。

 私は視線だけを向ける。


「あなたを殺そうとして、逃げ出したあの日からです」


 私は黙っていた。

 ルルティナは、その沈黙を責めとも赦しとも受け取らなかったらしい。ただ、もう言葉を止められない者のように、静かに続ける。


「ですが、同じ口で……生きてほしいとも申しました」


 暖炉の火が、また小さく弾けた。

 私はルルティナを見つめる。


「ええ」


 それだけ答えると、ルルティナはわずかに目を伏せた。


「私は、どちらにも耐え切れませんでした」


「どちらにも?」


「あなたが、生きていることにも、死ぬことにも」


 ルルティナの声が、少しだけ揺れる。

 私は首を少しだけ傾けた。


「……今、私が生きていることにも、耐えられませんか」


 問いかけると、ルルティナはすぐには答えなかった。

 ただ、膝の上の指先がゆっくりと内側へ折れていく。白くなるほど強く握り込み、爪が掌へ沈む。ぎち、と乾いた音が聞こえた気がした。

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