ep.22 真夜中
真夜中、寒さで目が覚めた。
最初に気づいたのは、毛布の内側へまで忍び込んでくる冷えだった。暖炉の火はまだ消えていないはずなのに、部屋の空気そのものが、いつもよりひとつ薄く、硬くなっている。
私はそっと目を開く。
窓の向こうは白かった。
月明かりではない。夜の暗さの上に、ぼんやりとした白が降り積もるように揺れている。耳を澄ませば、雨音はもう石を打っていない。代わりに、湿った静けさの奥で、ときおり細かなものが窓枠に触れる気配だけがした。
雪だ。
私は毛布の内側で、そっと隣へ視線を向ける。
レディヴィアは深く眠っていた。毛布の端を胸元まで引き上げたまま、呼吸はゆっくりとしている。魔族は寒さに強いのだろうか、と一瞬思い、それからすぐに、そうではないのかもしれないとも思った。レディヴィアが寒さに慣れているだけなのかもしれない。
そう考えたところで、胸の奥が少しだけ重くなる。
私は起こさぬよう、そっと毛布を持ち上げた。
冷気がすぐに足元から這い上がってくる。音を立てないよう寝床を抜け、外套を肩へ掛ける。暖炉の前へしゃがみ込み、熾火を火掻き棒で寄せた。赤い熱はまだ生きている。細い薪を二本、太い薪を一本足す。しばらく待つと、黒かった木肌の奥から火がじわりと走った。
少しだけ安心する。
けれど、これだけ冷えるなら、外の馬たちをあのままにしておくのは気の毒だった。厩舎の残骸は、雨をしのぐには足りても、雪をしのぐには頼りない。私は一度だけ寝床のほうを振り返る。レディヴィアはまだ眠っている。
起こさないで済むなら、その方がいい。
物置へ向かい、厚手の布を何枚か抱えて戻る。廊下の冷気は、昼の雨の日よりさらに鋭かった。扉を少しだけ押し開けると、広間の奥で魔獣が身を起こしていた。薄暗い中でも、黄みがかった目だけははっきり分かる。
黄の目がこちらを見る。
私は静かに中へ入り、近づいた。魔獣は唸らない。逃げようともしない。ただ、肩のあたりにまだ残る傷のせいか、身体の置き方が少しぎこちなかった。
「起こしてしまいましたか」
囁くように言うと、魔獣は唸りはしなかった。ただ耳をこちらへ向け、伏せた姿勢のままじっとしている。濡れた毛はもうだいぶ乾いていたが、首筋から背にかけてはまだ外気を含んだ冷たさが残っていた。
私は頭から背までをひと撫でする。
魔獣は浅く喉を鳴らし、ほんのわずかに目を細めた。
「寒いでしょう」
返事の代わりに、耳がぴくりと動く。
私は抱えてきた厚い布の一枚を広げ、魔獣の背へそっと掛けた。首筋を覆い、脇腹のあたりまで落とす。少しだけ身じろいだが、嫌がって払いのけることはしない。最後にもう一度、頭を撫でる。
「朝まで、これで我慢してくださいね」
広間を出て、今度は外へ向かう。
扉を開けた瞬間、雪気を含んだ空気が頬へ刺さるように当たった。外套を羽織っていても寒い。細かな雪はまだ薄いが、それでも石の縁や崩れた木材の上には白い膜みたいに残り始めている。
厩舎の残骸の下で、二頭の馬が身体を寄せ合っていた。頭を低くし、互いの首へ顔を埋めるようにしている。私の気配に気づくと、片方が耳を動かし、もう片方が短く鼻を鳴らした。
「大丈夫ですよ」
近づいて、まず首筋を撫でる。冷えている。毛並みの下の筋肉までこわばっているのが分かった。
「中へ行きましょう」
二頭はすぐには動かなかったが、手綱代わりに首元へ手を添えて導くと、やがてゆっくりと従った。前室へ連れて行き、壁際の一番風の当たりにくい場所へ誘う。石畳は蹄に優しくないが、雪の下の濡れた土よりはまだましだろう。私は抱えてきた別の布を畳んで床へ敷き、その上へ立たせる。さらに前室の隅へ寄せてあった藁束を少し引き出し、足元へ散らした。
二頭とも落ち着かぬように鼻を鳴らしていたが、やがて首を下げ、藁を踏みしめるようにして立ち位置を定めた。
ソルとロア。
名前を呼んでやろうかと思った。
けれど、その直前でやめる。
その名前は、レディヴィアと一緒に呼ぶほうがいい気がした。
私は前室の扉を半分だけ閉め、もう一度外へ出た。もう少し藁を運び込んでおいた方がいい。雪はまだ深くないが、夜明けまでには厚みを増すかもしれない。
その時だった。
外門のほうに、気配があった。
足音ではない。雪が吸ってしまったのか、はっきりした音はない。ただ、門の向こう側の暗がりに、立っている何かの気配だけがあった。私はその場で動きを止める。
一瞬だけ、レディヴィアを起こすべきか迷った。けれど夜は深い。城内には馬も、魔獣もいる。起こせば無駄に心配をかけるかもしれない。私は息を浅く整え、そのまま一人で外門へ向かった。
門の脇、石壁の陰に、人影が立っていた。
女だった。
厚い外套をまとい、頭にも布をかぶっている。雪の白さの中で、その輪郭だけが妙に暗く見える。こちらが近づくと、相手はすぐには動かなかった。ただ、わずかに顔を上げる。
私は少し距離を取ったまま口を開く。
「……誰ですか」
私が問うと、その女はわずかに肩を震わせた。かすれた声が、雪の音に混じって落ちる。
「御変わり……ありませんか」
その声に、私は息を止めた。
覚えがある。
四年前、小屋へ移されたあと、世話役として付けられた侍女だった。
懐かしさが、胸の奥でほんの一瞬だけ灯る。
けれど同時に、それと同じくらい静かな哀しさが重なった。
「……あなた、ですか」
女はその場で、ゆっくりと片膝をついた。
雪の上へ膝が沈み、外套の裾が白を吸う。
「お会いするつもりなど……顔を見せるつもりなど、ございませんでした」
そう言って、外套の内側へ手を差し入れる。
彼女は紙を差し出す。小さく折り畳まれた走り書きだった。
紙は、湿りと体温を帯びていた。
黙ったままそれを受け取る。
雪の夜では読みづらい。
けれど、震える指でどうにか綴られた文字を追うには十分だった。
人と魔の和平が正式に進んでいること。
フィエルクマティアがその取りまとめに成功し、発言力を強めていること。
そして、陛下がアルシエラを引き戻すために尽力していること。
短い文の中に、必要なことだけが詰め込まれていた。
無駄のない書き方なのに、そこには焦りと、急いでここまで来た手の跡が滲んでいた。
引き戻す。
その言葉を、頭の中で一度だけ繰り返した。
数日前なら、どう受け取っていただろうか。
今は、少しだけ答えが違う気がした。
侍女は視線を伏せたまま続ける。
「近況を、お伝えするだけのつもりでした。……何も申さず、そのまま去るつもりで」
私は紙を折った。
しばらく声が出なかった。
「小屋にいる間も」
ようやく、私は口を開いた。
「ずっと、手紙を届けてくださいましたね」
侍女の肩が、わずかに震えた。
「……私だと、知っておられたのでしたね」
私は頷いた。
受け取った走り書きは、見慣れた筆跡だった。
荷の包み方が、いつからか少しだけ変わったこと。食料の包みに紛れた走り書きも、必要以上に丁寧に選ばれた本も、ときおり城から出るはずのない品が混ざっていたことも。
全部、知っていた。
「一人で、ここまで来たのですか」
私が問うと、侍女は目を伏せたまま答える。
「……ずっと、荷を届けるのが私のなすべき事でしたので」
侍女の足元には、靴の縁まで泥が乾いている。どれほど歩いてきたのか。
その距離を、想像してしまう。
「一人で来るのは危険です」
「なぜ、そんなことをしたのですか」
言ったあとで、言葉のなかに怒りに近いものが混じっているのを、自分でもはっきりと自覚した。
侍女はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと零すように言った。
「もう、どうしてよいか……わからないのです」
雪が、彼女の肩へ薄く積もり始めていた。
「本当は、辿り着きたくなかったのかもしれません。でも、辿り着いてしまった」
私は息を吐いた。
「だからといって、一人で来ていい理由にはなりません」
侍女は、今度はまっすぐこちらを見た。
その目は疲れきっていて、それでも逸れなかった。
「また、貴方様を一人にさせてしまう」
その一言に、私は何も返せなかった。
それでも、もう一人ではない。
その思いは、胸の内に確かにある。
「……誰も、悪くはありませんでした」
侍女は顔を逸らさないまま。
片膝をついた姿勢で、静かに言葉を待っていた。
「……ただ」
そこで私は一度だけ息を継ぐ。
「誰もが、遅すぎただけです」
その言葉に、侍女の肩がわずかに揺れた。
私は続ける。
「陛下も。教会も。あなたも。私も」
雪の白さの中で、侍女の輪郭は少しだけ曖昧に見えた。
まるで、四年という時間そのものが、そこへ薄く積もっているみたいだった。
「だから、もう」
「あなたは、縛られる必要はありません」
侍女はすぐには反応しなかった。
ただ一度、顔を伏せて、じっとその言葉を受けているようだった。
やがて、ごくゆっくりと顔を上げる。
笑っていた。
けれど、それは安堵の笑みでも、赦された者の笑みでもなかった。
口元だけがかすかに緩み、その目には、静かに涙が溜まっていた。声は出ない。
私はその顔を見て、胸の奥がひどく静かに締めつけられるのを感じた。
彼女もまた、私と同じだったのだろう。
何かひとつを間違えたまま、遅れて辿り着き、もう取り返せぬものの前で立ち尽くしてきたのだ。着古した外套も、雪で濡れた裾も、擦り傷だらけの手も顔も、今はただひどく悲しく見えた。
互いに、それ以上の言葉はなかった。
侍女はゆっくりと立ち上がる。
片膝を雪から抜く動作だけで、彼女がどれほど疲れているか分かった。身体の芯まで冷えているのだろう。けれど彼女は、何も言わずにただ外套を正し、それから静かに私へ背を向けた。
抜け殻に見えた。
その背中が、雪の向こうへ溶けてしまいそうだと。
「待ってください」
気づけば、私はそう声をかけていた。
侍女が足を止める。
ゆっくりと振り返ったその目は、灯りの消えかけた窓のように、生気を失って見えた。
その瞬間。
背中に、軽い衝撃が走った。
思わず息を呑む。
何事かと振り向くより先に、衣越しに伝わる熱があった。
レディヴィアだった。
いつの間にここまで来ていたのか、黒髪はほどけかけ、外套すらきちんと羽織れていない。寝巻きのまま、雪の夜気の中へ飛び出してきたのだと、一目で分かった。
彼女の手が、私の背を強く掴んでいた。
指先が震えている。けれど離そうとはしない。
「……一人で」
最初の声は、かすれた。
それでもレディヴィアは、息を継いで、今度ははっきりと言う。
「一人で、どこかに行かないでください」
その声は、いつもの静けさを失っていた。
侍女が、わずかに目を見開いた。
瞳に、微かに生気が混じる。
「姫様は、もう……一人では無いのですね」




