ep.21 居場所
廊下の向こうで、雨が石を打つ音が続いている。
広間の扉の向こうには、まだ名のない魔獣が身を伏せている。
私はすぐには何も返せなかった。
ただ、静かに頷くだけに留める。
私たちはまた暖炉の部屋へ戻った。
雨はやまない。前室で片づけた薪の匂いが、部屋の中へ薄く残っている。乾いた木の匂いと、火の熱と、外套に移った雨の湿り気。
床に置いた桶の中には、さっき広間へ運んだ時に跳ねた泥がまだ薄く残っていた。
外へ出るつもりはなかったのに、気づけば裾にも、靴にも、細かな汚れがついている。広間の石床は乾いていたが、そこへ行くまでの廊下には水気があったし、前室の片づけでも埃と泥を十分に浴びた。
私は自分の袖口を見下ろし、小さく息を吐く。
「……浴場へ行きましょうか」
そう言うと、レディヴィアは一度だけ私の袖口を見、それから自分の裾へ目を落とした。濃い布の端に、乾ききらない土がうすく筋を引いている。
「泥を落としたほうがよさそうです」
「ええ。せっかく湯も使えますし」
私たちはいつものように、浴場の支度をした。
厨房へ寄って湯沸かし用の薪を少し取り、麻布を二枚、それから髪をまとめるための紐も持つ。
扉を押し開けると、湿った石の匂いが先に迎える。
もうすっかり見慣れたはずの場所なのに、ここへ来るたび少しだけ安心する。最初に見つけた時の薄暗さや荒れた感じはまだ残っているが、それでももう、ただの古い浴場ではない。
炉へ薪をくべる。
細い木から火を移すと、今日はよく乾いていたらしく、煙も少なく、すぐに炎が落ち着いた。水がじわじわと温まっていく。
最初に比べると、火の扱いには十分慣れたものだと思う。
湯がちょうどよく温まるまでのあいだ、私たちは衣を脱ぎ、泥を払った。
裾の乾いた汚れを指で弾く。湿ったまま残っていた箇所は、先に布で拭う。床へ重ねた衣を濡れぬところへ置き、レディヴィアに視線を向けた。
「紐、結びましょうか」
私が言うと、レディヴィアは背を向けた。
「お願いします」
黒髪を束ねる。
角の根元へかからぬよう髪を避け、紐を回して結ぶ。浴場の石へ反響する音は少ない。水の流れるかすかな音と、火の燃える音だけが残る。
「これで」
「ありがとうございます」
私は自分の髪もまとめ、先に肩へ湯をかけた。
温かさが、ひやりとした皮膚へ落ちる。雨の日の湿り気は思ったより身体へ残るらしく、湯をかけるだけでずいぶん楽になった。
隣ではレディヴィアも同じように肩へ湯を流している。
そのたび、濡れた黒髪の先から細い雫が落ちた。
湯舟へ入る。
湯は、昨日ほど熱くなく、けれど冷えた身体には十分だった。足先から順に沈めていくと、固まっていた筋が少しずつほどけていく。今日一日、大きな仕事はしていないつもりだったのに、前室の片づけや広間への往復で、意外と腕も脚も使っていたらしい。
「……ちょうどいいですね」
レディヴィアが言う。
「ええ。昨日より、うまくいきました」
「明日も、これくらいがいいです」
「そうしましょう」
湯気が立ちのぼる。
外ではまだ雨が降っている。天井に近い小窓から入る光は白く薄く、浴場の中だけが、雨の日とは少し別の時間で満ちているようだった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
同じ湯へ浸かり、同じ火の音を聞いていると、それだけで会話の続きをしているような気がした。
やがて、レディヴィアがふと思い出したように口を開く。
「名前ですが」
私は湯の中の指をゆっくり開く。
「魔獣のですか」
「はい」
「……今、決めてしまいましょうか」
レディヴィアは湯の表面を見ながら、少し考えるように言う。
「名前を付けても、大丈夫ですか」
「去るかも知れませんが、今は城にいますから」
私は、広間に伏せていた姿を思い浮かべる。
濡れた毛。鉄色に鈍く光る背。黄みがかった目。
「見た目から考えるなら……」
私は少し目を細める。
「大きくて、鋭いので……ヴァルクとかはいかがでしょう」
口にしてから、自分でも少し考える。
語感は悪くない。あの魔獣の黙ったような気配にも合っている気がした。
レディヴィアはその名を口の中で静かに転がした。
「ヴァルク」
「ええ。そんな感じがしました」
「強そうです」
彼女は頷いた。
それから少しだけ間を置いて、私は首を傾げる。
「……でも、やはり」
「やはり?」
「レディヴィア様が決めたほうがいい気がします」
レディヴィアが、ほんの少しだけ目を瞬かせる。
「私がですか」
「ええ」
私は湯の中で肩を少し沈めながら答える。
「レディヴィア様が名前を考えてあげてください。あの子に、ここへ馴染んでほしいと願ったのは、たぶん私より先に、レディヴィア様でしたから」
レディヴィアはすぐには返事をしなかった。
湯気の向こうで、まっすぐこちらを見るわけでもなく、目を伏せるわけでもなく、ただ考えている顔だった。
「……そうでしょうか」
「ええ。そう思います」
彼女はまた少しだけ黙る。
湯の表面へ指先を沈め、静かに揺らしている。名をつけることを、冗談のように扱わない顔だった。
そのまま、もう少しだけ沈黙が続く。
それから彼女は、小さく言った。
「ノクト、にします」
私は彼女を見る。
「ノクト」
「はい」
レディヴィアは真面目な顔で頷いた。
「静かで、夜の匂いがします」
私は、その名前を心の内で何度か呼んだ。
そうしてから、レディヴィアに視線を向けた。
「良い名前です」
そう言うと、レディヴィアは少しだけ肩の力を抜いた。
「そうでしょうか」
「ええ」
私は頷く。
「ソルとロア。それからノクト」
レディヴィアは表情を緩め、同じように視線をこちらに向けた。
「レディヴィアとアルシエラ様」
また、ひどく真面目にそう言うので、私は少しだけ目元を和らげた。
「良い並びです」
ノクト。
雨の日の城塞で、またひとつ名前が生まれた。
湯は少しずつぬるくなっていく。
私は肩へ湯をひとすくいかけ、それから石槽の縁へ手を置いた。
「そろそろ、上がりましょうか」
「はい」
湯から出て、麻布で身体を拭う。
今日は泥を落とすために来たのだが、結局いつものように、湯へ浸かる時間のほうが長くなっていた気がする。髪の水気を取り、衣を重ねる。火はまだ残っていた。
浴場を出ると、廊下は冷えていた。
けれど湯上がりの身体には、その冷たさも悪くない。
石の床に二人ぶんの足音が重なる。
「明日、呼びに行きましょうか」
レディヴィアが言う。
「ソルとロアと……」
「ノクトに、ですね」
「はい」
私は頷く。
「きっと、まだ呼んでも返事はしないでしょうけれど」
「それでも、名前ですから」
「ええ。名前ですから」
暖炉の部屋へ戻る。
扉を閉めると、乾いた暖かさがすぐに頬へ触れた。火はまだ赤く保っている。外では雨が続いているのに、この部屋だけが別の季節みたいに穏やかだった。
私はいつものように、レディヴィアの髪を梳いた。
黒髪は湯のあとで素直になっていて、櫛の歯を滑らかに通した。火の明かりが少しだけ艶を返す。角の根元に気をつけながら、毛先まで梳き終える。
「痛くはありませんでしたか」
「大丈夫です」
「今日は、いつもより絡まりませんね」
「雨の日だからでしょうか」
「そうかもしれません」
梳き終えた髪が、背へ静かに落ちる。
私は櫛を置き、寝床のほうへ視線を向けた。厚い布と毛布は、もうこの城塞での夜に馴染んでいる。最初の長椅子の固さや、借りものの寝台の白さが、ひどく遠く思えた。
私たちは布団へ入った。
暖炉の熱が、石床の冷えを押し返している。外の雨音はまだ遠くで続いていたが、それも毛布の内側へまでは入ってこない。
しばらくして、隣でレディヴィアが少しだけ身じろぎした。
「……アルシエラ様」
「はい」
声にすると、レディヴィアは一拍ぶんだけ黙った。
そして、とても静かに尋ねる。
「少しだけ、寄ってもいいですか」
私はすぐには返さなかった。
返さなかったのは嫌だったからではなく、その問いの慎重さが、ひどく丁寧に思えたからだ。
「ええ」
やがて私は答える。
「もちろんです」
すると、レディヴィアは毛布の下で、本当に少しだけこちらへ寄った。
肩が触れるか触れないか、そのくらいの距離だ。
火が、ぱち、と小さく鳴る。
それからしばらくして、レディヴィアがまた口を開いた。
「……アルシエラ様に、帰る場所はありましたか」
私は目を閉じかけていた意識を、ゆっくり戻した。
問いは静かだった。
暖炉の熱が、頬へ届く。
私は少しだけ考えてから答える。
「帰るべき場所は、ありました」
そこで一度、言葉が途切れる。
次を言うまでに、少しだけ時間が要った。
「……帰る場所かは、分かりませんでしたが」
レディヴィアは何も言わなかった。
ただ、隣にいる気配だけが、静かにこちらを待っていた。
私は天井を見たまま続ける。
「ここに来る前は、離れの小屋で過ごしました。かつては、王都も、城も、家族も、ありましたが……戻るなら小屋でしょうから」
毛布の下で、自分の指先を軽く握る。
「帰る、という感覚とは少し違うかもしれません」
隣で、レディヴィアがごく小さく息を吐く。
「……私は、たぶんありませんでした」
私はそちらを見る。
レディヴィアは天井ではなく、私の方を見ていた。
「枷がある間は、名前を呼ばれることもありませんでした」
その声は平坦だった。
あまりに平坦で、一瞬だけ言葉の重さを取り落としそうになる。けれど、その平らさこそが、本当にそうだった時間の長さを語っていた。
「役目で呼ばれることはありました。鍵で呼ばれることも。けれど、私の名前を、私へ向けて言う人は……あまり」
そこで彼女は口を閉じた。
閉じたまま、無理に続けはしなかった。
私はすぐには何も言えない。
慰めようとしても、あまりに軽くなる気がしたからだ。代わりに、毛布の下で、ほんの少しだけ自分の手を動かした。触れるほどではない。ただ、その距離がそこにあると分かる程度に。
雨の音が続いている。
火の熱が、毛布の端をやわらかく温めていた。
やがてレディヴィアが、静かに言った。
「ここが、私の家です」
私は目を伏せた。
ここが、家。
「……ええ」
私はゆっくりと答える。
「私も、そう思います」
けれど、それだけでは足りない気がして、少しの間を置いてから続けた。
「私も、帰れないのだと思います」
レディヴィアがこちらを見る気配がある。
私は火を見たまま言葉を探した。
「帰るべき場所はあっても、帰る場所がない。そういうことが、あるのだと……今は思います」
それから、毛布の端を少しだけ握りしめる。
「だから、ここが私の家です」
隣の呼吸が、ほんのわずかに変わった。
小さな揺れ方だった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
けれど沈黙は冷たくない。
火の音と雨の音が、そのあいだを埋めている。肩の近くに、レディヴィアの体温がある。たぶん彼女も、それを知っている。
少しして、彼女が小さく言った。
「……では」
「はい」
「ソルも、ロアも、ノクトも」
その先を、私は静かに待つ。
「帰る場所がありますね」
私は目を閉じた。
胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。痛いのに、少しだけあたたかい。
「ええ」
ようやく、それだけ答える。
「そうですね」
暖炉の火はまだ落ちない。
雨音は続いている。
「レディヴィア様」
一拍だけ置いて、言葉を続ける。
「良い夜を」
「はい。アルシエラ様も、良い夜を」




