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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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ep.20 同居人

 雨は昼を過ぎてもやまなかった。


 細く絶えず降り続く音が、石の城塞全体を薄い膜のように包んでいる。外へ出るには向かない。薪を増やすにも、沢のほうを見に行くにも、今日は土が悪すぎるだろう。


 その代わり、私たちは前室の片づけをしていた。


 昨日のうちに運び込んだ薪は、壁際へ太いものから順に寄せてある。手前には焚きつけ用の細枝、その横に乾いた板材。濡れたものを置く場所も、泥のついたものを一度広げる場所も、どうにか形になってきた。


 作業にひと区切りをつけ、私たちは暖炉の部屋へ戻った。

 赤く燃える火の前に座ると、石の冷えが少しずつ身体から抜けていく。静かな時間だった。ただ、薪の爆ぜる音を聞いているうちに、私の意識はどうしても別の場所へ向かってしまう。


「……魔獣の様子が、少し気になりますね」


 私がぽつりと言うと、毛布の端を整えていたレディヴィアが手を止めた。


「怪我、痛むでしょうか」


「表面は塞ぎましたが、血を流しすぎたかも知れません」


 レディヴィアは小さく頷いた。


「肉を少し持っていきましょうか」


「そうですね。肉と、水も持って行ってあげましょう」


 私たちは厨房へ寄り、小鉢に水を張り、少しだけ残しておいた保存食の肉を数枚、欠けた器へ乗せた。それを手に、魔獣を残してきた広間へ向かう。


 扉をそっと開ける。

 薄暗い広間の奥で、魔獣は私たちが置いていった時とほとんど同じ姿勢で、大人しく横たわっていた。足音に気づいて耳だけをこちらへ向けるが、唸り声は上げない。


 私はゆっくりと近づき、魔獣の鼻先から少しだけ離れた床へ、水と器を置いた。

 魔獣は身じろぎひとつせず、ただその黄みがかった双眸で、器と私たちをじっと見つめ返してきた。鼻を寄せる気配はない。


「食べませんね」


 レディヴィアが隣で低く囁いた。


「私たちを見ています」


「ええ」


 私は声をひそめたまま頷く。


「たぶん、まだ警戒しているのでしょう」


「私たちをですか」


「そうだと思います。見られているうちは、口をつけないのかもしれません。弱みを見せることになりますから」


 誇り高い生き物なのだろう。ただ餌を与えられたからといって、すぐに尻尾を振るような獣ではない。

 レディヴィアが、少し考えるようにして魔獣を見つめる。


「賢いですね」


「ええ。だからこそ、こちらも急がないほうがよさそうです」


「……昨日より、私を見る目が少しだけましです」


 思わず私は横目で彼女を見た。


「そうですか?」


「はい。昨日は、もっと嫌そうでした」


「嫌そう、ですか」


「はい」


 あまりに真面目な顔で言うので、私は少しだけ口元を緩める。


「それなら、今日は少し仲良くなれたという事でしょう」


 レディヴィアは魔獣から目を離さずに続けた。


「もっと仲良くなれますか」


「なれますよ」


 私はもう一度、床の器を見た。


「置いておきましょう。今はまだ、その方が良いでしょう」


 レディヴィアは頷いた。

 それから、ほんの少しだけ逡巡したあと、広間の奥に伏せたままの魔獣へ向かって小さく言う。


「……食べても、いいのですよ」


 魔獣は耳をぴくりと動かしただけだった。

 レディヴィアは扉に手をかけたまま、もう一度だけ魔獣を見た。


「……また来ます」


 広間の扉を閉めると、再び雨音がはっきりと耳に届くようになる。

 廊下を歩きながら、私はふと、門の外にある厩舎の残骸を思い浮かべた。崩れかけた屋根の下で、二頭の馬が今も身を寄せ合っているはずだ。


「雨があがったら、馬の厩舎もどうにかしてあげないと……ですね」


 独り言のように呟いた言葉を、レディヴィアがすかさず拾い上げた。


「彼らの方が、先に同居人ですからね」


 私は思わず小さく笑ってしまった。


「ええ。最初の同居人です。風邪でも引かれたら困ります」


「雨宿りの客より、先輩です」


 レディヴィアは一瞬だけこちらを見て、それからごく薄く目元をやわらげた。


「四人暮らしです」


「ええ」


 彼女は少しだけ歩みを遅くし、考え込むように首を傾げた。


「……そういえば」


「どうしました?」


「名前を、まだ決めていませんでした」


 私は軽く目を瞬かせた。

 確かに、ただ「馬」と呼んでいるだけだった私たちと共にこの城塞で生きていくのなら、名前で呼ぶのが自然だった。


「そうですね」


 私は一度だけ頷いてから、少し考える。


「……では、せっかくですから一頭ずつ決めましょうか」


「私が、決めてもいいのですか」


「もちろんです。昨日、ずいぶん真剣に撫でていましたから」


 レディヴィアは少しだけ視線を逸らした。


「……あたたかかったので」


「分かります」


 私は今朝、厩舎で撫でた二頭の顔を思い浮かべた。

 私が首へ腕を回した方の馬は、毛並みが良く、顔立ちもきりっとしていた。


「あの、少し目つきが鋭い子は……『ソル』にしましょうか」


「ソル」


「なんだか、ずっと不満を抱えていそうな顔でしたから。王都から辺境の廃城まで連れてこられて、納得がいっていないのかもしれません」


 レディヴィアは「ソル」と小さく口の中で反芻した。


「似合っていると思います」


「本当ですか」


「はい。誇り高そうです。たぶん、自分でも良い名だと思うでしょう」


「そうだと助かります」


「気難しそうですから」


 私は少し笑う。


「ええ。あまり機嫌を損ねたくありませんね」


 それから、レディヴィアは自分が顔を寄せていたもう一頭の馬を思い出すように、少しだけ視線を宙へ向けた。


「私が撫でた子は……『ロア』にします」


「響きが良いですね」


「はい。とても、あたたかかったです。自分から鼻先を擦り寄せてきました」


「ロアも良い名前です。あの子には似合っています」


「そうでしょうか」


「ええ。柔らかい響きですし」


 レディヴィアはそこで、ほんの少しだけ考え込んだ。


「ソルとロアなら、並べて呼んでも変ではありません」


「そこも大事でしたか」


「大事です」


 あまりにきっぱり言うので、私はまた笑ってしまう。


「では、よい組み合わせですね」


「はい。よい組み合わせです」


 ソルと、ロア。

 冷たい石の城塞に、またふたつ、確かな名前が生まれた。


 冷たい廊下を、二人で並んで歩く。

 それぞれつけた名前を、胸の中に置きながら。


「雨があがったら、呼びに行きましょう」


「はい。ソルと、ロアに」


 少し歩いてから、レディヴィアは広間の扉のほうを振り返った。


「あの子にも、名前をつけたいです」


 その声音は、ソルとロアを決めた時と同じく、ひどく真面目だった。

 私は足を止め、彼女を見る。


「……魔獣にも、ですか」


「はい」


 レディヴィアは頷く。


「まだ決めなくてもよいのかもしれませんが、名前があったほうが、呼びやすいです」


 私は思わず口元を緩めそうになった。

 けれど、すぐには同意しなかった。


「……どうでしょう」


 私は廊下の先を見ながら言う。


「雨が止めば、帰ってしまうかもしれません」


 レディヴィアがこちらを見る。


「帰るでしょうか」


「分かりません。けれど、そういうものかもしれません」


 私は少しだけ言葉を選んだ。


「愛着が湧いてからいなくなると、寂しいですし」


 それから、少し遅れて付け足す。


「なにより、元気になったら襲いかかってくるかもしれません」


 レディヴィアは、すぐには何も言わなかった。

 ただ、廊下の石床へ視線を落とし、ほんの少しだけ考え込むように黙る。

 やがて、静かに口を開いた。


「……そうですね」


 彼女は静かに言った。


「元気になったら、出ていくかもしれません」


「ええ」


「あるいは、食べるかもしれません」


「そこは、できれば避けたいですね」


 私がそう返すと、レディヴィアはほんの少しだけ目を和らげた。

 けれど、そのあとでまた考え込むように沈黙した。


「魔獣に、帰る場所はあるのでしょうか」


 私は答える前に、少しだけ考えた。

 昨日の岩陰。監視塔のほうから続いていた血の跡。広間の奥で身を伏せたまま、肉にも水にも口をつけずにこちらを見ていた黄の目。


「……分かりません」


 そう言ってから、さらに言葉を探す。


「ですが、無いかもしれません」


 レディヴィアは顔を上げた。

 私は視線を前へ戻し、ゆっくり続ける。


「怪我の様子から見ても、長く一人で動き回れる状態ではありません。広間に置いてきても、無理に出ていこうとはしなかった」


 レディヴィアはしばらく黙っていた。

 その沈黙は、迷っているというより、胸の内で何かを静かに置き直しているようだった。


「……なら」


 その一言だけで、私は次に続く言葉が分かるような気がした。


「ここに住むかもしれません」


 彼女は真面目な顔をしていた。


「魔獣に、ここへ馴染んでほしいのですか」


 問うと、レディヴィアはほんの少しだけ目を伏せた。

 雨の音が、また一段細かくなった気がした。


 そして彼女は、重く言葉を吐き出した。


「帰る場所が必要ですから」

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