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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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19/42

ep.19 雨の日

 暖炉の部屋へ戻ると、火はまだ赤く残っていた。


 扉を閉めた途端、浴場よりも乾いた暖かさが頬へ触れる。外では雨が本格的に降り出したらしい。窓の外で、水が細かく石を打つ音が続いている。


 私は扉の脇へ外套を掛け、暖炉の前へしゃがみ込んだ。火掻き棒で薪の位置を少しだけ直す。赤く残っていた熾火が息を吹き返し、細い炎がひとつだけ立った。


 後ろで、レディヴィアが厚い布の端を整える気配がした。

 振り向くと、寝床の乱れを静かに直している。毛布の端を揃え、枕を少しだけ火から遠ざける。


「雨ですね」


 レディヴィアが言う。


「ええ」


 私は火を見たまま頷いた。


「今夜のうちに降ってくれれば、明日の朝は少し土が重いかもしれませんが、乾いたまま崩れるよりはましでしょう」


 そう答えてから、自分でも少し可笑しくなる。

 けれどレディヴィアはおかしがりもせず、ただ静かに頷いた。


「薪は濡れません」


「前室へ入れておいて正解でしたね」


「はい」


 それだけだった。それが、ひどくちょうどよかった。


 レディヴィアが隣に座る。

 少し濡れたままの髪を、暖炉の熱で乾かす。

 私は何も言わず、レディヴィアの髪を櫛で梳き始めた。


 しばらくしてから立ち上がり、寝床のほうへ歩く。

 厚い布の上へ手を置くと、まだ少しだけ湯上がりの熱が掌に残っているのが分かった。レディヴィアは先に端へ腰を下ろし、それから私が横になりやすいように、毛布を半分だけ持ち上げる。


 言葉にするほどのことでもない。

 けれど、前より少しだけ迷いがない。


「今日は」


 毛布へ手を入れながら、レディヴィアが言った。


「よく眠れそうです」


 私はその声を聞いて、少しだけ目を伏せた。


「ええ」


 返した声は、自分で思っていたよりやわらかかった。


「私も、そう思います」


 火の音が、小さく鳴る。

 雨の音は続いている。


 私たちはそれぞれ枕へ頭を沈めた。

 毛布を肩まで引き上げる。暖炉に近い側だけが熱いということもなく、布の内側に静かな温度が留まっている。


 しばらく、誰も何も言わなかった。

 けれどその沈黙は、前のものとは少し違っていた。


 隣で、レディヴィアの呼吸がゆっくりと整っていく。

 私は天井ではなく、暖炉の火を見た。赤い光が低く揺れ、石壁へ薄く映っている。


 あの傷が消えたわけではない。

 遅かったことも、そのままだ。

 でも、私だけの沈黙では、もうなかった。


 やがて火のはぜる音も遠くなり、雨の音だけが細く残る。


「……よい夜を、レディヴィア様」


 半ば眠りに落ちかけながらそう言うと、少しの間を置いて、静かな声が返ってきた。


「よい夜を、アルシエラ様」


 それを聞いて、私は目を閉じた。



 ――翌朝、目を覚ました時にも、雨はまだ降っていた。


 夜のあいだじゅう石を打ち続けていたらしい音が、朝になっても細く残っている。暖炉の火は灰の奥にわずかな赤を潜ませていたが、部屋の空気は昨日より少しだけ重い。


 私は毛布を押しのけて起き上がる。

 隣では、レディヴィアもすでに目を開けていた。


「おはようございます」


「おはようございます、アルシエラ様」


 短いやりとりをしてから、いつも通りに顔を洗いに行く。

 中庭の水は冷たかったが、雨のせいか、昨日までよりわずかにやわらかく感じた。顔を拭い、手を温めるように息を吹きかけてから、私たちは厨房へ向かった。


 朝は簡単に済ませた。

 保存食を火に少し当て、薄い茶を淹れる。燻した肉の匂いと、湯気の向こうにある雨音。


「今日は、薪集めはやめておきましょう」


 私が言うと、レディヴィアは椀を持ったまま頷いた。


「地面が悪そうです」


「ええ。沢のあたりも滑るでしょうし、大木の続きは明日で十分です」


 茶をひと口含む。


「城の探索を続けましょうか。まだ余白は沢山ありますから」


 そこまで言ったところで、外から高い嘶きが聞こえた。


 私もレディヴィアも、ほとんど同時に顔を上げる。

 馬の声だ。昨夜の雨で気が立ったのかと思ったが、すぐには続かなかった。


 その静けさのあとで、レディヴィアが小さく言う。


「……います」


「馬ですか」


「いえ」


 レディヴィアは窓のほうではなく、門のある方向へ顔を向けていた。


「門の近くに、また気配があります」


 私は椀を置いた。


「昨日のですか」


「たぶん」


 その返事に、私は少しだけ息を吐く。

 雨はまだ降っている。けれど、見に行かないわけにもいかない。


「行きましょう」


「はい」


 廊下の冷えた空気の向こうに、雨の匂いが濃く漂っている。外門へ向かう途中で、また馬が鳴いた。今度はさっきより低く、警戒を含んだ声だった。


 外へ出ると、雨は本降りとまではいかないまでも、細かく絶えず降り続いていた。

 厩舎の残骸の下に、二頭の馬が寄り添うように立っている。崩れかけた屋根の影へ身体を入れ、濡れるのを避けていた。その耳が、こちらではなく外門のほうへ向いている。


 私は視線をそちらへ移した。


 門の脇、石壁の陰に、それはいた。


 昨日の魔獣だった。

 けれど岩陰で見た時よりも、ずっとはっきりとその姿が分かる。


 犬のような輪郭を持ちながら、犬ではない。

 肩は高く、胸は深い。濡れた毛は暗い鉄色をしていて、ところどころに鈍い銀が混じっている。耳はやや長く、夜に尖る葉のように薄かった。尾は長くはない。その代わり、前肢も後肢も、関節の位置がわずかに人の見慣れた獣と違っていた。


 昨日と同じ黄みがかった色の眼。

 けれど濁っていない。痛みに曇ってはいても、こちらを見返すその眼差しは、ただ眺めているだけではない。


 レディヴィアが、私より一歩前で足を止める。


「……昨日より、起きています」


「ええ」


 私はゆっくりと外門のほうへ歩いた。

 魔獣はすぐには唸らなかった。ただ、こちらが近づくにつれて肩の毛がわずかに逆立ち、その目はレディヴィアを見て、それから私へ戻る。


 レディヴィアには怯えているらしい。

 ただしそれは、獣じみた恐慌ではなかった。極度の警戒に近い。


 私は少しだけ腰を落とし、目線を下げる。


「昨日の子ですね」


 声に意味があるかは分からない。

 けれど魔獣は、ほんのわずかに耳を動かした。


 その背後で、馬の片方が鼻を鳴らす。

 魔獣の視線が一瞬だけそちらへ流れたので、私は反射的に身構えた。


 飢えているのなら、馬を襲うかもしれない。

 昨日の傷が塞がりきっていないとはいえ、この距離では十分に危険だった。


「……どうしましょう」


 私は低く言う。


「このままにするのは、あまり気が進みませんが」


「馬が襲われます」


 レディヴィアの声も低い。


「ええ。そこが問題です」


 雨粒が外套の肩を打つ。

 魔獣は動かない。ただ、石壁へ寄せた身体を少しだけ起こし、こちらと馬のあいだをゆっくり見比べていた。


 私は一歩だけ近づいた。

 魔獣は低く喉を鳴らしたが、逃げも、飛びかかりもしない。


「アルシエラ様」


「大丈夫です」


 そう言ってから、自分でも少しだけ可笑しくなる。

 昨日も同じことを言った気がしたからだ。


 私は手を伸ばす。

 濡れた毛へ触れる直前で、魔獣の身体がぴくりと強張った。けれど次の瞬間には、私の指先が首筋の毛を撫でていた。


 冷たい。

 雨と外気に晒されてきたのだろう。昨日閉じた傷のあたりは熱を持っていたが、それ以外はひどく冷えている。


 魔獣は動かなかった。

 じっと私を見ている。黄の眼が、近くで見ると金属めいた薄さを持っていた。


「……入れても、いいかもしれません」


 私は振り返らずに言った。


「ただし、馬と場所は別です」


「はい」


 レディヴィアが短く答える。


 私は馬のほうを見る。

 厩舎の下で身を寄せ合う二頭は、完全には落ち着いていなかった。片方は耳を伏せ、もう片方は落ち着かぬように蹄を打っている。


「匂いをつけましょうか」


 口にしてから、自分で妙な案だと思った。

 けれどレディヴィアは、少し考えたあとで頷いた。


「それがよさそうです」


 私たちは魔獣を置いたまま、馬のほうへ歩く。

 魔獣は追ってこなかった。こちらの動きを見ているだけだった。


 厩舎の陰へ入り、私は近いほうの馬の首へ腕を回した。濡れた鬣が頬に触れる。馬は最初こそ身を強ばらせたが、私の匂いには慣れているのか、ほどなく少しだけ力を抜いた。

 反対側では、レディヴィアがもう一頭の首筋へ顔を寄せている。黒髪と馬の茶色い鬣が、雨の薄い光の下でひとつに重なって見えた。


「これで、多少は」


「多少は、です」


 レディヴィアが言う。

 妙に真面目な声だった。


 私たちはそれから、魔獣のところへ戻った。

 今度は私だけでなく、レディヴィアも少し近くまで来る。魔獣の耳がぴくりと動き、その目が彼女を見て一瞬だけ細くなる。


「大丈夫です」


 レディヴィアは、私よりもっと静かな声で言った。


「食べてはいけません」


 私は思わず、横目で彼女を見た。

 けれど魔獣は、ふいと視線を逸らしただけだった。


 私は膝を折り、もう一度だけその首筋へ手を置く。


「こちらへ来られますか」


 無意味かもしれないと思いながら言う。

 すると魔獣は、ほんのわずかに逡巡してから、ぎこちなく前肢を動かした。立ち上がる動作はまだ完全ではない。後ろ脚へ少し力が入らないらしく、身体が揺れる。


「……歩けますね」


「はい」


 レディヴィアはその様子を見ていたが、少し遅れて近づき、今度はそっと背のあたりへ触れた。

 昨日よりも慎重だった。魔獣は彼女の手を拒まなかった。


 耳が寝る。けれど唸らない。

 代わりに、ほんの少しだけ鼻先を下げる。


 私たちはゆっくりと城塞の内側へ誘導した。

 馬のほうを向いた時、魔獣は一度だけ足を止めた。二頭の馬もまた、首を上げてこちらを見ている。


 しばらく、静かな対峙があった。


 馬が鼻を鳴らす。

 魔獣の目が細くなり、その肩がわずかに持ち上がる。


 私は思わず息を止めた。

 けれど次の瞬間、魔獣は馬から先に目を逸らした。


 それから、何事もなかったように私の足もとへ来て、濡れた頭をそっと脛へ寄せる。


 私は瞬きをした。


「……なるほど」


 何がなるほどなのか、自分でもよく分からなかった。


 レディヴィアが、そっとその背へ手を伸ばす。

 今度は魔獣も動かない。彼女の指先が濡れた毛を撫でるのを、そのまま受け入れている。


「大人しいですね」


「思ったより」


「賢いです」


 レディヴィアはそう言って、魔獣の耳の後ろをひとつ撫でた。


「条件が分かったのでしょうか」


「条件」


「馬は食べてはいけない、という」


 私は思わず息を吐いた。

 笑うには少し早い気もしたが、笑わずにもいられなかった。


「そうであれば助かります」


 そのまま、私たちは広間のほうへ魔獣を連れて行くことにした。

 暖炉の部屋へ入れるにはまだ早い。けれど門の外へ戻すのも、雨のなかではためらわれる。広間なら石床も広く、馬とも寝床とも距離が取れる。

 広間に入れて、閂を降ろせば、いきなり出ていくこともないだろう。


 魔獣は途中で何度か足を止めたが、引き返しはしなかった。

 広間へ入ると、ようやく少し安心したのか、壁際の乾いた場所を選ぶようにして身体を伏せる。濡れた毛が石床へ触れ、低い息がひとつ落ちた。


 私は少し離れて、その様子を見ていた。

 昨日の岩陰にいた時より、ずっとはっきりと分かる。

 これはただの獣ではない。


 レディヴィアが、私の隣へ立つ。


「……同居人が増えました」


 私は広間の壁際で身を丸める魔獣を見る。

 それから、少しだけ首を傾げた。


「同居人になるでしょうか」


「なるかもしれません」


「まだ、分かりませんね」


「はい」


 レディヴィアは真面目に頷いた。


「ですが、雨宿りの客ではあります」


 その言い方が妙に正確で、私はようやく少し肩の力を抜いた。


「ええ。それは、間違いなさそうです」


 広間の奥では、魔獣が一度だけこちらを見た。

 黄の目は半ば伏せられていた。


 外では雨が降り続いている。

 城塞の石壁の内側に、馬がいて、二人がいて、まだ名のない客がひとつ増えた。

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