ep.19 雨の日
暖炉の部屋へ戻ると、火はまだ赤く残っていた。
扉を閉めた途端、浴場よりも乾いた暖かさが頬へ触れる。外では雨が本格的に降り出したらしい。窓の外で、水が細かく石を打つ音が続いている。
私は扉の脇へ外套を掛け、暖炉の前へしゃがみ込んだ。火掻き棒で薪の位置を少しだけ直す。赤く残っていた熾火が息を吹き返し、細い炎がひとつだけ立った。
後ろで、レディヴィアが厚い布の端を整える気配がした。
振り向くと、寝床の乱れを静かに直している。毛布の端を揃え、枕を少しだけ火から遠ざける。
「雨ですね」
レディヴィアが言う。
「ええ」
私は火を見たまま頷いた。
「今夜のうちに降ってくれれば、明日の朝は少し土が重いかもしれませんが、乾いたまま崩れるよりはましでしょう」
そう答えてから、自分でも少し可笑しくなる。
けれどレディヴィアはおかしがりもせず、ただ静かに頷いた。
「薪は濡れません」
「前室へ入れておいて正解でしたね」
「はい」
それだけだった。それが、ひどくちょうどよかった。
レディヴィアが隣に座る。
少し濡れたままの髪を、暖炉の熱で乾かす。
私は何も言わず、レディヴィアの髪を櫛で梳き始めた。
しばらくしてから立ち上がり、寝床のほうへ歩く。
厚い布の上へ手を置くと、まだ少しだけ湯上がりの熱が掌に残っているのが分かった。レディヴィアは先に端へ腰を下ろし、それから私が横になりやすいように、毛布を半分だけ持ち上げる。
言葉にするほどのことでもない。
けれど、前より少しだけ迷いがない。
「今日は」
毛布へ手を入れながら、レディヴィアが言った。
「よく眠れそうです」
私はその声を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「ええ」
返した声は、自分で思っていたよりやわらかかった。
「私も、そう思います」
火の音が、小さく鳴る。
雨の音は続いている。
私たちはそれぞれ枕へ頭を沈めた。
毛布を肩まで引き上げる。暖炉に近い側だけが熱いということもなく、布の内側に静かな温度が留まっている。
しばらく、誰も何も言わなかった。
けれどその沈黙は、前のものとは少し違っていた。
隣で、レディヴィアの呼吸がゆっくりと整っていく。
私は天井ではなく、暖炉の火を見た。赤い光が低く揺れ、石壁へ薄く映っている。
あの傷が消えたわけではない。
遅かったことも、そのままだ。
でも、私だけの沈黙では、もうなかった。
やがて火のはぜる音も遠くなり、雨の音だけが細く残る。
「……よい夜を、レディヴィア様」
半ば眠りに落ちかけながらそう言うと、少しの間を置いて、静かな声が返ってきた。
「よい夜を、アルシエラ様」
それを聞いて、私は目を閉じた。
――翌朝、目を覚ました時にも、雨はまだ降っていた。
夜のあいだじゅう石を打ち続けていたらしい音が、朝になっても細く残っている。暖炉の火は灰の奥にわずかな赤を潜ませていたが、部屋の空気は昨日より少しだけ重い。
私は毛布を押しのけて起き上がる。
隣では、レディヴィアもすでに目を開けていた。
「おはようございます」
「おはようございます、アルシエラ様」
短いやりとりをしてから、いつも通りに顔を洗いに行く。
中庭の水は冷たかったが、雨のせいか、昨日までよりわずかにやわらかく感じた。顔を拭い、手を温めるように息を吹きかけてから、私たちは厨房へ向かった。
朝は簡単に済ませた。
保存食を火に少し当て、薄い茶を淹れる。燻した肉の匂いと、湯気の向こうにある雨音。
「今日は、薪集めはやめておきましょう」
私が言うと、レディヴィアは椀を持ったまま頷いた。
「地面が悪そうです」
「ええ。沢のあたりも滑るでしょうし、大木の続きは明日で十分です」
茶をひと口含む。
「城の探索を続けましょうか。まだ余白は沢山ありますから」
そこまで言ったところで、外から高い嘶きが聞こえた。
私もレディヴィアも、ほとんど同時に顔を上げる。
馬の声だ。昨夜の雨で気が立ったのかと思ったが、すぐには続かなかった。
その静けさのあとで、レディヴィアが小さく言う。
「……います」
「馬ですか」
「いえ」
レディヴィアは窓のほうではなく、門のある方向へ顔を向けていた。
「門の近くに、また気配があります」
私は椀を置いた。
「昨日のですか」
「たぶん」
その返事に、私は少しだけ息を吐く。
雨はまだ降っている。けれど、見に行かないわけにもいかない。
「行きましょう」
「はい」
廊下の冷えた空気の向こうに、雨の匂いが濃く漂っている。外門へ向かう途中で、また馬が鳴いた。今度はさっきより低く、警戒を含んだ声だった。
外へ出ると、雨は本降りとまではいかないまでも、細かく絶えず降り続いていた。
厩舎の残骸の下に、二頭の馬が寄り添うように立っている。崩れかけた屋根の影へ身体を入れ、濡れるのを避けていた。その耳が、こちらではなく外門のほうへ向いている。
私は視線をそちらへ移した。
門の脇、石壁の陰に、それはいた。
昨日の魔獣だった。
けれど岩陰で見た時よりも、ずっとはっきりとその姿が分かる。
犬のような輪郭を持ちながら、犬ではない。
肩は高く、胸は深い。濡れた毛は暗い鉄色をしていて、ところどころに鈍い銀が混じっている。耳はやや長く、夜に尖る葉のように薄かった。尾は長くはない。その代わり、前肢も後肢も、関節の位置がわずかに人の見慣れた獣と違っていた。
昨日と同じ黄みがかった色の眼。
けれど濁っていない。痛みに曇ってはいても、こちらを見返すその眼差しは、ただ眺めているだけではない。
レディヴィアが、私より一歩前で足を止める。
「……昨日より、起きています」
「ええ」
私はゆっくりと外門のほうへ歩いた。
魔獣はすぐには唸らなかった。ただ、こちらが近づくにつれて肩の毛がわずかに逆立ち、その目はレディヴィアを見て、それから私へ戻る。
レディヴィアには怯えているらしい。
ただしそれは、獣じみた恐慌ではなかった。極度の警戒に近い。
私は少しだけ腰を落とし、目線を下げる。
「昨日の子ですね」
声に意味があるかは分からない。
けれど魔獣は、ほんのわずかに耳を動かした。
その背後で、馬の片方が鼻を鳴らす。
魔獣の視線が一瞬だけそちらへ流れたので、私は反射的に身構えた。
飢えているのなら、馬を襲うかもしれない。
昨日の傷が塞がりきっていないとはいえ、この距離では十分に危険だった。
「……どうしましょう」
私は低く言う。
「このままにするのは、あまり気が進みませんが」
「馬が襲われます」
レディヴィアの声も低い。
「ええ。そこが問題です」
雨粒が外套の肩を打つ。
魔獣は動かない。ただ、石壁へ寄せた身体を少しだけ起こし、こちらと馬のあいだをゆっくり見比べていた。
私は一歩だけ近づいた。
魔獣は低く喉を鳴らしたが、逃げも、飛びかかりもしない。
「アルシエラ様」
「大丈夫です」
そう言ってから、自分でも少しだけ可笑しくなる。
昨日も同じことを言った気がしたからだ。
私は手を伸ばす。
濡れた毛へ触れる直前で、魔獣の身体がぴくりと強張った。けれど次の瞬間には、私の指先が首筋の毛を撫でていた。
冷たい。
雨と外気に晒されてきたのだろう。昨日閉じた傷のあたりは熱を持っていたが、それ以外はひどく冷えている。
魔獣は動かなかった。
じっと私を見ている。黄の眼が、近くで見ると金属めいた薄さを持っていた。
「……入れても、いいかもしれません」
私は振り返らずに言った。
「ただし、馬と場所は別です」
「はい」
レディヴィアが短く答える。
私は馬のほうを見る。
厩舎の下で身を寄せ合う二頭は、完全には落ち着いていなかった。片方は耳を伏せ、もう片方は落ち着かぬように蹄を打っている。
「匂いをつけましょうか」
口にしてから、自分で妙な案だと思った。
けれどレディヴィアは、少し考えたあとで頷いた。
「それがよさそうです」
私たちは魔獣を置いたまま、馬のほうへ歩く。
魔獣は追ってこなかった。こちらの動きを見ているだけだった。
厩舎の陰へ入り、私は近いほうの馬の首へ腕を回した。濡れた鬣が頬に触れる。馬は最初こそ身を強ばらせたが、私の匂いには慣れているのか、ほどなく少しだけ力を抜いた。
反対側では、レディヴィアがもう一頭の首筋へ顔を寄せている。黒髪と馬の茶色い鬣が、雨の薄い光の下でひとつに重なって見えた。
「これで、多少は」
「多少は、です」
レディヴィアが言う。
妙に真面目な声だった。
私たちはそれから、魔獣のところへ戻った。
今度は私だけでなく、レディヴィアも少し近くまで来る。魔獣の耳がぴくりと動き、その目が彼女を見て一瞬だけ細くなる。
「大丈夫です」
レディヴィアは、私よりもっと静かな声で言った。
「食べてはいけません」
私は思わず、横目で彼女を見た。
けれど魔獣は、ふいと視線を逸らしただけだった。
私は膝を折り、もう一度だけその首筋へ手を置く。
「こちらへ来られますか」
無意味かもしれないと思いながら言う。
すると魔獣は、ほんのわずかに逡巡してから、ぎこちなく前肢を動かした。立ち上がる動作はまだ完全ではない。後ろ脚へ少し力が入らないらしく、身体が揺れる。
「……歩けますね」
「はい」
レディヴィアはその様子を見ていたが、少し遅れて近づき、今度はそっと背のあたりへ触れた。
昨日よりも慎重だった。魔獣は彼女の手を拒まなかった。
耳が寝る。けれど唸らない。
代わりに、ほんの少しだけ鼻先を下げる。
私たちはゆっくりと城塞の内側へ誘導した。
馬のほうを向いた時、魔獣は一度だけ足を止めた。二頭の馬もまた、首を上げてこちらを見ている。
しばらく、静かな対峙があった。
馬が鼻を鳴らす。
魔獣の目が細くなり、その肩がわずかに持ち上がる。
私は思わず息を止めた。
けれど次の瞬間、魔獣は馬から先に目を逸らした。
それから、何事もなかったように私の足もとへ来て、濡れた頭をそっと脛へ寄せる。
私は瞬きをした。
「……なるほど」
何がなるほどなのか、自分でもよく分からなかった。
レディヴィアが、そっとその背へ手を伸ばす。
今度は魔獣も動かない。彼女の指先が濡れた毛を撫でるのを、そのまま受け入れている。
「大人しいですね」
「思ったより」
「賢いです」
レディヴィアはそう言って、魔獣の耳の後ろをひとつ撫でた。
「条件が分かったのでしょうか」
「条件」
「馬は食べてはいけない、という」
私は思わず息を吐いた。
笑うには少し早い気もしたが、笑わずにもいられなかった。
「そうであれば助かります」
そのまま、私たちは広間のほうへ魔獣を連れて行くことにした。
暖炉の部屋へ入れるにはまだ早い。けれど門の外へ戻すのも、雨のなかではためらわれる。広間なら石床も広く、馬とも寝床とも距離が取れる。
広間に入れて、閂を降ろせば、いきなり出ていくこともないだろう。
魔獣は途中で何度か足を止めたが、引き返しはしなかった。
広間へ入ると、ようやく少し安心したのか、壁際の乾いた場所を選ぶようにして身体を伏せる。濡れた毛が石床へ触れ、低い息がひとつ落ちた。
私は少し離れて、その様子を見ていた。
昨日の岩陰にいた時より、ずっとはっきりと分かる。
これはただの獣ではない。
レディヴィアが、私の隣へ立つ。
「……同居人が増えました」
私は広間の壁際で身を丸める魔獣を見る。
それから、少しだけ首を傾げた。
「同居人になるでしょうか」
「なるかもしれません」
「まだ、分かりませんね」
「はい」
レディヴィアは真面目に頷いた。
「ですが、雨宿りの客ではあります」
その言い方が妙に正確で、私はようやく少し肩の力を抜いた。
「ええ。それは、間違いなさそうです」
広間の奥では、魔獣が一度だけこちらを見た。
黄の目は半ば伏せられていた。
外では雨が降り続いている。
城塞の石壁の内側に、馬がいて、二人がいて、まだ名のない客がひとつ増えた。




