ep.18 傷痕
そのあと、私たちはもう一度だけ前室へ戻った。
空は朝より低くなっていた。西から押してくる雲は、沢の上の白さを少しずつ鈍く塗りつぶしている。岩陰にいた魔獣は、こちらを追っては来なかった。血の匂いも薄れていたから、しばらくはあの場所で休めるのだろう。
搬入口の門を開けると、昼のあいだに積んだ薪の匂いが立った。乾いた木と樹皮の粉の匂いだ。壁際に寄せた板材も、濡れた土を払っただけで、ずいぶん使えそうに見える。
「……これだけあれば、今夜ぶんは大丈夫そうですね」
私がそう言うと、レディヴィアは積み上がった薪をひと目見て頷いた。
「浴場も、暖炉も」
「ええ。両方とも」
それだけ確認して、門を閉める。
雨はまだ降っていなかったが、空気はすでにその前触れを含んでいた。
暖炉の部屋へ戻り、薪を少しだけ運び入れる。枝葉を払い、燃えやすいものと長く持ちそうなものを分ける。炭焼き小屋から持ち帰った板は前室へ残し、大木から切り出した幹だけを今夜のぶんとして脇へ寄せた。
そのあいだ、レディヴィアは何も言わなかった。
夕食は簡単に済ませた。
豆と麦の残りへ、水を足してもう一度だけ火にかける。昨日より薄い鍋だったが、燻製肉を細く裂いて落とすと、それなりに食事らしい匂いになった。暖炉の火と、鍋の湯気と、外で次第に重くなる空気。どれも静かで、今日一日の終わりにはちょうどよかった。
食べ終え、椀を洗い、作業台を拭く。
そのあとで、私たちは浴場へ向かった。
炉に薪をくべると、昨日より早く火が落ち着いた。乾いた木が多いせいだろう。煙は最初だけ少し戻ったが、ほどなくして上へ抜ける。水路から引いた水が湯船へ落ち、やがて薄い湯気が立ちのぼり始めた。
レディヴィアが、棚へ麻布を置きながら言う。
「今日は、昨日より早いですね」
「薪がましですから」
「では、働いた甲斐がありました」
私は小さく頷いた。
湯がちょうどよく温まるまで、あまり言葉はなかった。
床へ衣を重ねて置き、髪をまとめる。レディヴィアの黒髪を束ねる時、紐を結ぶ指先へ、ほんの少しだけ熱が移った。浴場の冷えは昨日ほど鋭くない。火の回り方も、水の流れも、もう少しだけ分かっているからだろう。
湯船へ入る。
今日の湯は、昨日よりほんの少し熱かった。
肩まで沈むと、疲れが遅れて身体の奥から浮いてくる。昼に何度も薪を運んだせいで、腕も脚も思った以上に重かった。レディヴィアも同じように息を吐き、湯の中で肩を緩める。
「……温かいですね」
「ええ」
「今日は、少し熱いです」
「明日は、薪を減らします」
そう言うと、レディヴィアは小さく目元を和らげた。
「それなら、ちょうどよくなりそうです」
湯気が二人のあいだで揺れる。
炉の火が、遠くで細く鳴った。
私は両手を湯の中へ沈めたまま、しばらく黙っていた。
外では、雨が降り始めている。窓に当たる音が、やけに大きく感じた。
どこから口をつけるべきかは分からない。背中の傷からか。紋からか。小屋からか。勇者からか。
私は肩まで湯へ沈み、それから静かに口を開く。
「……先ほどの続きですが」
レディヴィアは頷いた。
それだけだった。
「勇者は、もういたのです」
湯気の向こうで、レディヴィアの睫毛がわずかに動く。
「私の証が現れた時には、すでに人類の旗印になっていました。加護は持っていなかった。けれど、そんなことは関係なかったのです」
私は湯の表面を見た。
火の色が揺れている。
「彼は前へ立って、人を集めました。戦う理由を与え、怯えた者を奮い立たせて、ばらばらだった人間をひとつへ寄せた。教会は彼を勇者と承認し、人々もそれを信じた」
そこで一度、息を継ぐ。
「クロア教は、大陸で唯一の教えです。教会の承認は、そのまま人の正しさになります。勇者は、ただ剣を振るう者ではありません。人が何を信じて立つか、その形です」
レディヴィアは黙って聞いていた。
驚きも口を挟む気配もない。ただ、ひとつも逃さず受け取ろうとする静けさだけがあった。
「しかし、彼は、勇者ではない。勇者を示す証を持たない」
私は自分の手を見る。
さっき魔獣へ触れた手だった。
「彼は勇者としては正しく、しかし偽りの存在。私は勇者として間に合わなかった、しかし真の勇者」
偽、真。そんな言葉で彼を表すのは、心と、背の傷が痛む。
少なくとも彼は正しく戦い、亡くなったのだから。
「人の希望は二つに割れます。教会が立てた勇者の像も揺らぐ。加護を持たずに戦ってきた彼の名誉すら、嘘になる」
「彼がまとめた人類を、私が分けることになるのです」
湯船の水面が、レディヴィアのわずかな動きで小さく揺れた。
「では」
彼女が静かに言う。
「あなたは、出なかったのですね」
「ええ」
私は頷いた。
「出られませんでした。……いえ、出ないほうを選びました」
どちらも本当だった。
だから、どちらかだけでは足りない。
「私が前へ出れば、多くのものが壊れる。だから、檻に入りました」
レディヴィアの目が、ほんのわずかに見開かれる。
「自分で?」
「誰かからも、自分からも」
「それでも、勇者のままです」
「はい」
私は背中へ意識を向ける。
湯の熱の下に、もう何年も前の痛みがあるような気がした。
「証は消えません。背に浮かんだまま、衣で隠せても、なくならない。だから、削りました」
その言葉を、レディヴィアはすぐには受け取らなかった。
数秒ぶんだけ、沈黙があった。
「……そうした方が、よいと?」
「そう思いました」
私は静かに答える。
「私に勇者を名乗ることはできない。証を誇ることもできない。なら、あれは私に要るものではなかったのです」
そこで、少しだけ口元が歪みそうになる。
「背の傷は、私が表舞台に立たないことで負った、唯一の勇者の痛みです」
湯気が揺れる。
炉の薪が、小さく鳴った。
「後悔はありません」
その一文だけは、きちんと口にできた。
「……ただ」
それから先は、少しだけ喉が重かった。
「遅かった」
私は目を伏せる。
「それだけが、どうしても残ります。私が現れたのは遅かった。証が浮かぶのが、もっと早ければ違ったのかもしれない。私が前へ出る以外のやり方が、あったのかもしれない。けれど、なかった」
爪が、掌へ軽く食い込む。
「結局、勇者として戦わされた人が死にました」
それだけ言って、私は黙った。
浴場には、水のかすかな音と、火の音だけが残った。
レディヴィアは何も言わなかった。すぐに慰めも、励ましも、赦しも口にしない。その沈黙が、ひどくありがたかった。
やがて、彼女が静かに言う。
「あなたは」
私は顔を上げる。
「勇者になりたかったのですか」
問いは思っていたものと少し違った。
責めでも、憐れみでもない。
ただ確かめるための、まっすぐな声だった。
私は少しだけ考える。
「なりたかった、とは少し違います」
そう答えると、レディヴィアは黙って続きを待った。
「名乗りたかったわけではありません。誇りたかったわけでも、ない。ただ」
湯の向こうに視線を落とす。
「……死なせたくなかったのです」
「彼も。彼の後ろにいた人たちも」
そこで、初めてレディヴィアの表情が少しだけ揺れた。
悲しそう、というのとも違う。何かを大事に受け取った時の、慎重な揺れ方だった。
「そうですか」
彼女は小さく言う。
「守りたかったのですね」
私は返事をしなかった。
そんなふうに言い換えられたことが、なかったからだ。
勇者の証。
勇者になれなかった者。
隠された加護。
削り取った背。
遅かった悔い。
そういう言葉でしか、自分のことを見てこなかった。
けれどレディヴィアは、そのいちばん奥にあるものだけを拾い上げた。
私は目を伏せ、少し遅れて答える。
「……そうかもしれません」
レディヴィアは湯の中で、自分の手首へ目を落とした。
枷の跡が、薄く残っている。
「私には、王冠が来ました」
その声は静かだった。
「血を取って、私の上にあることを覚える王冠です。あなたには、名乗らないための傷が残った」
彼女はそこで、こちらを見る。
「どちらも、祝福の形ではありませんね」
私は小さく息を吐いた。
笑いそうになったのか、泣きそうになったのか、自分でもよく分からない。
「ええ」
ようやくそれだけ言う。
「どうやら、人と魔はそのあたり、あまり上手くないようです」
レディヴィアの口元が、ほんの少しやわらいだ。
その微かな表情に、私も少しだけ肩の力を抜く。
しばらくして、彼女がまた言った。
「アルシエラ様」
「はい」
「その傷は、隠したいものですか」
問いは、前のものと同じく、責める響きを持たなかった。
私は湯の中で背中へ意識を向ける。
もう見えない場所のはずなのに、いまははっきりとそこにある気がした。
「……誇りたくはありません」
ゆっくり答える。
「ですが、恥とも思っていません」
それは本当だった。
誇ることはできない。
けれど、なかったことにもしたくない。
「なら」
レディヴィアは静かに言った。
「それで、よいのだと思います」
私は彼女を見る。
彼女は真面目な顔をしていた。
慰めようとしているのではない。ただ、自分がそう思ったから口にした、そのままの顔だった。
「きっと、役に立たないものではありません」
レディヴィアは続ける。
「その傷まで、間違いにしなくてもよいでしょう」
湯気が、二人のあいだで揺れる。
私はすぐには何も言えなかった。
レディヴィアは、そこへ余計な言葉を足さなかった。
ただ湯の中で、静かにこちらを見ていた。
やがて私は、ほんの少しだけ頷く。
「……ありがとうございます」
するとレディヴィアは、少しだけ目を瞬かせてから、小さく頷き返した。
「はい」
それで会話は終わった。
終わったのに、何かが軽くなっていた。
傷が消えたわけではない。遅かったことも、死んだ人が戻らないことも、何ひとつ変わらない。
それでも、私だけの沈黙ではなくなった気がした。
湯は少しずつぬるくなっていく。
炉の火も、長くは保たないだろう。
私は湯を肩へかけ、静かに言う。
「そろそろ、上がりましょうか」
「はい」
レディヴィアも頷いた。
湯から上がり、麻布で身体を拭く。
今日はいつもより少しだけ手が遅かった。髪をまとめ、衣を着る。そのあいだ、レディヴィアは何も急がせなかった。
浴場の扉を開ける前に、彼女がふと立ち止まる。
「アルシエラ様」
「はい」
「たくさん、薪を集めましょう」
私は思わず彼女を見る。
レディヴィアは真面目なままだったが、その目は昨日よりずっとやわらかかった。
「暖炉も、食事も、浴場も、暖かいです」
「私は、その方が好きです」
その一言に、私は小さく笑った。
「ええ」
扉の向こうの冷えた廊下へ視線を向ける。
「私も、好きです」
私たちは並んで浴場を出た。
石の床に、二人ぶんの足音が重なる。
暖炉の部屋へ戻れば、火がまだ赤く残っているはずだった。




