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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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18/41

ep.18 傷痕

 そのあと、私たちはもう一度だけ前室へ戻った。


 空は朝より低くなっていた。西から押してくる雲は、沢の上の白さを少しずつ鈍く塗りつぶしている。岩陰にいた魔獣は、こちらを追っては来なかった。血の匂いも薄れていたから、しばらくはあの場所で休めるのだろう。


 搬入口の門を開けると、昼のあいだに積んだ薪の匂いが立った。乾いた木と樹皮の粉の匂いだ。壁際に寄せた板材も、濡れた土を払っただけで、ずいぶん使えそうに見える。


「……これだけあれば、今夜ぶんは大丈夫そうですね」


 私がそう言うと、レディヴィアは積み上がった薪をひと目見て頷いた。


「浴場も、暖炉も」


「ええ。両方とも」


 それだけ確認して、門を閉める。

 雨はまだ降っていなかったが、空気はすでにその前触れを含んでいた。


 暖炉の部屋へ戻り、薪を少しだけ運び入れる。枝葉を払い、燃えやすいものと長く持ちそうなものを分ける。炭焼き小屋から持ち帰った板は前室へ残し、大木から切り出した幹だけを今夜のぶんとして脇へ寄せた。


 そのあいだ、レディヴィアは何も言わなかった。


 夕食は簡単に済ませた。

 豆と麦の残りへ、水を足してもう一度だけ火にかける。昨日より薄い鍋だったが、燻製肉を細く裂いて落とすと、それなりに食事らしい匂いになった。暖炉の火と、鍋の湯気と、外で次第に重くなる空気。どれも静かで、今日一日の終わりにはちょうどよかった。


 食べ終え、椀を洗い、作業台を拭く。

 そのあとで、私たちは浴場へ向かった。


 炉に薪をくべると、昨日より早く火が落ち着いた。乾いた木が多いせいだろう。煙は最初だけ少し戻ったが、ほどなくして上へ抜ける。水路から引いた水が湯船へ落ち、やがて薄い湯気が立ちのぼり始めた。


 レディヴィアが、棚へ麻布を置きながら言う。


「今日は、昨日より早いですね」


「薪がましですから」


「では、働いた甲斐がありました」


 私は小さく頷いた。

 湯がちょうどよく温まるまで、あまり言葉はなかった。

 床へ衣を重ねて置き、髪をまとめる。レディヴィアの黒髪を束ねる時、紐を結ぶ指先へ、ほんの少しだけ熱が移った。浴場の冷えは昨日ほど鋭くない。火の回り方も、水の流れも、もう少しだけ分かっているからだろう。


 湯船へ入る。

 今日の湯は、昨日よりほんの少し熱かった。


 肩まで沈むと、疲れが遅れて身体の奥から浮いてくる。昼に何度も薪を運んだせいで、腕も脚も思った以上に重かった。レディヴィアも同じように息を吐き、湯の中で肩を緩める。


「……温かいですね」


「ええ」


「今日は、少し熱いです」


「明日は、薪を減らします」


 そう言うと、レディヴィアは小さく目元を和らげた。


「それなら、ちょうどよくなりそうです」


 湯気が二人のあいだで揺れる。

 炉の火が、遠くで細く鳴った。


 私は両手を湯の中へ沈めたまま、しばらく黙っていた。

 外では、雨が降り始めている。窓に当たる音が、やけに大きく感じた。


 どこから口をつけるべきかは分からない。背中の傷からか。紋からか。小屋からか。勇者からか。


 私は肩まで湯へ沈み、それから静かに口を開く。


「……先ほどの続きですが」


 レディヴィアは頷いた。

 それだけだった。


「勇者は、もういたのです」


 湯気の向こうで、レディヴィアの睫毛がわずかに動く。


「私の証が現れた時には、すでに人類の旗印になっていました。加護は持っていなかった。けれど、そんなことは関係なかったのです」


 私は湯の表面を見た。

 火の色が揺れている。


「彼は前へ立って、人を集めました。戦う理由を与え、怯えた者を奮い立たせて、ばらばらだった人間をひとつへ寄せた。教会は彼を勇者と承認し、人々もそれを信じた」


 そこで一度、息を継ぐ。


「クロア教は、大陸で唯一の教えです。教会の承認は、そのまま人の正しさになります。勇者は、ただ剣を振るう者ではありません。人が何を信じて立つか、その形です」


 レディヴィアは黙って聞いていた。

 驚きも口を挟む気配もない。ただ、ひとつも逃さず受け取ろうとする静けさだけがあった。


「しかし、彼は、勇者ではない。勇者を示す証を持たない」


 私は自分の手を見る。

 さっき魔獣へ触れた手だった。


「彼は勇者としては正しく、しかし偽りの存在。私は勇者として間に合わなかった、しかし真の勇者」


 偽、真。そんな言葉で彼を表すのは、心と、背の傷が痛む。

 少なくとも彼は正しく戦い、亡くなったのだから。


「人の希望は二つに割れます。教会が立てた勇者の像も揺らぐ。加護を持たずに戦ってきた彼の名誉すら、嘘になる」


「彼がまとめた人類を、私が分けることになるのです」


 湯船の水面が、レディヴィアのわずかな動きで小さく揺れた。


「では」


 彼女が静かに言う。


「あなたは、出なかったのですね」


「ええ」


 私は頷いた。


「出られませんでした。……いえ、出ないほうを選びました」


 どちらも本当だった。

 だから、どちらかだけでは足りない。


「私が前へ出れば、多くのものが壊れる。だから、檻に入りました」


 レディヴィアの目が、ほんのわずかに見開かれる。


「自分で?」


「誰かからも、自分からも」


「それでも、勇者のままです」


「はい」


 私は背中へ意識を向ける。

 湯の熱の下に、もう何年も前の痛みがあるような気がした。


「証は消えません。背に浮かんだまま、衣で隠せても、なくならない。だから、削りました」


 その言葉を、レディヴィアはすぐには受け取らなかった。

 数秒ぶんだけ、沈黙があった。


「……そうした方が、よいと?」


「そう思いました」


 私は静かに答える。


「私に勇者を名乗ることはできない。証を誇ることもできない。なら、あれは私に要るものではなかったのです」


 そこで、少しだけ口元が歪みそうになる。


「背の傷は、私が表舞台に立たないことで負った、唯一の勇者の痛みです」


 湯気が揺れる。

 炉の薪が、小さく鳴った。


「後悔はありません」


 その一文だけは、きちんと口にできた。


「……ただ」


 それから先は、少しだけ喉が重かった。


「遅かった」


 私は目を伏せる。


「それだけが、どうしても残ります。私が現れたのは遅かった。証が浮かぶのが、もっと早ければ違ったのかもしれない。私が前へ出る以外のやり方が、あったのかもしれない。けれど、なかった」


 爪が、掌へ軽く食い込む。


「結局、勇者として戦わされた人が死にました」


 それだけ言って、私は黙った。


 浴場には、水のかすかな音と、火の音だけが残った。

 レディヴィアは何も言わなかった。すぐに慰めも、励ましも、赦しも口にしない。その沈黙が、ひどくありがたかった。


 やがて、彼女が静かに言う。


「あなたは」


 私は顔を上げる。


「勇者になりたかったのですか」


 問いは思っていたものと少し違った。

 責めでも、憐れみでもない。

 ただ確かめるための、まっすぐな声だった。


 私は少しだけ考える。


「なりたかった、とは少し違います」


 そう答えると、レディヴィアは黙って続きを待った。


「名乗りたかったわけではありません。誇りたかったわけでも、ない。ただ」


 湯の向こうに視線を落とす。


「……死なせたくなかったのです」


「彼も。彼の後ろにいた人たちも」


 そこで、初めてレディヴィアの表情が少しだけ揺れた。

 悲しそう、というのとも違う。何かを大事に受け取った時の、慎重な揺れ方だった。


「そうですか」


 彼女は小さく言う。


「守りたかったのですね」


 私は返事をしなかった。

 そんなふうに言い換えられたことが、なかったからだ。


 勇者の証。

 勇者になれなかった者。

 隠された加護。

 削り取った背。

 遅かった悔い。


 そういう言葉でしか、自分のことを見てこなかった。

 けれどレディヴィアは、そのいちばん奥にあるものだけを拾い上げた。


 私は目を伏せ、少し遅れて答える。


「……そうかもしれません」


 レディヴィアは湯の中で、自分の手首へ目を落とした。

 枷の跡が、薄く残っている。


「私には、王冠が来ました」


 その声は静かだった。


「血を取って、私の上にあることを覚える王冠です。あなたには、名乗らないための傷が残った」


 彼女はそこで、こちらを見る。


「どちらも、祝福の形ではありませんね」


 私は小さく息を吐いた。

 笑いそうになったのか、泣きそうになったのか、自分でもよく分からない。


「ええ」


 ようやくそれだけ言う。


「どうやら、人と魔はそのあたり、あまり上手くないようです」


 レディヴィアの口元が、ほんの少しやわらいだ。

 その微かな表情に、私も少しだけ肩の力を抜く。


 しばらくして、彼女がまた言った。


「アルシエラ様」


「はい」


「その傷は、隠したいものですか」


 問いは、前のものと同じく、責める響きを持たなかった。

 私は湯の中で背中へ意識を向ける。

 もう見えない場所のはずなのに、いまははっきりとそこにある気がした。


「……誇りたくはありません」


 ゆっくり答える。


「ですが、恥とも思っていません」


 それは本当だった。

 誇ることはできない。

 けれど、なかったことにもしたくない。


「なら」


 レディヴィアは静かに言った。


「それで、よいのだと思います」


 私は彼女を見る。

 彼女は真面目な顔をしていた。

 慰めようとしているのではない。ただ、自分がそう思ったから口にした、そのままの顔だった。


「きっと、役に立たないものではありません」


 レディヴィアは続ける。


「その傷まで、間違いにしなくてもよいでしょう」


 湯気が、二人のあいだで揺れる。

 私はすぐには何も言えなかった。


 レディヴィアは、そこへ余計な言葉を足さなかった。

 ただ湯の中で、静かにこちらを見ていた。


 やがて私は、ほんの少しだけ頷く。


「……ありがとうございます」


 するとレディヴィアは、少しだけ目を瞬かせてから、小さく頷き返した。


「はい」


 それで会話は終わった。


 終わったのに、何かが軽くなっていた。

 傷が消えたわけではない。遅かったことも、死んだ人が戻らないことも、何ひとつ変わらない。

 それでも、私だけの沈黙ではなくなった気がした。


 湯は少しずつぬるくなっていく。

 炉の火も、長くは保たないだろう。


 私は湯を肩へかけ、静かに言う。


「そろそろ、上がりましょうか」


「はい」


 レディヴィアも頷いた。


 湯から上がり、麻布で身体を拭く。

 今日はいつもより少しだけ手が遅かった。髪をまとめ、衣を着る。そのあいだ、レディヴィアは何も急がせなかった。


 浴場の扉を開ける前に、彼女がふと立ち止まる。


「アルシエラ様」


「はい」


「たくさん、薪を集めましょう」


 私は思わず彼女を見る。

 レディヴィアは真面目なままだったが、その目は昨日よりずっとやわらかかった。


「暖炉も、食事も、浴場も、暖かいです」


「私は、その方が好きです」


 その一言に、私は小さく笑った。


「ええ」


 扉の向こうの冷えた廊下へ視線を向ける。


「私も、好きです」


 私たちは並んで浴場を出た。

 石の床に、二人ぶんの足音が重なる。


 暖炉の部屋へ戻れば、火がまだ赤く残っているはずだった。

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