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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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ep.17 薪集め

 城内の探検を終えて、私たちは厨房に居た。

 豆と麦、干し肉の残り。昨日と同じ鍋を火にかけ、同じ椀によそった。

 食べながら、私は薪の残りを頭で数える。燃やせる家具はまだあるが、それだけでは足りない。


 手早く夕食を済ませる。

 片づけの最中も、私は浴場の炉のことを考えていた。

 昨日今日と薪を使い続ければ、暖炉の分が足りなくなる。


「……今夜の湯は、やめておきましょうか」


 そう言うと、椀を拭いていたレディヴィアが顔を上げた。


「足りませんか」


「今夜の分は、足りなくはないでしょうけれど」


 レディヴィアは少しだけ考え、それから静かに頷いた。


「では、今日はそのまま休みましょう」


「ええ。そのほうが、明日の動きが楽です」


 火は落としすぎず、寝床へ入る。

 厚い布を引き上げれば、十分に冷えは遠のいた。



 翌朝も、ほとんど同じくらいに目が覚めた。

 火はまだ残っている。外の光は薄く、まだ早い時刻だろう。隣ではレディヴィアが瞬きを繰り返す。変わらない一日の始まりだった。


 並んで顔を洗い、水を飲む。朝食は昨日よりさらに簡単で、燻製肉を炙り、薄い茶を淹れただけだった。

 暖炉の前で、身体の内と外を温める。


「今日は、外ですね」


 茶を啜りながら、レディヴィアが言う。


「ええ。昨日歩いた場所から、使えそうなものを持ち帰りましょう。荷車の残骸、炭焼き小屋の板材、枯れ木があれば割って薪に。前室も使えるようになりましたから、まず外のものをそちらへ」


 レディヴィアは地図を広げ、沢沿いの印を指でなぞった。


「あの大きい木もですか」


「見ましたか」


「沢の手前に、倒れかけているのがありました」


「ええ。あれが取れれば、しばらく困りません」


 レディヴィアは静かに頷いた。


「では、行きましょう」


 ――外の空気は昨日より重かった。

 雲は高く、まだ遠い。けれど西の空の色が、昨日とは少し違う灰色をしていた。


 私たちはまず、沢の手前で足を止めた。

 倒れかけた大木は、思ったより太い。根は半ば土から抜け、幹は斜めに傾いたまま、隣の木にもたれかかっていた。枝はほとんど落ち、芯まで乾ききっている。


「これは」


 私は幹へ手を当てた。

 叩くと、乾いた音が返る。芯腐れはない。


「良い薪です」


 レディヴィアが幹の根元へ片手を乗せた。


「ここから切っていいですか」


「……切れますか?」


 彼女は頷くと、片手を軽く振り降ろす。地面が低く鳴り、木が根元からズレた。私は頭上から降る細い枝や葉を浮かせて遠ざける。今度はレディヴィアが手を振り上げると、引っ掛かっていた木の先端が切断された。

 倒れる前に、レディヴィアが手を沿える。

 音もなく、ただ静かに、木が地面に横たわった。


「……見事ですね」


「重くはありませんでした」


 そういう問題ではないが、私は黙っておいた。

 幹を半分に切断し、さらに腕ほどの長さに分ける。

 私が枝葉を切り、レディヴィアが切断。何度か繰り返すうちに、木片の山ができた。


 前室への往復が始まった。

 レディヴィアが両腕に抱えれば、私の三回分は運べる。それでも搬入口まで歩いて戻り、前室へ下ろして、また外へ向かう。二往復、三往復と繰り返すうちに、前室の壁際に薪の列が伸びていった。

 四往復目の帰りに、荷車の残骸も寄った。鉄の輪と軸は外し、板材は乾いているものだけを選ぶ。炭焼き小屋の跡では、屋根の落ちた板を数枚引き出した。


 五往復目が終わったころ、前室の床は半ば埋まっていた。


 壁際には太い薪を奥へ、焚きつけにする細枝を手前へ、その脇に炭焼き小屋から引いた板材を立てかける。荷車の残骸から外した鉄の輪と軸だけは、燃やせないので壁の隅へ寄せておいた。


 暖炉だけなら、しばらくは惜しまず火を入れられるかもしれない。浴場まで使うなら、まだ少し心許ない。それでも昨日までの空いた前室とは違う。冬を越すためのものが、ようやく目に見える形になり始めていた。


「今日はここまでにしましょうか」


 私が言うと、レディヴィアは板材を壁へ立てかけながら頷いた。


「そうですね」


 腕が重い。腰も少し張っている。レディヴィアは疲れた様子を見せないが、朝から動き続けていることは同じだ。

 前室の門を閉めようとした時、レディヴィアが足を止めた。


「……もう一度、外へ」


「何か忘れましたか」


「いえ」


 彼女はすでに外へ向かっていた。


「匂いがします」


 私はすぐに続いた。

 レディヴィアは城塞の北側、昨日見た監視塔の方向へ向かっていた。歩きながら、私も空気を確かめる。風が変わった。土と冬の草の匂いの中に、何か別のものが混じっている。


「血ですか」


「はい」


 彼女の足取りは迷いなかった。

 沢を渡り、低い藪の際を進む。しばらく行くと、草の上に暗い染みが点々と続いていた。

 私は染みの縁へしゃがみ込む。

 乾いてはいないが、新しくもない。昨夜から今朝にかけてのものだろう。


「どちらから来ていますか」


 遠くか、城塞付近からか。

 レディヴィアが染みの連なりを目で辿る。


「あちらです。監視塔の方向から」


「ということは」


「こちらに逃げてきたのだと思います」


 染みは藪の奥へ続いている。私たちはゆっくりと進んだ。藪が深くなり、低い岩が重なる。そのあいだを縫うように、血の痕は続いていた。


 岩陰に、それはいた。


 犬よりは大きく、馬よりは小さい。毛は暗く、呼吸は浅い。こちらの気配に気づいたのか、頭だけを持ち上げようとして、また落とした。

 目が、黄みがかっていた。


「魔獣ですね」


 レディヴィアはその場で足を止めたまま、小さく息を吸った。


「まだ噛みます」


「でしょうね」


 私は腰の剣へ手を置いて、ゆっくりと岩陰へ近づいた。

 殺すべきか、と一瞬考える。


 傷は左の脇腹と、後ろ脚の付け根。肩に黒い矢が半ば折れたまま刺さっていた。魔獣が身じろぎした拍子に、矢柄がわずかに揺れ、肩からまた血がにじむ。


 この傷では長くは持たないだろう。


「人と争ったようですね」


「匂いが残っています。人の血も、少し」


 今夜雨が降れば、冷えた岩の上では助からないかもしれない。

 私は剣から手を離し、手を伸ばした。

 獣が唸り声をあげ、わずかに身を引く。


「大丈夫です」


 声に出してから、伝わるかどうかは分からないと思った。それでも、もう一度だけ同じように言う。


「大丈夫です」


 手を傷口へあてる。

 光が、指先から滲むように広がった。淡い、白に近い光だ。傷口の端から、じわりと塞がっていく。出血が止まる。皮膚の縁が寄り、塞がる。

 魔獣の唸り声が、途中で弱まった。

 代わりに、荒い呼吸だけが残る。


 折れた矢じりに手を添え、引き抜いた。

 一瞬だけ獣が跳ねそうになったが、レディヴィアが手で押さえる。

 少しして、私は手を下ろした。


「……これ以上は無理です」


 完全な治療ではない。

 肉の深いところまでは届かない。表面だけが、閉じた。


「血が止まりました」


 レディヴィアが静かに言う。


「深い傷までは戻せませんが、十分でしょう」


 獣が、こちらへ頭を向けた。

 目が合う。黄みがかった目が、しばらくこちらを見ていた。それから、ゆっくりと頭を岩へ戻した。


「完全には治せないのですね」


「ええ」


 私は立ち上がる。

 レディヴィアはしばらく魔獣を見ていた。

 その視線が、私の手から肩へ、そして背のあたりへ移る。そこで一度止まり、わずかに揺れた。


「……背中の傷も、そうでしたか」


 私はすぐには答えなかった。

 風が変わる。沢の匂いに、湿った空の匂いが混ざった。


「ええ」


 それだけは、すぐに言えた。

 レディヴィアは小さく頷いたが、視線はまだ逸れない。

 次の問いを呑み込むか迷っているのだと分かった。だが結局、彼女は呑み込まなかった。


「……傷が残ると分かっていて」


 声はとても静かだった。


「なぜ、削ったのですか」


 問いは、ためらいの後に来た。

 答えられないわけではない。ただ、今ここで話す気になれなかった。

 空を見上げると、西の雲が近づいていた。先ほどよりも色が濃い。


「薪は今日、十分取れました」


 私は言った。

 レディヴィアが目を瞬かせる。

 独り言のように、私は言葉を続ける。


「……沢山取れました」


 レディヴィアは何も言わない。

 私の言葉を、待っていた。


「なので、今夜は浴場を使えますね」


 私は落ちていた枝を拾い上げる。


「その時に、お話しします」


 レディヴィアはしばらく黙っていた。

 けれどやがて、静かに頷く。


「はい」

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