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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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ep.16 城塞の探索

 暖炉の火が落ち着いたころ、私たちは指揮官室から持ち帰っていた古地図を、卓の上へ広げた。


 木枠から外した紙は、端が少し反っている。石を四隅へ載せなければ、すぐに丸まってしまいそうだった。線は細く、ところどころ薄れているが、城の内側は思ったより細かく描かれている。それでも、人が大勢で使うことを前提に描かれた城は、二人で暮らすには広すぎた。


 私は地図の上へ指先を置く。


「昨日までに使った場所は、だいたいこのあたりですね」


 暖炉の部屋。厨房。浴場。水場。物置。

 指でなぞると、思っていたより近い。行き来を繰り返すうちに、自然と生活はこの一角へ寄っていたらしい。


 レディヴィアも地図を覗き込む。


「こっちはまだみてません」


 レディヴィアが指した先を、私も指でなぞる。


「行ってみましょうか」


 私が言うと、レディヴィアは地図の上で、更に離れた区画へ視線を移した。


「全部、ですか」


「全部は無理です。今日は近い区画から順に探検です」


 レディヴィアは小さく息を吐いた。


「探検ですか」


「はい」


 私は地図の端を押さえ直す。


「床が抜けず、梁が落ちず、魔獣が住んでいないことを確かめながら歩く探検です」


 レディヴィアは少しだけ考え、それから頷いた。


「楽しみです」


 思わず彼女を見る。

 レディヴィアは真面目な顔のままだったが、口元だけがわずかにほどけていた。

 私は地図の余白へ、炭で小さな印を三つ書いた。


「ひとまず、こうしましょう。

 丸は今使う部屋。バツは閉じておく部屋。三角は、まだ保留の部屋です。」


 レディヴィアは静かに炭の印を見た。


「……探検らしくなりました」



 そうして私たちは、外套を羽織り、地図と炭を持って部屋を出た。


 最初に向かったのは、暖炉の部屋よりさらに奥の回廊だった。

 今まで何度も前を通りながら、扉を開けずにいた区画である。廊下は細く曲がり、城の外側に近づくにつれて石の冷えが増していく。窓は高い位置に細くあいているだけで、光は乏しい。


 レディヴィアが私より半歩先を歩く。

 角を曲がる前には必ず足を少しだけゆるめるので、つられて私も慎重になる。こういうところは、もう言葉にしなくても噛み合い始めていた。


 ひとつ目の扉は、押した瞬間にひどい音を立てた。


「これは、あまり期待できませんね」


 そう言いながら開けると、中は思ったより広かった。窓が二つ並び、壁際には長い机が据えつけられている。床には木片と布屑が散っているが、天井は高く、梁もまだ真っ直ぐだ。


 私は一歩だけ中へ入る。

 レディヴィアは入口の内側で立ち止まり、天井と壁の継ぎ目を見ていた。


「どうですか」


「崩れそうではありません」


「湿気は」


 私は床を見た。

 埃は多いが、湿った染みはない。


「少なそうですね」


 壁際の長机へ近づく。

 机の表面は擦れていたが、脚は四本とも残っていた。窓際には棚もある。壊れた椅子が一脚、隅に転がっている。


「……書記部屋のようですね」


「書くための部屋ですか」


「たぶん。帳面や記録を扱う場所だったのだと思います」


 私は窓の下へ立って外を見る。

 城塞の外壁沿いが細く見え、その向こうに冬の空があった。日当たりは悪くない。午前なら、もっと光が入るだろう。


 レディヴィアが机を指先で押す。


「まだ使えます」


「ええ」


 私は少し考える。

 今すぐ必要な部屋ではない。だが、悪くない。


「これは……」


 炭を取り出し、地図の位置を確かめる。


「三角ですね」


 レディヴィアがすぐに言った。


「いつか使う部屋ですか」


「ええ。直せば、何かに使えます」


 私は机を見ながら続ける。


「地図を広げたり、書きつけをまとめたり、本を置いたり。そういう専門の、ゆっくりできる部屋も必要でしょう」


「静かですし」


「ええ。静かすぎるくらいに」


 そこでレディヴィアが少しだけ首を傾げた。


「静かすぎるのは、良くないのですか」


「夜に一人では、あまり入りたくありません」


「なるほど」


 彼女は真面目に頷いた。


「では、二人で使う部屋ですね」


 その返しが少し可笑しくて、私は炭で地図へ小さな三角を描いた。


「候補です」


 部屋を出ると、廊下の冷えが少しだけ気持ちよく感じられた。まだ見ぬ扉を前にすると、ほんの少しだけ胸が軽い。


「ひとつ、三角です」


「よい始まりですね」


 次の部屋は、開けた瞬間に顔をしかめた。

 古い鉄の匂いと油の乾いた匂いが残っている。壁際には武器を立てるためのラックが並び、床には欠けた鏃や折れた柄が散っていた。窓は細く、風は通らない。乾いてはいるが、息のしやすい部屋ではなかった。


 レディヴィアが一歩入ったところで止まる。


「ここは、嫌な予感がします。床も、少しだけ鳴ります」


 私は扉の敷居へ足先を押しつけた。

 確かに、下が空いているような鈍い響きがあった。


「使わない場所ですね」


「はい」


 レディヴィアは迷いなく言った。

 私は地図へ小さくバツを打つ。


「倉庫だったのかもしれませんが、床が抜けたら困ります」


 少し進むと、回廊はゆるやかに折れ、城の外側寄りの区画へ続いていた。

 角をひとつ曲がった先に、小さな扉が半ば開いたままになっている。

 外に面した小さな角部屋で、風は入るが、そのぶん明るい。部屋の中央には割れた石鉢があり、壁沿いには低い棚が続いていた。


「ここは……」


 私は思わず中へ入る。

 足元には乾いた土が散っていた。棚の隅には、朽ちた木箱。石鉢の中には、すっかり枯れた根のようなものが絡んでいる。


「温室、ではありませんね」


「ですが、植物を置く場所だったのでは」


 レディヴィアが窓辺へ立つ。

 そこには埃をかぶった陶片がいくつも転がっていた。土を入れる鉢だったのかもしれない。

 私は窓枠へ触れる。

 寒い。だが、春や夏なら悪くないだろう。

 レディヴィアは石鉢の中を見ていた。


「今は寒いです。風も強いです。でも、暖かくなれば、何か育てられるかもしれません」


 私は少しだけ目を瞬かせた。


「育てる、ですか」


「香草とか」


 それだけ言ってから、レディヴィアはほんのわずかに視線を逸らした。


「……豆ばかりでは、飽きるかもしれませんので」


 私は思わず笑ってしまった。


「ええ。いずれ、その危険はあります」


「でしたら、三角です」


「そうですね。とても有益な三角です」


 次に見つけたのは、長い階段の下の低い部屋だった。

 扉は短く、入るには少しかがまなければならない。中には窓もなく、中央に机がひとつ、壁には本棚だったらしい浅い棚が二段残っている。


 私は中で一度だけ手を叩く。

 音が小さく返る。狭い。


「ここは何でしょう」


「秘密の部屋ですか」


 私は部屋へ入り、机の表面を手で払った。

 埃は舞ったが、板は生きている。

 辺りを見回しても、特に何もなかった。


「秘密は……無さそうです」


「では、三角です」


「バツではなく?」


 私はレディヴィアを見た。

 彼女は真面目な顔をしていたが、少しだけ首を傾げた。


「秘密の部屋になるかもしれません」


 私は机の上に残る埃をもう一度だけ払った。

 地図に三角をもう一つ打つ。


「でしたら、三角にしましょう」


「三角です」


 レディヴィアは、いつの間にかその分類を気に入っているらしかった。

 少しだけ気配が軽い。扉を開ける時も、以前より躊躇が少ない。


 四つ目の部屋は、階段を上がった先の塔へ続く細い通路にあった。

 地図では小さな見張り室があるだけのはずだったが、上へ行くにつれて風が強まる。石の段はすり減り、場所によっては端が欠けていた。


「ここは、あまり」


 レディヴィアが言う。


「ええ。無理に上がる必要はなさそうです」


 それでも最後まで見ておこうと思い、私たちは慎重に上った。

 たどり着いた部屋は案の定だった。四方へ狭間が開き、外はよく見える。遠くの尾根まで見渡せるのは確かだが、そのぶん風は容赦なく、石の床は冷えきっている。身を隠すには良いが、身を置くには向かない。


「バツですね」


 私とレディヴィアが、ほとんど同時に言った。


 顔を見合わせる。

 どちらからともなく、少しだけ笑った。


「見張るには良いのでしょうけれど」


「ここへ毎日来るのは面倒です」


「それもあります」


「風も強いです」


「ええ。髪が大変そうです」


「角も冷えます」


 それは初耳だった。

 私は思わず彼女を見る。


「冷えるのですか」


「冬は少し」


「……それは、知りませんでした」


「言うほどではありません」


 言うほどではないらしいが、私は内心でひとつ覚えておこうと思った。

 地図にバツを打つ。


 塔を降りたあと、私たちは外側区画の壁沿いをしばらく歩いた。扉の壊れた部屋、床の抜けた部屋が続く。

 途中で、レディヴィアがふと足を止めた。


「……水の音がします」


 私は耳を澄ませたが、すぐには分からなかった。

 けれど、彼女は迷わず壁沿いの低い扉へ向かう。ほかの部屋より半ば地面へ沈むような位置にあり、取っ手も黒ずんでいた。


 扉を押すと、冷たい空気とともに、湿った石の匂いが流れてきた。


 中は細長い部屋だった。

 窓は高い位置に小さくひとつだけ。壁沿いに石の座が長く伸び、その表面には等間隔に丸い穴が並んでいる。座の下には浅い水路があり、今も細く水が流れていた。


 私はしばらく黙って、それを見た。


「……厠ですね」


 言うと、レディヴィアは穴の並ぶ石座を見下ろしたまま、少しだけ目を瞬かせた。


「兵のための、でしょうか」


「城塞に長く籠もるなら、必要でしょう」


 座の下を流れる水へ目を落とす。

 流れは弱いが、止まってはいない。上から来た水の、最後の仕事なのだろう。


「水路も生きています」


 私がそう言うと、レディヴィアは小さく頷いた。


「ここで終わる流れです」


 私は少しだけ肩の力を抜いた。

 必要な場所だった。

 ただし、あまり長く眺めたい場所ではない。


 石の座へ近づいて、床の具合を見る。湿りはあるが、踏み抜くほどではない。排水も生きている。掃除は必要だろうが、使えないほどではなさそうだった。


「……丸ですね」


 そう言うと、レディヴィアがこちらを見る。


「三角ではなく」


「ええ。優先すべき、丸です」


 彼女は少し考えてから、ほんのわずかに口元を和らげた。


「必要な丸です」


「まったく、その通りです」


 私は地図を取り出し、壁沿いの低い区画へ小さく丸を打った。

 住む部屋から少し離れていて、水も流れている。それだけで十分ありがたい。


 扉を閉めて、また壁沿いを歩き出す。

 石の冷えた廊下へ戻ると、レディヴィアが静かに言った。


「これで、だいぶ揃いましたね」


「ずいぶん家らしくなってきました」


 それからさらにいくつかの部屋を流し見たが、使えそうなものは少なかった。そうして、外側をぐるりと回って城の入り口付近に戻って来た。


 最後に開いた扉で、思いがけず足が止まる。


 石床の広い部屋の奥に、正門とは違う、少し小さな門が付いていた。

 搬入口と、荷をいったん受けるための前室らしかった。

 壁には大きな金具がいくつも打たれ、床の一角だけ排水のためか、わずかに傾斜している。奥の棚は低く、泥のついた靴や濡れた布を置くにはちょうどよさそうだった。


 私は部屋の中央で立ち止まる。


「……これは」


 レディヴィアが周囲を見て言う。


「外から持ち込むものを置く場所でしょうか」


「ええ。まさに」


 泥のついたまま帰ってきた時、薪や木片を一度置く場所。濡れた外套や靴を乾かす場所。囲いから運んだ藁や、外で拾ってきた鉄や木をいったん置く場所。

 今まではその場その場で処理してきたが、こういう前室があればずっと楽になる。


「……ここは使えます」


 私の声は、少しだけ早かったと思う。

 レディヴィアは部屋の壁を軽く叩き、床の傾きを見てから頷く。


「丸です。汚れても大丈夫そうです」


「それが大事です」


「探しものも減ります」


「かなり」


 私は地図に丸を打つ。


「……探検の戦果ですね」


 レディヴィアが静かに言う。


「戦果」


「丸が増えました」


「その意味では、そうかもしれません」


 回廊を戻りながら、私は地図の印を指でなぞった。


「ずいぶん増えましたね」


 レディヴィアが覗き込む。


「ええ。これで少しは迷いません」


「迷うのは、悪くありませんでした」


 私は足を止める。


「そうですか」


「はい。知らない場所へ行くのは、少し楽しかったです」


 その言葉に、私はすぐには返せなかった。


「……私もです」


 レディヴィアはごく小さく頷いた。


「一緒ですね」


 私たちはまた歩き出す。

 暖炉の部屋へ戻るころには、廊下の冷たさまで、行きの時ほどよそよそしくはなかった。


 扉を閉め、暖炉の前へ戻る。

 火はまだ落ちていない。私は卓へ地図を広げ、今日つけた印をもう一度だけ見直した。


 私はひとつずつ炭の印を指で追う。


「住む場所。調理する場所。水を汲む場所。湯を使う場所。物を置く場所。厠と、外から持ち込むものを置く場所」


「使わない場所も増えましたし、いつか使う場所もできました」


 レディヴィアは静かに頷いた。

 そのまま彼女は、地図の余白へ指を置いた。

 丸ともバツとも三角とも違う、何も書かれていない白いところだった。


「まだ、たくさんありますね」


「ええ」


「また、探検できます」


 私は笑う。


「その前に、今日見つけた丸の部屋を少し片づけたほうが良さそうですが」


「はい」


 レディヴィアは真面目に頷いた。


「探検の後始末ですね」


「ええ」


 私は地図の端を押さえ直した。

 丸も、バツも、三角も、来た時より少しだけ増えている。


 城塞はまだ広い。

 けれど、もう白紙ではなかった。

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