ep.15 家
気づけば、この部屋には二人の使ったものばかりが残っていた。
「……そろそろ、決めましょうか」
私が言うと、隣で火を眺めていたレディヴィアが顔を上げる。
「何をですか」
「私たちが、どこで暮らすのかを」
言いながら、私は部屋の中を見回した。
「毎回その場しのぎで決めていると、あとで面倒です。住む場所、調理する場所、湯を使う場所、物を置く場所。それから、使わない場所も」
レディヴィアは少しだけ考えるように沈黙してから、静かに頷いた。
「はい。そのほうが、分かりやすいです」
「ええ。迷わなくて済みます」
私たちは立ち上がる。
扉を開けると、廊下の冷えた空気がすぐに頬へ触れた。
最初に見たのは、今いる暖炉の部屋だった。
いったん廊下へ出てから振り返る。重い扉。小さな窓。奥まった位置。
レディヴィアが私の隣で、黙って扉の上を見ている。
「どうですか」
尋ねると、彼女は天井の梁へ一度だけ目をやってから答えた。
「上は大丈夫です。重すぎる音がしません」
「壁は」
「冷たいですが、割れている感じはあまり」
私は小さく息を吐いた。
それから、部屋の内側を手で示す。
「では、ここを住む場所にしましょう」
レディヴィアがこちらを見る。
「住む場所」
「ええ。もう二晩、ここで休んでいます」
私は暖炉の前の寝床へ視線を落とした。
レディヴィアも、しばらく黙ってその部屋を見ていた。
床の寝具。扉の脇に掛けた外套。昨夜の箱から出した厚い布。
「……もう、ここに戻ってきていますから」
彼女が小さく言う。
「ええ」
「でしたら、住む場所でよいと思います」
その返答に、私は少しだけ口元を緩めた。
「そうですね」
次に、私たちは厨房へ向かった。
扉を開けると、昨夜の豆と燻製肉の匂いがまだ残っていた。
「ここは、もう決まっていますね」
「はい」
レディヴィアの返事は早かった。
「調理する場所です」
そこで私は少し考え、作業台の脇の空いた棚を見た。
「乾いた器と、すぐ使う食料はここへ集めましょう。全部を食料庫へ戻さなくても、今夜と明日のぶんくらいなら出しておいていい」
「保存食もですか」
「ええ。あまり湿らないものなら」
レディヴィアは静かに頷いた。
私は作業台の上に置かれた乾いた椀をひとつ見てから、扉のほうへ向き直る。次は浴場へ、と言いかけたところで、隣のレディヴィアがふと廊下の奥へ目を向けた。
「水を汲む場所も、必要です」
珍しく、彼女のほうが先に口を開く。
私は少しだけ目を瞬かせた。
「水場、ですか」
「はい」
彼女はもう一度だけ頷く。
「決めておいたほうが、あとで迷わない気がします」
その言い方が、いつになく整っていて、私は小さく息を吐いた。
「その通りですね」
レディヴィアはそれ以上言わず、先に歩き出した。
廊下を折れ、細い通路へ入る。昨日、彼女に導かれるまま水の音を探して来た道だ。けれど今日は迷いがない。石の角を曲がる足取りが、昨日よりずっと確かだった。
突き当たりの扉を開ける。
小さな中庭に、薄い冬の光が落ちていた。
中央の水盤には、今日も細く水が流れ込んでいる。石で囲まれた縁は冷たく、表面だけが銀みたいに静かに光っていた。
レディヴィアは水盤の前で立ち止まり、流れをしばらく見ていた。
それから石の縁へ指先を置く。
「たぶん、止まりません」
私は彼女を見る。
「分かるのですか」
レディヴィアは少しだけ首を傾げた。
「はい。弱っている水ではありません。通ってくる流れです」
私は水盤の底を見下ろした。
細い流れなのに、途切れる様子がない。最初の日からずっと、この城塞の暮らしはここを通っていたのだ。
「……では、ここが水を汲む場所ですね」
そう言うと、レディヴィアは静かに頷いた。
「ここなら、まだ生きています」
私は水盤の縁に手を置く。
「いずれは洗濯もしないとですから」
「乾かすのもできます」
「はい。大事なことです」
あらためて中庭を見回した。
天井から光が差し込み、微かに風も通る。
レディヴィアが水盤から少しだけ水を掬った。
「水を汲む場所は、ここです」
その言葉に、私は頷いた。
それだけ決めると、小さな中庭が少しだけ違って見えた。
扉を抜け、廊下へ戻る。
レディヴィアが振り返る。
「次は、浴場ですね」
私は頷いた。
「ええ。そうしましょう」
浴場は、決めるまでもないようでいて、決める必要のある場所だった。
あの重い扉を開ける。冷えた湿気が流れてくる。けれど、最初に見つけた時のような、ただ古びているだけの空気ではもうなかった。棚には麻布があり、鉢があり、炉の前には昨日の灰が片づけられた跡がある。湯船の底にも、少なくとも人が入るのをためらわぬ程度の清潔さが戻っていた。
私は湯船の縁へ手を置く。
「湯を使う場所です」
今度はレディヴィアが、少しだけ目元を和らげた。
「ここは、そのままです」
「はい。ここに来れば湯が使えます」
レディヴィアは、石槽のほうを見ながら言った。
「昨日、温かかったです」
私は頷いた。
続いて決める、物を置く場所は少し迷った。
住む部屋へ全部を押し込むのは簡単だが、そうするとすぐ手狭になる。厨房へ置けば湿気や匂いが移る。指揮官室は遠い。整った寝室の近くは、なるべく行き来を増やしたくなかった。
結局、暖炉の部屋からひとつ曲がった先にある、小さな部屋へ入った。
暖炉は壊れ、床には砕けた石と古い木片が散らばっている。
日当たりは悪いが、そのぶん乾いていた。
床もまだ抜けそうにない。
私は扉の敷居で立ち止まり、レディヴィアを見る。
「どうでしょう」
彼女は部屋へ半歩だけ入り、しばらく黙って耳を澄ますみたいにしていた。それから、壁際の棚へ手を置き、ゆっくりと視線を巡らせる。
「ここは、大丈夫です」
私は棚へ近づき、指先で板を押した。
少し軋むが、すぐ崩れる感じではない。
「物を置くには十分ですね」
扉の位置を振り返る。
住む部屋にも厨房にも近い。
「ここを物置にしましょう」
レディヴィアは少しだけ首を傾げる。
「全部、ここへ?」
「全部ではありません」
私は棚を指した。
「すぐ使わない布、予備の器、裁縫道具、予備の保存食、開け切っていない箱。そういうものを置きます」
「探しやすくなりますね」
「ええ。整理しておけば」
そう言うと、レディヴィアがほんの少しだけ口元をやわらげた。
「アルシエラ様は、細かい事がお得意でしたね」
私は答える前に、床に散らばった石に指を向ける。
石が浮き上がり、部屋の片隅で山になった。
「散らばっていると、落ち着きません」
それから二人で部屋の使い方を考え始めた。棚は布と道具。箱は壁際。
幾つかの服もまとめて置ける。
「たくさん置けますね」
「これからも増えるでしょうから」
話している間に、少しだけ可笑しくて笑みを溢した。
「そのうち、この部屋だけでは足りなくなるかもしれませんね」
最後に、整った寝室へ向かった。
あの部屋の前へ来ると、廊下の空気まで少し違うような気がする。静かすぎて、かえって落ち着かない。扉を押せば相変わらず滑らかに開き、中には整えられたままの形が残っている。寝具は持ち出したが、誰かのために置かれた物はまだ消えていなかった。
私は敷居を越えず、扉のところで立ち止まる。
レディヴィアも中へは入らなかった。
「……ここは」
私が言いかけると、レディヴィアが静かに続けた。
「使わなくて、よいと思います」
私は彼女を見る。
彼女は部屋の奥ではなく、空いた寝台の上を見ていた。
「私たちのためではない気がします」
その言い方に、私は小さく息を吐いた。
まったく同じことを考えていたからだ。
「ここは、少し息がしにくいですね」
私は静かに扉を引いた。
重くも軽くもない音がして、部屋の内側が隠れる。
最後に細い隙間から見えた寝台の白さが消えると、廊下の冷えた空気のほうがむしろ楽に思えた。
レディヴィアが扉を見たまま言う。
「ここは、使わない場所にしましょう」
「そうしましょう」
私は頷いた。
それから二人で、暖炉の部屋まで戻る。
廊下を歩くあいだに、頭の中で場所が少しずつ結びついていく。
住む場所は、暖炉の部屋。
調理する場所は、厨房。
水を汲む場所は、中庭。
湯を使う場所は、浴場。
物を置く場所は、小さな棚のある部屋。
使わない場所は、整えられた寝室。
暖炉の部屋をあらためて見回す。
昨夜から今朝にかけて使ったものがある。
これから使うと決めたものがある。
もう使わないと決めた場所もある。
私は暖炉の前へ近づき、火掻き棒で薪の位置を少しだけ直す。
背後には寝床があり、扉の脇には外套が掛かっている。
もう、ここへ戻ればよいのだと分かる。
レディヴィアが、隣に並んで火に手をかざす。
やがて、静かに呟いた。
「私たちの家です」
同じように、私も火に手をかざす。
火が鳴り、暖かさが体を包み込んだ。
「はい」




