第百二十九話「王城の古井戸と、苔の上の『小さなささやき』」
その日の午後、シャルロッテは、モフモフを抱き、王城の誰も使わない、北側の古井戸のそばに座っていた。井戸は、静かに佇み、周囲の石垣には、深い緑色の苔がびっしりと生えている。
シャルロッテは、その苔を、ただの植物として見てはいなかった。彼女の目には、その苔が、この城の、最も古く、静かな記憶の図書館のように見えた。
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シャルロッテは、そっと苔に触れた。その冷たい感触の奥から、ごく微細な、「遠い過去の、水と土と、人の声の音」が、ささやきのように伝わってきた。
苔は、井戸の水に映る人々の姿、土に埋められた種の発芽の音、そして、この城で交わされた、何世代にもわたる、小さな秘密の言葉を、すべて記憶していたのだ。
「ねえ、モフモフ。この苔さん、いっぱいお話を知ってるよ」
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そこに、庭師長のハンスが、その古井戸の点検にやってきた。
「姫殿下。この苔は、ただの苔です。すぐに取り除かねば、石垣が傷みます」
「ダメだよ、ハンスさん!」
シャルロッテは、ハンスの手をそっと止めた。
「この苔はね、お城の『おばあちゃん』なのよ。おばあちゃんをね、お掃除しちゃ絶対だめなの」
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シャルロッテは、ハンスに、苔の持つ「記憶の力」を説明することはしなかった。言葉で説明すると、この静かで、微細な魔法が、現実に汚されてしまう気がしたからだ。
シャルロッテは、土属性魔法を応用した。彼女の魔法は、苔を取り除くのではなく、苔の根を、石垣の奥の、最も安全な場所へと、優しく、しかし確実につなぎとめた。それは、苔の持つ「古き良き記憶」を、未来へと伝えるための、静かな儀式だった。
そして、彼女は、苔の表面に、水属性魔法で、ごく小さな、虹色の水滴を乗せた。
「ね、おばあちゃん。お水をあげるから、これからも、お城の秘密を、優しく守ってね」
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ハンスは、王女の行動を見て、苔の持つ「生命の尊厳」という、今まで見逃していた美しさに気づいた。
「姫殿下。私は、この苔が、この城の『静かな守り人』であることを、初めて知りました」
ハンスは、苔を取り除くことをやめ、その井戸の周囲を、「苔の図書館」として、大切に手入れをすることにした。
その日以来、シャルロッテは、井戸の苔に耳を澄ませるたびに、この城の遥か昔の、温かい物語を聞くことができた。彼女の純粋な愛と感受性は、日常の風景に潜む、静かな魔法と、古き良き知恵を、未来へと優しく繋ぎ止めたのだった。




