猊下の覚悟
「良い天気ですね」
ハムの言葉にピアは頷いた。
エルツから戻った後、ピアはいくつもの都市をまわった。今日はそれを休み、婚約者(仮)との仲を深めるべく、ピクニックに来ている。
今日のピクニックに誘ったのはハムの方だ。この場所はリリスの丘と呼ばれ、ここでデートしたり告白した恋人たちは永遠に結ばれるという言い伝えがある。
乙女なハムらしい選択といえた。
エルツから戻った後、あの薬物についてトラヴァルがずっと調べているが、まだ何も判明していない。ただこれまで彼が見たこともない代物だ、という事だけはわかった。
各地を巡る中で、やはりと言うべきかピアの懸念は現実のものとなっていた。そこかしこで例の薬物が蔓延している。解毒方法も分からない、やがて体がドロドロに溶けて死んでいく恐ろしい薬物は帝国を辺境から蝕み始めていた。
異端者の事とあわせて各地で釘を刺し、新しく手を出す者が減ってくれるのを願っているが、どうなるかは分からない。心弱きものは多いのだ。
死に至る薬物と知っていれば手を出さぬかもしれないが、知らずに手を出してやめられなくなる者も少なくはないだろう。
最近ピアが心悩ませるのは薬物問題だけでない。ちかごろ帝都に移民が増え始め、彼らの住む場所や仕事の問題もありピアは頭がいたい。新しい皇帝に変わった事で、これを機に帝都で良い仕事にありつけるかもと思った者たちが辺境から押し寄せてきているのかも知れない。
「猊下、キルシュのパイです」
「え、ああ。ありがとう」
ピアはハムに差し出されたパイを受け取る。赤い実が艶やかで美味しそうだ。
ハムはにこにことしながら、それを食べるピアを見つめていた。
今日の彼はいつも以上に上機嫌に見える。
「わたくしの気のせいでなければ、今日のあなたはいつも以上にご機嫌でいらっしゃる」
「お忙しい猊下が私のためにお時間を割いてくださったのです。嬉しくもなりましょう」
そう言うとハムは頬を赤らめ俯いた。
その様子にピアは本当に彼は自分などとは比べものにならないほど乙女だと感心する。恋愛小説や芝居ならば、この場合男女が逆のはずだ。
ピアは出された茶を一口飲んで、今日話そうと決めていた事を切り出す。当然ながら二人の今後にかかわることだ。あの皇太子が夢に出て来た日からずっと思い悩んでいたことである。
「今日はあなたに聞きたいことがあります」
「何でございましょう、猊下?」
ハムは茶の入ったポットを片付けながら、首をかしげた。
「夫婦として上手くやっていくためには、あなたにとって何が幸せか知る必要があると思いました」
「私の幸せ……」
「ええ。夫婦というのはいわば運命共同体でしょう。それに、わたくしの持つ身分や地位に伴う権利をあなたも享受しますが、それと同様に義務もまた背負わねばなりません。あなたはかつてその覚悟があると言ってくださった。あなたはわたくしの為にその覚悟をしてくださったと、認識しています」
「おっしゃる通りです」
「では逆に、わたくしはあなたに何をして差し上げられるのか考えたのです。考えたのですが、なかなか思い浮かびません。あなたは植物を育て、それの研究を好まれる。その全面的な協力でも構いません。ただあなたの口から直接聞きたいと思いました。何があなたという一人の人間にとっての幸せなのか」
「私の幸せ……」
ハムが呟いて、考え込んでいる。
いきなり言われても答えるのは難しいだろう。ピアなど、私人としての自分などとうの昔に捨てている、ましてやその幸せなど考えたことがないとしか答えられない。
しばらく考えた末、やっとハムは口を開いた。
「猊下のおっしゃる通り、私の幸せは植物を育て、それを研究することにあります。そして以前も申し上げたことがあるかと存じますが、憧れと尊敬を抱いた猊下のおそばにおいていただけること」
「そばにいる……」
「ええ。他に何も望みません。おそばにおいていただけるだけで、私は幸せなのです。そして猊下の目指すところ、理想に向かってともに歩んでいきたい。それが願いであり幸せです」
「なるほど……」
そばにいる以外、何も見返りを求めないということかとピアは考える。それは究極の愛ではないだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたピアにハムは恐る恐る問いかけた。
「おそれながら、猊下にとっての幸せとはなんでしょうか?」
「帝国の繁栄、国民、信徒の幸せ。わたくしは私人としての自分は捨てている。皇女としてのわたくし、教皇としてのわたくしが全て……——。いや、結婚したらあなたの妻としてのわたくしの存在も必要か」
ピアは夢で会った皇太子の言葉を思い出した。皇女の夫、教皇の夫としてしか見てもらえない哀れな青年、という言葉を。
しかし、と思う。
「だけど、わたくしには分からない。私人としての幸せを長きにわたり捨て去ってきた、そんなわたくしには分からないのです。あなたの妻としてのわたくしの幸せが。あなたには大変申し訳ないことなのですけれど……」
ピアは変に誤魔化すのを止め、真実を告げた。
そんなピアの言葉を真剣な表情で聞いていたハムが口を開いた。
「猊下。猊下がご自身のお幸せを考えることなく、ただただ民と信徒のため尽くし、その幸せを考えておられることは大変素晴らしいことと存じます。私は猊下に私の妻としてのあなた様を無理につくって欲しいとは思いません。猊下ご自身がお望みにならないのならば今の猊下のままでいらしてください。そして猊下がご自分のお幸せについてお考えにならないのならば……私がその分もあなた様の幸せを考えます」
「わたくしの幸せを?」
「はい。私は無力です。出来ることも限られます。ですが最大限あなた様を幸せに、幸せを感じていただけるよう努めます。例えばお仕事でお疲れになった猊下を癒して差し上げたりできたら、私自身も幸せです」
ピアはなんと言っていいか分からず黙ってハムを見つめた。
いや、言わねばならない言葉がある。思っているだけでは伝わらない。
「——ありがとう」
※※※
「それにしても久しぶりですね。セフィーロ王国の国王陛下からのお手紙も」
ピアが先日書いて送った手紙の返事が届いた。それを読んでいるピアを見て、クロイツが懐かしそうにつぶやく。
「そうだな。こちらもスキマ陛下はお忙しいかと思って、手紙を送るのは自粛していたからな」
事実彼は即位したてで、ここ数年忙しかったのだろう。大陸の違うセフィーロ王国、その国王のほうからも手紙が届くこともなかった。
ピアの『スキマ陛下』という呼び名にクロイツがため息をついて訂正した。
「猊下。スキマ陛下ではいらっしゃいません。ナルシス陛下でいらっしゃいます」
「そうだったか?」
「ええ。スキマというのは猊下がかのお方が王太子時代に密かにおつけになった渾名にございます」
「そういえば、私が床を転げ回るのと同じように、あのお方は家具と家具の隙間に入り込んで座り込むのがストレス発散法だったな」
ピアは浮かない表情でセフィーロ王国国王からの手紙を机に置いた。
その表情が気になったのだろう、クロイツが尋ねる。
「国王陛下は何と仰っていらっしゃいますか?」
セフィーロ王国に東大陸の情報を求める、とはクロイツに予め話をしてあった。
「東大陸について直接の情報はない。やはり我ら西大陸より近いといえど、交流はないようだ。そのかわり……」
「そのかわり、如何なさいましたか?」
ピアは一瞬話すかどうか悩んだが、話しても構わないだろうと言葉を続けた。
「兄が戻り、皇帝位についたことも当然ながら向こうは知っている。それに関して、気になる情報を与えてくれた」
ピアは教皇執務室の壁に掛けられた世界地図を指差した。その示す先は北大陸と東大陸の間、中間地点ほどにある一つの島国だ。
「島国、ジャボン。クロイツ、お前は知っているか?」
「はい。簡単に、ではございますが。何せ彼の国もあまり情報のない国にございますので」
「そうだな。なんと言ったか。『鎖国』か。国民が国外に出ることを禁止し、また他国民が入ってくることも許さない。外交も何も行わず、受け付けない。だが、何事も例外というものはあるようだ」
「セフィーロ王国がジャボンと?」
「ほんの僅かであるが貿易を」
「そこから、なにか猊下がお気に留める情報を得ていらっしゃったと?」
ピアは国王のサインのある手紙を見下ろした。信じがたい。だが、これは信じたほうがよいだろう。
「数年前、ジャボンで大災厄とよばれる異変があった。流行病なのかもしれないが……国民の半数以上が亡くなるような酷い有様だったそうだ」
「それは本当に大災厄、ですね……」
「それが落ち着きだした頃、王朝が変わった。突如現れた男が王位を簒奪したそうだ。もちろん当時の王、その家臣たちは抵抗したが、その男に屈したらしい。全員処刑され、今はその簒奪者ともいえる男がジャボン王だ」
ピアは教皇執務室の窓から外を見つめる。その見つめる先にあるのは宮殿だ。
「その簒奪者——現ジャボン王の名をオルクスというらしい」
さすがの話にクロイツは絶句している。
ピアとて俄かには信じがたい。同一人物であるはずがない、と思いたい。
セフィーロ王国の国王も当初、名前が一緒だからといって、新しいジャボン王と出奔したティファレト帝国の皇子を結びつけはしなかった。だが行方不明であったオルクスが、出処が不明の大軍を率いて戻って来、帝位を奪ったことを聞いて初めて思い当たったという。
「もし仮にジャボン王が兄だとして……。それでも謎は残る」
「猊下?」
「忘たか、クロイツ。あの兄はティファレト帝国皇族とは思えないほど、魔力が低かった。魔法使いとして軍に所属している一般人のほうがはるかに魔力が高かったくらいだ。確かに剣の腕は多少あったが……それだけで、一国を乗っ取れるか?」
「難しいでしょう」
「そうだろう。にも関わらず、兄はジャボン国内で鬼神の如き強さだったと言われているらしい。その強さに前王朝は破れたのだ、と。勿論兄一人で戦ったわけではない。事実、セフィーロ国王の手紙には兄オルクスと思われる男が、ジャボン国民を率いて王城に攻め込んだとある」
しかしピアはそれにも疑問が残る。
もともとの兄の性格を考えると、とても民衆を扇動したりできると思えない。
もちろんその頃には今の兄、かつてとは別人のような兄になっていたのかもしれない。だが、たとえそうだといっても兄はジャボン国民からすれば所詮外国人である。そんな者の扇動に民衆があっさり乗ったりするものだろうか。
もちろん大災厄があったこともあり、その対応などで前王朝が国民から不信感をを持たれていた、と言われたら何も言えないが。
静まり返った部屋に扉を叩く音が響き渡った。
ピアとクロイツは顔を見合わせる。来客の予定はなかったはずだ。
クロイツが応対に出、またすぐに戻ってきた。その手には封筒がある。
「誰からだ?」
「噂をすれば、ですね。皇帝陛下からになります」
「わざわざ文書で?」
なにか正式なものかもしれない。
開けるよう、目でクロイツに促す。彼はペーパーナイフで手早く封を切った。
渡された文書に目を通す。思わず天井を仰いだ。
「皇帝会議の招集……なぜ、この時期に?」
一体何のために、とピアはつぶやく。
皇帝会議とは皇帝が全ての皇族と一級、二級貴族の当主を集め行う会議のことだ。一級貴族、二級貴族は己の傘下にいる三級、四級貴族を代表して出席することとなり、代わりに必要な投票を行ったり、結果の報告をする義務がある。
法の制定や皇族の婚姻など重要なことを決めるときに行われる会議だ。
「まさか、あの骨彼女との結婚を発表するつもりではあるまいな」
そこまで狂っているとは思いたくないが、ピアは顔を引きつらせる。
「もしくは私の意見も無視して勝手に婿候補を発表するつもりか?」
いずれにせよ、あまり良い予感はしない。
「日程も……かなり急ですね」
クロイツはそこに書かれている開催日を見て眉をひそめた。
これでは各地から各教区長を通じて、教皇庁地下にある転移門の使用許可が殺到するだろう。帝都から遠い場所に領地を持つ貴族は陸路で間に合わない可能性があるからだ。
ピアは兄から送られてきた文書を脇によけた。そして引き出しから一枚の紙を取り出した。
「猊下?」
「あまり良い予感がしない。先手を打ちたいが……何を言いだすかわからないからな。念のため、教会内の結束、ひいては信徒たちとの結束を固めたい」
「なるほど。まずは何をなさいますか?」
「異端審問官たちを増員する。そして新しく異端審問官の長を決めようかと思う」
「もう誰を指名なさるかお決めなのですね」
ピアはクロイツに頷き返した。
実はこれは兄が戻ってきた頃から、うっすらと考えていたことであるのだ。
新しい異端審問官に指名するのは神とその代理人である教皇に絶対の忠誠を誓い、なおかつ貴族や皇族にも臆さない者。所謂、教会至上主義の者だ。
そしてその長となるのは、ピアの求める要素を完ぺきに備えているあの男だ。
「イシュトヴァン司教を長とされるのですか?」
「良い案だろう。あれのことだ。このお役目をしっかり果たすことで枢機卿位への足がかりになると、言わずとも理解する。それに元々あいつは異端者を嫌う、教会至上主義者だ」
「長を拝命するに相応しい地位でもいらっしゃいますね」
なるほど、とクロイツは頷いた。
ピアは手早く文書を書き上げると、クロイツへ渡した。任命の期日は今日だ。
ここを出た文書は転移門を使い、すぐに各地にいる当該者たちへ届けられ、そして公示される。
ピアは足早に去るクロイツの後ろ姿を厳しい表情で見送った。
きっとこれから先はほんの僅かな判断ミスが命運を分ける、と予感する。
ピアは兄を場合によっては異端認定し徹底抗戦することを、最悪の場合ジャボンという国家と戦争になる可能性があることを覚悟した。




