第6話 切り捨てない獣医
ヴァルガルが、前に出た。
その歩みに、迷いはない。トキシードの前に立つ。
「首輪をつける」
「……自分から鎖に繋がれるとはな」
トキシードの視線が、足元の黒い首輪に落ちた。
ヴァルガルは、何も言わずにそれを拾い上げる。黒い金属。刻まれた魔法文字が、鈍く光っていた。
一瞬だけ、その爪が止まった。
だが、そのまま自らの首にはめた。
黒い魔力が弾け、一瞬でヴァルガルの体を覆い尽くす。
ヴァルガルの前脚が、石床へ沈んだ。
あの巨体が、首輪ひとつで押さえ込まれている。
「……実に理性的だ」
トキシードが、満足そうに言った。
「では約束通り、この女は解放してやろう」
指が鳴った。
台に刻まれた術式が、ひとつずつ光を失っていく。鎖の留め具が外れ、乾いた音を立てて床に落ちた。
リュシアが、台から降りる。
足元がわずかにふらついた。それでも、自分の足で立っていた。
……本当に、解いた。
拍子抜けするほど、あっさりと。
リュシアが、一歩ずつ確かめるようにこちらへ歩いてくる。ヴァルガルの前で足を止めると、首輪に押さえつけられた巨体を黙って見下ろした。
「……どうして、私なんかのために」
声が、少しだけ揺れていた。
「王が、自分から首輪をつけるなんて」
ヴァルガルは答えない。
リュシアが、小さく息を吐いた。
「……馬鹿ね」
「無事ならば、それでよい」
低く、穏やかな声だった。
リュシアが唇を噛み、目を伏せる。
俺は前へ出た。
「まず診せてくれ」
「……ええ」
リュシアが、こちらへ向き直った。
その間も、トキシードは動かなかった。
……おかしい。
リュシアは、あいつにとって貴重な研究材料のはずだ。ヴァルガルを首輪に繋いでまで手放したのに、止めようともしない。
追わない。口も挟まない。
ただ、見ている。
視線を向けると、トキシードは、わずかに口元を上げていた。
魔導レンズの奥の目が追っているのは、ヴァルガルでも俺でもない。
リュシアの足運び。呼吸。指先。
あれは、経過観察の目だ。
投薬したあと、反応が出るのを待つときの。
「……リュシア?」
足が、止まった。
肩が浅く上下している。呼吸が速い。指先も、小刻みに震え始めていた。
次の瞬間、膝が折れた。
「リュシア!」
駆け寄り、倒れかけた体を支える。
肌が冷たい。脈は速いのに弱く、乱れている。
瞳孔が開き、唇から血の色が抜けていく。
疲労じゃない。
出血でもない。
この症状は――。
「……毒だ」
顔を上げた。
「お前、いつ仕込んだ!? 約束が違うだろ!」
トキシードは、首を傾げた。
「約束?」
魔導レンズを指で押し上げる。
「私は彼女を解放したぞ」
「ふざけるな!」
「投与したのは、君たちが来る前だ。拘束術式が、薬剤の活性を抑えていただけでね」
「……何だと」
「術式を解除すれば、当然、毒性は戻る」
トキシードの視線は、まだリュシアから外れない。
「拘束術式下では、本来の薬効が正確に取れなくてね」
リュシアの呼吸を見ながら、静かに続けた。
「解除後、どの程度の速度で全身へ作用するのか。確認しておきたかった」
……こいつ。
リュシアを返したんじゃない。実験を再開しただけだ。
「私は何もしていない。君たちが、解放を選んだ結果だ」
「――貴様ァ……!」
ヴァルガルが、吠えた。
首輪が軋み、黒い魔力が食い込む。石が砕けた。
それでも、動けない。
「無駄だよ」
リュシアを観察しながら、トキシードが言う。
「首輪は、魔力を逆用して締まる構造だ」
「……ぁ……っ……!」
リュシアが小刻みに震え、絞り出すように息をしている。
迷っている時間はない。
「くーちゃん、いくぞ!」
「キャン!」
「……何をする気だ」
トキシードが、魔導レンズ越しに俺を見た。
「まさか、治すつもりか?」
口元が、ゆっくりと歪む。
「獣医風情が、私の毒をどうにかできるとでも?」
リュシアの呼吸が、さらに細くなる。床を掴む指が、白くなっていた。
「黙ってろ」
さっきのリュシアの声が、頭をよぎった。
――私を切り捨てて。
そんなこと、言うな。
「目の前の命を、切り捨てられるわけないだろ」
ポケットからボーロを出した。
くーちゃんがぱくりと食べる。
光った。
白い光が広がって、俺の全身を包んだ。
いつもより強い。胸の奥まで届くような、温かい光だった。
頭の奥に鋭い痺れが走り、視界が切り替わる。
黒い鎖が、見えた。
蛇のようにうねり、リュシアに噛みついている。
何本も、何重にも絡みつき、毒で歪んだ命を縛りつけている。
診るべき場所は、決まった。
「今、助けてやるからな」
最初の一本を、両手で掴む。
「処置する」
引きちぎる。
鎖が逃げようとした。
逃がさない。次。
牙を剥こうとした。構わない。
掴み、断ち切る。
一本ずつ、確実に。
「……は……っ……」
残り一本は太かった。
根が深く、命の中枢まで食い込んでいる。
これを外せば、戻る。
「これで、終わりだ!」
掴み、ねじ切った。
鎖が砕ける。
黒い破片が散り、光の粒子に変わって消えた。
静けさが、降りてきた。
リュシアの震えが止まり、呼吸がゆっくり戻っていく。
目が、開いた。
紅い瞳に、光が戻った。
それから、こちらを見た。
「……命が、戻ってきた」
リュシアの声は、掠れていた。
紅い瞳が、俺を見る。
「……馬鹿なの?」
低い声だった。
「あそこで私を捨てるのが、一番簡単だったでしょう」
「悪いが、そういう計算はしない」
リュシアは、何か言いかけて、口を閉じた。
「……あり得ない!」
トキシードの声が割り込んだ。
「私の毒が……消えた?」
一歩、後ずさる。
「患者を治した。それだけだ」
俺はリュシアを背にかばい、立ち上がった。
「命を素材にするお前の研究は、ここで終わりだ」
背後で、ヴァルガルの首輪が軋んだ。
トキシードの顔から、初めて笑みが消えていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次回、毒の研究者をきちんと処置します。
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くーちゃん「……次は、あの白衣を処置するワン」




