第50話 朝起きたら、広場に竜がいた
次の日の朝。
俺はボーロ工房の休憩スペースで、薄焼きパンをかじっていた。
清泉水のスープ。
月灯草茶。
それから、ミルナが焼いた小さな神獣ボーロ。
くーちゃんは俺の足元で、丸くなっている。
昨日あれだけ光ったのだから、今日はさすがに起きないだろう。
そう思っていたのに、ボーロの皿が置かれた瞬間、耳だけぴくりと動いた。
「お前、本当にボーロには強いな」
「きゅ……」
目は開けない。
でも、耳は起きている。
都合のいい生命反応だった。
「先生、リュシアさんは?」
ミルナが小さな声で聞いた。
「寝てる。今度こそ安静だ」
「よかったです」
「よかったけど、起きたらたぶん無理をする」
「……リュシアさんですから」
ミルナは困ったように笑った。
否定できなかった。
昨日のことを思い出すと、胸の奥がまだ痛む。
でも、呼吸は戻った。
脈も戻った。
あの赤い命の糸も、もう夢の向こうへ沈んではいない。
俺は月灯草茶を飲み干して、工房の外へ出た。
朝の空気は冷たかった。
工房の火の匂い。
清泉水の匂い。
焼きたてのパンの匂い。
リュシアが守った場所の匂いだった。
そして。
広場に、竜がいた。
黒い翼を畳み、石畳の上に伏せている。
巨大な体が、広場の半分くらいを占領していた。
冷静に考えると、かなりおかしい光景だった。
「……夢じゃないよな」
「きゅーん」
いつの間にか起きていたくーちゃんが、俺の足元で欠伸をした。
黒翼竜ラグナス・リュードラは、目を閉じたまま動かない。
黒い鱗は朝の光を吸い、畳んだ翼は広場の壁みたいになっている。
……なんだろう。
昨日はあれだけ大騒ぎだったのに、一晩経つと妙に馴染んでいる。
もふもふ領地の背景として、ぎりぎり成立している気がする。
「いや、成立するな。竜が背景になる領地って何だ」
「我は背景ではない」
ラグナスが、重々しく目を開けた。
「起きてたのか」
「寝てはいない」
「いびきかいてたぞ」
「竜の呼吸は、大地に響く」
「あー、はいはい」
ラグナスは、ゆっくり首を上げようとして、途中で止まった。
少しだけ、体が揺れる。
「診るぞ」
「竜を患者扱いするな」
「じゃあ、自分で立て」
ラグナスは少し黙った。
「……診察を続けろ」
「素直でよろしい」
「素直ではない。合理的判断だ」
俺はラグナスの首筋を見る。
昨日抜いた制御針の跡は残っている。
ただ、濁った紫の流れはほとんど消えていた。
呼吸も深い。
瞳の焦点も合っている。
「……特に異常はなさそうだな」
その時、ミルナが工房から出てきた。
小さな皿を両手で持っている。
「えっと……朝食、少し作りました」
ラグナスの金色の瞳が、皿へ向いた。
「小さき職人が?」
「はい。麻酔明けなので、重いものは避けた方がいいかと思って」
皿の上には、薄焼きパンと月灯草茶。
それから、焼いた神獣ボーロが数個並んでいた。
「神獣様用とは少し変えています。香りは軽めで、王蜜もほんの少しだけです」
「竜の食を調整すると言うのか」
「麻酔明けなので」
ミルナは真面目だった。
ラグナスはしばらく黙る。
「小さき職人、よく気がつく」
「ありがとうございます」
ミルナは皿を差し出した。
「食べられそうですか?」
「竜は菓子で機嫌を取られるほど安くない」
「では、下げます」
「待て」
ラグナスの声が、少しだけ早かった。
「確認は必要だ」
「確認ですか?」
「知らぬ土地の食物を見極めるのは、竜として当然だ」
ラグナスは神獣ボーロを一つ、慎重に口へ運んだ。
長い沈黙だった。
黒翼竜の金色の瞳が、わずかに細くなる。
「……火と水が、喧嘩していない」
「分かるんですか?」
ミルナの耳が、ぴんと立った。
「竜は、魔力の流れを舌で読む」
「舌で?」
「竜は賢い」
「便利ですね」
「便利ではない。高位な感覚だ」
そう言いながら、ラグナスは二つ目のボーロを口へ運んだ。
「確認だ」
「まだ何も言ってない」
「知らぬ土地の食物は、慎重に見極める必要がある」
薄焼きパンも、前肢の爪先で器用につまむようにして食べた。
月灯草茶も、香りを確かめてから、ゆっくり飲んだ。
やがて、皿の上はきれいに空になった。
ミルナが、ほっとしたように胸を撫で下ろす。
「食べられたみたいで、よかったです」
「小さき職人」
「はい」
「礼を言う」
ラグナスは、静かに言った。
「我を、魔物としてではなく、回復中の客として扱った。その食事だった」
ミルナの耳が、少しだけ赤くなる。
「私はただ、麻酔明けなので、食べやすいものをと思っただけです」
「それがよい」
ラグナスは、空になった皿を見た。
「竜の体を見て、火を弱め、水を整えた。悪くない」
「ありがとうございます」
ミルナは、深く頭を下げた。
その時、隣にカゲツが並んだ。
「……先生」
「カゲツ、おはよう」
「ああ。それより、今のは思ったより大きいぞ」
「竜が朝食を完食した話か?」
「そうだ」
カゲツは、空になった皿を見る。
「竜族は、他種族の食べ物を簡単には口にしない。まして、氏族名を名乗るような竜ならなおさらだ」
「つまり?」
「食を差し出すのは、客として迎えること。竜がそれを残さず食べるのは、少なくともその場では争わないという合図になる」
カゲツは、ミルナを見た。
「ミルナ。あんた、黒翼竜族との最初の外交を成立させたぞ」
「えっ」
ミルナが、目を丸くした。
「わ、私はただ、食べやすいように……」
「だから成立したんだろ」
ラグナスが、静かに目を細めた。
「カゲツ、と言ったか。そこから先は、我が語る」
カゲツは、静かに頷いた。
「竜が食を受けるのは、軽いことではない。だが、形式だけで食うわけでもない」
ラグナスは、ミルナを見た。
「この小さき職人は、我を魔物としてではなく、患者として見た。だから食べた」
ミルナの耳が、さらに赤くなる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、我の方だ」
ラグナスは、治療室のある建物へ目を向けた。
「それから、傷つけた二人には、いずれ改めて詫びる」
「今は休ませてる。リュシアもトキシードも、まだ無理はできない」
「なら、改めて言う」
そして、ラグナスが足元の黒い鱗の欠片を見た。昨夜の戦いで割れたものだった。
「小さき職人」
「はい」
「これを持て」
ラグナスは、黒い鱗をミルナの前に置いた。
「鱗、ですか?」
「黒翼笛に加工できる。風を通せば、我の耳に届く」
「そんな大事なものを、私が?」
「我が壊しかけたのは、お前たちの工房だ」
ラグナスは静かに言った。
「次にその火が危うい時、空へ知らせる権利は、お前にある」
ミルナは、両手で黒い鱗を受け取った。
「……大事にします」
「そうしろ。竜の鱗は、安くない」
ラグナスが翼を広げた。
「小さき職人。次に来る時までに、神獣ボーロの改良案を考えておけ」
「改良案、ですか?」
「竜用には、もう少し香りを強めてもよい。月灯草か、峰香草か」
「峰香草?」
「竜の谷の高所に生える香草だ。今度、少し持ってこよう」
「分かりました」
「対価は払う。竜の空でしか届かぬものを」
「きゅーん!」
くーちゃんが鳴いた。
「神獣様が、次はボーロ多めで、と言っています」
ミルナが訳すと、くーちゃんは満足そうに尻尾を振った。
ラグナスは、翼を広げたまま一度だけ振り返った。
「……覚えた」
黒い翼が、朝の光を受けて広がる。
竜の谷へ帰るために。
アイズ・ヴィタリスの名を、竜族へ届けるために。
その時だった。
「待って」
かすれた声がした。
振り返ると、治療室の入口にリュシアが立っていた。
顔色は悪い。肩で息をしている。
立っているだけでも、無理をしているのが分かった。
「リュシア、何してるんだ!」
リュシアは、薄く笑った。
「先生。今だけは、聞き分けの悪い女でいさせて」
リュシアは、ラグナスを見上げた。
「黒翼竜ラグナス・リュードラ」
「何だ」
「貴方は、帰さないわ」
広場の空気が止まった。
ラグナスの金色の瞳が、静かに細くなる。
「……我を、引き留めると言うのか」
「ええ。そうよ」
リュシアは、弱く笑った。
「まだ、世界に見せたいものがあるの」
次の瞬間、配信端末の赤いランプが灯った。




