第49話 黒翼竜、患者になる。
リュシアの手を離すのに、少し時間がかかった。
まだ弱い指先が、俺の指を握っている。
体温がある。
呼吸も、脈も、ちゃんと戻っている。
「安静にしてるんだぞ」
「はいはい」
「はいは一回」
「……先生、さっき告白した直後とは思えない厳しさね」
「戻ってきたばかりの患者が喋りすぎなんだよ」
リュシアは弱く笑って、ようやく目を閉じた。
俺はそれを何度も確認してから、治療室を出た。
そして、ボーロ工房の休憩スペースで、月灯草茶を飲んでいた。
終わった。
今度こそ、終わった。
トキシードは生きている。リュシアも帰ってきた。
俺は、椅子にもたれて息を吐いた。
身体の芯が、鉛みたいに重い。
「先生、顔が死んでます」
ミルナが、心配そうに言った。
「死んでない。たぶん」
ガルド爺が、窯の横で腕を組んでいた。
「どこまで無茶する気だ、お前さんは」
「俺が聞きたい」
床では、くーちゃんが完全に力尽きていた。
仰向け。
腹を出している。
片足だけ、なぜか斜め上に上がっている。
「……なんで片足上がってるんだ?」
「きゅ……」
くーちゃんは、目だけでこっちを見た。
返事をする気力もないらしい。
「神獣様、完全にお疲れですね」
「神獣様というか、干した毛玉みたいになってる」
俺は、床に寝転がるくーちゃんの腹をそっと撫でた。
「ありがとうな」
「きゅーん……」
その姿を見て、ミルナが小さな皿を持ってきた。
「神獣様。焼きたてです」
神獣ボーロだった。
リュシアを呼び戻すために使ったものよりは、少し小さい。けれど、香りはいい。
清泉水と小麦の甘い匂いが、ふわっと広がる。
床で干された毛玉になっていたくーちゃんの耳が、ぴくりと動いた。
「きゅ」
「起きましたね」
「ボーロで蘇生したな」
くーちゃんは、仰向けのまま首だけを動かして、ミルナの皿を見つめた。
そして、のそのそと起き上がる。
くーちゃんは、ミルナからボーロを受け取ると、いつもの半分くらいの速度で食べた。
もぐ。もぐ。もぐ。
幸せそうだった。
その顔を見ていると、ようやく胸の奥が少し緩んだ。
リュシアが帰ってきた。工房の火も消えていない。この領地は、まだここにある。
そう思った瞬間だった。
外で、轟音が響いた。
壁が震えた。棚の皿が鳴った。
月灯草茶の表面が、丸く波打った。
全員が止まった。
「……今の、何だ?」
ガルド爺が眉をひそめる。
「……先生」
ミルナが、ゆっくり俺を見る。
「黒翼竜って、その後、どうなりました?」
俺は、ゆっくり茶杯を置いた。
そういえば。
いたな。
黒翼竜。
リュシアを助けることと、トキシードを生かすことで頭がいっぱいで、完全に意識の外に追いやっていた。
「……動けないと思ってたんだが」
「トキシード様の毒で?」
「ああ」
外から、さらに大きな音がした。何かが石畳を削った音だった。
「効き目、切れてませんか?」
「切れてるな」
工房の扉が開いた。
カゲツが入ってきた。
「先生、ちょっと来てくれ」
「竜が、暴れてるのか」
「ああ、毒が切れた」
「ヴァルガルとヴァルフェリアは?」
「今、竜と相撲してる」
「相撲?」
「見れば分かる」
見たくない。だが、見ないわけにもいかない。
俺は立ち上がった。
くーちゃんも立ち上がろうとして、少しだけよろけた。
「くーちゃん、無理するな」
「きゅ」
くーちゃんは、ボーロの欠片を飲み込むと、俺の足元に並んだ。
尻尾はいつもより低い。
それでも、目は外を見ている。
「……分かった。無理はするなよ」
「きゅーん」
工房の外へ出ると、広場はひどいことになっていた。
黒翼竜が、石壁に背中を押しつけられている。
ヴァルガルが前脚を両腕で押さえ込み、ヴァルフェリアは翼にしがみついていた。
……いや、しがみついているというか。
「ヴァルフェリア、噛むな!」
「噛んでない。固定」
「牙が当たってるだろ!」
「ちょっと」
「それを噛んでると言う!」
「グオオオオオッ!」
黒翼竜が、喉の奥から低い咆哮を漏らした。
言葉ではない。
だが、ものすごく不満そうだった。
「先生。竜、怒ってる。でも、目が寝てる」
ヴァルフェリアの言葉に、俺は黒翼竜を見た。
濁った金色の瞳。
焦点が合っていない。
怒っている。暴れている。
なのに、そこに意志の芯がない。
「先生!」
ヴァルガルが叫んだ。
「急いでくれ。凄まじい力だ」
黒翼竜は首を振り、ヴァルガルを押し返そうとする。
「グルルルル……!」
「今のは、たぶん文句」
「顔で読むな」
「あと、竜、硬い」
「だから噛むな!」
俺は、くーちゃんを見た。
「くーちゃん。もう一度だけ、頼めるか」
言ってから、胸が痛んだ。
さっき、リュシアを呼び戻すために、くーちゃんはあれだけ光を使った。
本当なら、今すぐ寝かせてやりたい。
でも、この竜もこのままでは壊れる。
くーちゃんは俺の顔を見た。
「きゅ」
短い声だった。
神獣ボーロを差し出すと、くーちゃんが食べた。
白い光が広がる。
いつもより少し薄い。
それでも、視界が切り替わった。
黒い鎖は、見えない。
代わりに、竜の首筋から翼の付け根へ、濁った紫の筋が流れていた。
血管に沿って、何かが巡っている。
目を凝らせば首筋に小さな黒い点がある。針のようだった。
「制御針か」
俺は、竜の濁った瞳を見た。
意識が沈んでいる。
痛みと命令反応だけが、身体を動かしている。
「洗脳じゃない。麻酔だ」
喉の奥が冷えた。
「アイズのやつ、眠らせたまま戦わせてる」
黒翼竜が、低く唸った。
「グオオオオッ!」
怒っているのか。苦しんでいるのか。
分からない。
だから、診るしかない。
「ヴァルガル、動かすな」
「任せろ」
「ヴァルフェリア、翼を固定してくれ」
「分かった。噛む?」
「噛むな」
「……仕方ない」
くーちゃんの光が、鱗の奥に埋まった針を照らしている。
俺は針を掴んだ。
引く。
抜けない。
角度を変える。
もう一度、引く。
「グアアアアアッ!」
「押さえろ!」
「押さえてる!」
ヴァルガルの足が石畳にめり込む。
ヴァルフェリアが翼に全体重をかけた。
「抜くぞ」
力を込める。
針が、抜けた。
黒翼竜の喉から、苦しげな声が漏れた。
濁った紫の筋が、暴れるように広がろうとする。
「清泉水を。月灯草も」
カゲツが水瓶を投げ、ミルナが月灯草を差し出した。
清泉水で首筋の薬液を薄める。
砕いた月灯草を鼻先へ近づける。
くーちゃんの光で流れを見ながら、濁りが抜けていく方向へ誘導する。
派手な処置ではなかった。
でも、紫の筋は少しずつ薄くなっていく。
竜の呼吸が変わった。
荒かった息が、深くなる。
濁っていた金色の瞳が、ゆっくり焦点を結んだ。
「……ここは」
低い声だった。
さっきまでの咆哮とは違う。
意志のある声だった。
「名前は言えるか」
「……我は、ラグナス・リュードラ。黒翼竜族、リュードラ氏族の継承候補である」
「よし。意識は戻ってるな」
ラグナスは、広場を見た。
石畳の亀裂を見た。
自分の爪を見た。
「我は、お前たちに何をした?」
「眠らされたまま、命令で動かされてた。リュシアとトキシードがあんたを止めた」
「……そうか」
その声には、安堵と屈辱が混じっていた。
「恥ずべきことだ」
「恥じるのは後だ。まず休め」
「竜に休めと命じるのか」
「患者だからな」
「竜を患者扱いするな」
「だったら、治った顔をしろ。まだふらついてるぞ」
ラグナスは言い返そうとして、少し揺れた。
「……今のは、地面が揺れた」
「揺れてないからな」
「竜は、大地の微細な変化を感じ取る」
「便利な言い方をするな」
くーちゃんが、ラグナスの鼻先へ近づいた。
「きゅーん」
巨大な金色の瞳が、クリーム色の毛玉を見る。
「……これが、我を起こしたのか」
「そうだ。命の恩人だぞ」
ラグナスは、しばらくくーちゃんを見つめた。
くーちゃんも、じっと見返している。
「……小さい」
「感想が雑だな」
「だが、目は逸らせぬ」
ラグナスは、ゆっくり翼を広げた。
「我は帰らねばならない。王国医務卿のアイズ・ヴィタリスが竜を兵器にした。その事実を、竜の谷へ――」
言い終える前に、巨体がぐらりと傾いた。
「飛べてないぞ」
「飛ぶ前の確認だ」
「ふらついてるだけだ」
「違う」
「違わない」
くーちゃんが、俺の足元から一歩前に出た。
「きゃん!」
短い声だった。
ラグナスも、翼を広げたまま固まる。
「……何と言っている?」
「今日は休め、だと思う」
「竜に休めと命じるのか」
「命の恩人だぞ。従っておけ」
ラグナスは、くーちゃんを見た。
くーちゃんは、小さな体で、きゅっと前足をそろえていた。
「……一晩だけだ」
「素直じゃないな」
「違う。これは滞在ではない。羽を休めるだけだ」
その時、ミルナが皿を抱えたまま、おずおずと近づいてきた。
「えっと……神獣ボーロ、少し残っていますけど」
ラグナスの黄金の瞳が、皿の上へ吸い寄せられた。
「……」
見ている。
かなり見ている。
ヴァルフェリアが真顔で言った。
「食べたい?」
「違う」
ラグナスは即答した。
少し間を置いて、もう一度ボーロを見た。
「……確認だ」
「何の?」
「……異国の食物を見極めている」
「食べたいんだな」
「違う。見極めている」
こうして、黒翼竜ラグナス・リュードラは、一晩だけもふもふ領地に留まることになった。
本人は、あくまで羽を休めるだけだと言い張った。
だが、その視線は何度も、ミルナの皿に残った神獣ボーロへ向いていた。




