第48話 命の糸を縫う獣医
赤いランプが消えた瞬間、目が覚めた。
リュシアの手を握っていた。
夢の中で散った黒蝶の粉も、消えた赤いランプも、ここにはない。けれど、最後の声だけが耳に残っていた。
――私の、先生。
「リュシア」
返事はない。
「リュシア!」
自分の声だけが、治療室の白い壁に跳ね返った。
呼吸はある。脈もある。体温も残っている。身体はここにある。命も、まだここにある。
なのに、戻ってきていない。
夢の中で消えたリュシアが、そのまま帰ってきていない。
あの紅い瞳が。
俺をからかう声が。
闇猫ちゃんの笑みが。
どこにもない。
三日もそばにいた。何度も、くーちゃんの光に縋った。それでも何も見えなかった。何も掴めなかった。
俺は、リュシアの手を握ったまま、膝から崩れた。
くーちゃんが、そっと寄ってくる。前足を俺の膝に乗せ、小さな体を腕に押しつけた。
「きゅーん……」
慰めているのか。一緒に泣いているのか。それとも、まだ諦めるなと言っているのか。
分からなかった。
しばらく、何もできなかった。
もう一度、くーちゃんの光に縋ろうとした。でも、手が動かない。
何度も診た。
何度も見えなかった。
何度も、何も掴めなかった。
これ以上、何をすればいい。
その言葉が、喉の奥まで上がってきた。
だめだ。
そう思いかけた瞬間だった。
「きゅ」
くーちゃんが、顔を上げた。
治療室の扉の方を見る。
甘い匂いがした。
清泉水と小麦と、王蜜の匂い。それから、月灯草の薄い香り。
リュシアが守った、工房の火の匂いだった。
扉の前で、足音が止まる。
「先生」
ミルナの声だった。
振り返るのが、少しだけ遅れた。
ミルナは、小さな器を両手で持っていた。中には、白いボーロが一つ。ただの白ではない。治療室の灯りを受けて、真珠みたいに淡く輝いている。
「先生が眠っている間に、焼きました」
ミルナの目は赤かった。それでも、器を持つ手は震えていなかった。
「リュシアさんが守ってくれた工房です。火を消したままには、できませんでした」
後ろで、ガルド爺が腕を組んでいた。
「清泉水。試験区画の早生小麦。王蜜。月灯草」
ガルド爺は、短く言った。
「今この領地で出せる、いちばんいいもんを揃えた」
「トキシード様が、寝台の上で仮説だけ残してくれました」
フィーネが、小さく言った。
「神獣様の光は、ボーロによって少しずつ性質が変わる。今作れる最高品質のボーロなら、通常の光とは違う反応が出る可能性がある、と」
「違う反応……」
「迷った命を探す光になるかもしれない。保証はしない。外れたら、私の仮説が外れただけだ、と」
確かに、くーちゃんの光はいつも同じではなかった。ボーロの出来が違えば、黒い鎖の見え方も、光の届き方も少しずつ違った。
あれが偶然ではないのなら。
ミルナは、白いボーロを見つめた。
「だから、作りました」
一拍置いて、俺を見る。
「神獣様が、リュシアさんを見つけられるように」
喉の奥が詰まった。
「まだ、終わりじゃありません」
俺は、その器を受け取った。
白いボーロは、掌の上で小さく転がった。
清泉水。早生小麦。王蜜。月灯草。
リュシアが守った工房で焼かれた、今この領地にある一番のボーロ。
俺は、それを両手で包んだ。
「頼む」
声が震えた。
「リュシアを、助けたい」
祈りなんて、得意じゃない。獣医にできるのは、診て、触れて、処置することだけだ。
それでも。
今だけは、祈らずにいられなかった。
掌の中で、白いボーロが淡く光った。
強い光じゃない。けれど、確かに応えるような光だった。
くーちゃんが、器ではなく、俺の手元を見た。
いつものように飛びつかない。
じっと、淡く光るボーロを見て、それからリュシアを見て、最後に俺を見た。
「きゅ」
短い鳴き声だった。
食べるよ。
そう言っているように聞こえた。
「頼む、くーちゃん」
くーちゃんは、小さく頷いたように見えた。
そして、神獣ボーロを食べた。
白い光が、広がった。
いつもの光じゃなかった。眩しく弾けない。部屋いっぱいに押し広がらない。静かな光だった。
白い光の奥に、細い七色の筋が混じっている。
一本。また一本。
ほどけた糸を探すみたいに、くーちゃんの体から、淡い虹色の光が伸びていく。
鎖を照らす光じゃない。呪いを暴く光でもない。
ほどけた命の帰り道を、探す光だった。
その光の一本が、俺の手に絡んだ。
指先が熱くなる。
いや、違う。熱じゃない。
縫え、と言われている気がした。
俺は、思わず縫合針を取った。
虹色の光が、針先へ集まっていく。細い光が、針穴を通るみたいに震えた。
その瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。
耳鳴りがする。視界の奥が、ひび割れる。
そして――見えた。
リュシアの胸の奥に、赤い糸があった。
細い。あまりにも細い。
喉へ。指先へ。心臓へ。身体の隅々へ。
赤い糸は、今にもほどけそうに震えていた。
黒い鎖じゃない。命を縛るものじゃない。命を歪めるものでもない。
これは、命の糸だ。
リュシアが、リュシアとしてこの体に戻ってくるための糸。
だけど、その糸は身体からほどけかけていた。
夢の向こうへ。
赤いランプが消えた場所へ。
少しずつ、沈んでいこうとしている。
「先生……?」
ミルナの声が震えた。
俺は、赤い糸を見た。
断ち切るんじゃない。
解くんでもない。
これは、縫うものだ。
「診断、完了」
俺は、縫合針を握り直した。
「処置を開始する」
「何を……?」
「リュシアの命の糸を、縫う」
針先に集まった虹色の光が、細い糸になった。
くーちゃんの光が、縫合糸になっている。
「きゅ……っ」
くーちゃんの小さな体が震えた。
いつもの、ボーロを食べて尻尾を振る姿ではない。クリーム色の毛の奥で、光そのものを絞り出しているみたいだった。
「くーちゃん!」
でも、くーちゃんは逃げなかった。前足で、俺の膝を押す。
「きゃん!」
続けろ。
そう言われた気がした。
俺は針を通した。
手応えは、ほとんどない。
赤い糸は細すぎる。
触れればほどけ、離せば沈む。
それでも、通す。
リュシアの指が、わずかに動いた。
「戻ってこい」
次の一針で、赤い糸が奥へ沈むのを止めた。その次で、胸の奥に残っていた輪郭へ糸をかける。
「さよならなんて、認めない」
針を進めるたび、くーちゃんの体が小さく震えた。それでも、虹色の糸は途切れない。
「まだ言ってないことがある」
赤い糸は、細く震えながらも、少しずつこちらへ戻ってくる。
「俺は、お前に、生きていてほしい」
喉が焼けるようだった。涙で視界が滲む。拭わない。針を止められない。
「獣医としてじゃない」
虹色の糸を通す。
「俺が、お前に」
もう一度、通す。
「ここで、生きていてほしい」
何度目かの針で、遠くから声が滲んだ。
『先生』
「喋るな。戻ってこい」
『……まだ、呼んでくれるのね』
「何度でも呼ぶ」
『ずるい人』
「文句は戻ってきてから聞く」
『……そうね』
戻ってきてる。
リュシアの声が。リュシアの輪郭が。
少しずつ、戻ってきている。
けれど、最後の一本だけが、今にも切れそうに震えていた。
胸の奥へ続く糸。
リュシアが、リュシアとして帰ってくるための最後の命脈。
これが切れたら、たぶん戻れない。
俺は、虹色の糸を最後の針にかけた。
「リュシア」
手が震えた。
失敗すれば終わる。でも、もう逃げない。
「帰ってこい」
針を、通した。
虹色の糸が、赤い命の糸を縫い止めた。
光が、弾けた。
リュシアの胸が、大きく上下した。
息を吸った。
長い、長い息だった。
紅い瞳が、ゆっくりと開く。
「……先生」
かすれている。弱い。
それでも、リュシアの声だった。
俺をからかって。俺を困らせて。俺の名前を、ちゃんと呼ぶ声だった。
「リュシア」
名前を呼ぶと、紅い瞳がゆっくりと俺を見る。
「……いるわよ」
それだけで、胸が詰まった。
ずっと空っぽだった場所に、声が返ってきた。
「リュシア」
「二回も呼ばなくていいわ」
「呼ぶ」
「泣いてる?」
「泣いてない」
「嘘が下手ね」
俺は、返事をしなかった。
ミルナが口を押さえていた。フィーネが翅を震わせていた。ガルド爺が、目を細めて天井を向いた。
「戻ってこいって、聞こえたわ」
リュシアが言った。
「言った」
「ここで生きていてほしいって」
「ああ」
「獣医としてじゃないって」
全部、聞こえていたのか。
「リュシア」
「なに?」
返事があった。
それだけで、喉の奥が詰まった。
今、その紅い瞳が俺を見ている。
逃げるな。
「好きだ」
言ってから、息が止まった。
リュシアの紅い瞳が、少しだけ揺れた。
もう、引っ込められない。
引っ込めるつもりもなかった。
「戻ってきたら言うって、勝手に決めてた。今言わないと、また軽口で逃げるだろ」
「逃げないわ」
リュシアは、弱く笑った。
「もう、逃げる場所じゃなくて、帰りたい場所ができてしまったもの」
弱い指が、俺の手を握り返した。
「この領地で、先生と一緒にいたい」
その声はかすれていた。
けれど、逃げる声ではなかった。
「きゅーん」
くーちゃんが、俺たちの間に顔を突っ込んだ。
小さな鼻先が、リュシアの頬に触れる。
「……くーちゃん?」
リュシアが、かすれた声で呼んだ。
「きゅ」
責めるでもなく。催促するでもなく。
ただ、戻ってきてよかったと言うみたいに、リュシアの手に頬をすり寄せた。
リュシアは、弱く笑った。
「……ただいま、くーちゃん」
赤い命の糸は、もう夢の向こうへ沈んでいなかった。
リュシアの胸から、俺の指先へ。
細く、頼りなく。それでも、確かに繋がっている。
運命なんて言葉は、獣医の俺には少し大げさすぎる。
けれど。
その赤い糸を、もう二度と離したくないと思った。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
リュシア、帰ってきました。
逃げ続けてきた彼女にとって、
もふもふ領地は、いつの間にか「帰りたい場所」になっていました。
そして先生も、ようやくちゃんと言えました。
この先のトーマとリュシア、そしてもふもふ領地も、見守っていただけたら嬉しいです。
くーちゃん「……おかえり、だワン」




