第47話 三日目のさよなら
花洞窟を飛び出した瞬間、甘い蜜の匂いが背後へ流れていった。
足がもつれそうになる。
それでも止まれなかった。
リュシアが倒れた場所へ。
工房区画へ続く通路を、俺は全力で駆けた。
「きゅっ!」
くーちゃんも後ろから必死についてくる。
小さな足音が、石床を叩く。
その音すら、焦りを煽った。
どうして、もっと早く気づかなかった。
血が流れていないから。
大きな傷がなかったから。
呼吸があったから。
体の命は、まだ消えていない。
だから、待ってくれると思ってしまった。
でも、トキシードは言った。
あれは肉体の損傷ではない。
幻影の核が砕かれた。
意識が戻っていないなら、非常にまずい。
ただの気絶じゃない。
その言葉が、走るほどに重くなっていく。
「リュシア、ごめん」
声に出した瞬間、胸が痛んだ。
約束を守る、と言った声。
褒めてほしいと笑った顔。
全部、頭の中で遅れて響いてくる。
俺は歯を食いしばり、通路を抜けた。
***
工房区画へ戻ると、ミルナが入口に立っていた。
顔色は悪い。
けれど、俺を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。
「先生……! リュシアさんは、治療室へ運びました。床のままでは冷えてしまうので……」
「ありがとう。状態は?」
「呼吸はあります。血も出ていません。でも、何度呼んでも目を覚ましません」
胸の奥が、冷たくなった。
「案内してくれ」
「はい」
ミルナに続いて、俺は治療室へ入った。
簡易寝台の上に、リュシアが寝かされている。
砕けた黒蝶の翅が、まだ淡い光の粒子になって、彼女の周囲を漂っていた。
まるで、夢の欠片が帰り道を探しているみたいだった。
「リュシア!」
そばに膝をついた。
大きな傷はない。呼吸もある。
なのに、戻ってこない。
くーちゃんが、リュシアの手元に鼻を近づけた。
「きゅ……」
いつものボーロ要求の声じゃない。
細い、不安そうな声だった。
「もう一度、頼む」
俺は神獣ボーロを一つ取り出した。
くーちゃんは、いつものように喜んで飛びつかなかった。
じっとボーロを見て、それからリュシアを見た。
「きゅ」
小さく鳴いて、食べた。
白い光が、広がった。
視界が切り替わる。
俺は歪みを探した。
黒い鎖。
命を縛る異物。
壊された命令の痕。
何も、見えなかった。
黒い鎖がないことを、こんなに怖いと思ったのは初めてだった。
リュシアの命は、歪められていない。
体の中に、断ち切るべき鎖がない。
俺の手は、何も掴めなかった。
「なんでだよ……」
声が漏れた。
生きている。
でも、戻ってこない。
命はここにあるのに、リュシアだけがここにいない。
幻影魔術の核。
トキシードの言葉を思い出す。
あれは、肉体の損傷ではない。
幻影の核が砕かれた。
意識が戻っていないなら、非常にまずい。
それ以上の説明はなかった。
いや、説明できる状態ではなかった。
だから俺は、知っていることをかき集めるしかなかった。
リュシアは、工房を守るために黒翼竜と戦った。
俺が間に合わなかった場所で。
ミルナの火を。
ガルド爺の窯を。
くーちゃんのボーロを。
俺たちが守りたかったものを、守るために。
その戦いの中で、幻影魔術の核を砕かれた。
分かるのは、それだけだ。
でも、リュシアの魔術については、少しだけ聞いたことがある。
幻影使いは、自分と幻を区別する境界を持っている。
自分が何者で、何を映しているのか。
その輪郭。
もし、その輪郭が壊れているのだとしたら。
俺が治してきた命の歪みとは違う。
「くそ……」
俺はリュシアの手を握った。
温かい。
ちゃんと温かい。
それなのに、指は握り返してくれない。
「戻ってこいよ」
返事はなかった。
***
一日目。
俺は、リュシアのそばを離れなかった。
水を含ませる。体温を確かめる。呼吸を数える。魔力の揺れを記録する。
できることは少ない。
それでも、何もしないよりはましだった。
ミルナが粥を持ってきた。
カゲツが状況を報告した。
ヴァルフェリアが、部屋の入口からじっと見ていた。
「リュシア、起きる?」
「起こす」
「先生が言うなら、起きる」
そう言って、ヴァルフェリアは静かに戻っていった。
***
二日目。
リュシアは、まだ目を覚まさない。
呼吸はある。脈もある。
けれど、声がない。
俺をからかう声が。
闇猫ちゃんの声が。
どこにもない。
「先生、休め」
カゲツが言った。
「休めるわけないだろ」
「倒れたら、リュシアを診る奴がいなくなる」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
カゲツは、それ以上言わなかった。
くーちゃんは、俺の膝に丸くなっていた。
時々、リュシアの手を舐める。
それから、俺を見る。
「きゅーん……」
大丈夫か、と聞かれている気がした。
大丈夫ではなかった。
***
三日目。
時間の感覚が、少し分からなくなっていた。
眠ったのか。眠っていないのか。
それすら曖昧だった。
リュシアの呼吸だけを数えていた。
治療室の隅には、リュシアの配信端末が置かれていた。
赤いランプは消えている。
当たり前だ。
リュシアが起きていないのだから、配信なんて始まるはずがない。
それなのに、俺は何度もそのランプを見てしまった。
あの赤い光が灯れば、リュシアがいつもの声で笑ってくれるような気がして。
こんばんは、闇猫ちゃんねる。
そんな声が、聞こえるような気がして。
けれど、ランプは消えたままだった。
そして、三日目の夜。
くーちゃんが、俺の手元を前足でつついた。
「きゅーん」
神獣ボーロの袋だった。
「もう一度、診るのか?」
「きゅ」
違う、と言っている気がした。
くーちゃんが、神獣ボーロを食べた。
白い光が、静かに広がる。
診断の光ではなかった。
眠りに落ちるような、柔らかい光だった。
その光が、治療室の隅に置かれた配信端末をかすめた。
一瞬だけ。
消えていたはずの赤いランプが、奥の方でにじんだ気がした。
「リュシア……?」
呼びかけた声は、返ってこない。
リュシアの手を握ったまま、意識が沈んでいく。
寝るつもりはなかった。
でも、くーちゃんの体温が膝にあって。
リュシアの呼吸が、かすかに聞こえて。
俺は、三日ぶりに眠った。
***
夢の中で、赤いランプが灯っていた。
配信端末のランプみたいだった。
周囲は暗い。
水の底のように、音が遠い。
その赤い光の下に、リュシアはもう立っていた。
まるで、俺が来るのを知っていたみたいに。
「先生」
リュシアが笑った。
いつもの余裕のある笑みではなかった。
でも、確かにリュシアだった。
「三日も付き添うなんて、重い男ね」
「そういうこと言えるなら戻ってこい」
「戻りたいわ」
リュシアは、少し誇らしそうに言った。
「工房は、守った」
「知ってる」
「ミルナの火も、ガルド爺の窯も、くーちゃんのボーロも。あなたが守りたかったもの、ちゃんと守った」
「そんな報告をしに来るな」
「褒めてくれてもいいのよ?」
「戻ってから褒める」
「じゃあ、戻れなかったら?」
「言うな」
リュシアの声が、少し遠くなった。
「先生」
「なんだ」
「私ね、場所を持たないようにしてきたの」
「ああ、知ってる」
「でも、持ってしまった」
リュシアは、赤いランプを見た。
「ボーロ工房の火も、王の間の騒がしさも、清泉村から届く水の音も、くーちゃんが当たり前みたいに真ん中にいる景色も」
「全部、もふもふ領地だった。私が、いつの間にか帰りたいと思ってしまった場所」
その声は、いつもの軽口みたいで。けれど、少しだけ震えていた。
「あなたたちと一緒にいるのが、悔しいくらい、好きになっていた」
「戻ってきてから言え」
「……そうね」
その声の最後だけ、少し遠かった。
俺は、何か言おうとした。
でも、言葉が出なかった。
リュシアは、俺の沈黙を見て、少しだけ目を細めた。
「先生……ありがとう」
見ると、リュシアの輪郭がぼやけていた。
黒蝶の翅みたいに、端の方から淡く崩れている。
「待ってくれ」
「私を、化け物じゃなくて、リュシアとして見てくれて」
「リュシア!」
「さよなら」
リュシアは、最後に少しだけ笑った。
「私の、先生」
リュシアの輪郭が、黒蝶の粉みたいに散った。
赤いランプが、消えた。




