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第46話 トキシードは、最後に未来を残す(後編)

立ち上がっただけで、視界が半分ほど黒く欠けた。


「頼む、動くなトキシード。これ以上の出血はまずい」


獣医の声が、すぐ近くで聞こえた。


「そんなことは承知のうえだ」


私は答える代わりに、花洞窟の方を見た。


第二管の詰まり癖を、フィーネはまだ知らない。


「王蜜補助機のところへ行く」


「トキシード、本当に死ぬぞ!」


「そうだ。だから急がねばならない」


私は一歩踏み出した。


そこで、膝が落ちた。

肩から血が跳ねるように床へ散る。


「トキシード様!」


「……様をつけるな」


言い返しただけで、息が切れた。

体が、命令を聞かない。


実に、不愉快だ。


「……運べ」


「何を言って――」


「花洞窟だ。王蜜補助機の前まで運べ。説明は、そこでやる」


獣医が、苦しそうに顔を歪めた。


「本当に、無茶苦茶だな」


「知っている。急げ」


フィーネが震える手で私を支えた。

魔狼の一体が、私の体を背に乗せる。


床に、血の跡が続いた。


***


花洞窟の空気は、甘かった。


王蜜補助機の前で、私は膝をついた。

いや、正確には、膝をつかされた。


視界は暗い。呼吸も浅い。

だが、目盛りは見える。


なら、まだ説明できる。


「記録しろ」


「……はい」


フィーネは震える手で、蜜蝋板を取り出した。

以前から、彼女が勝手に書き続けていたものだ。


私の行動記録。


私が何度やめろと言っても、彼女はやめなかったものだ。


「……それを使うな」


「使います」


「私の行動記録なのだろう」


「はい。だから、使います」


フィーネの目から、涙が落ちた。

蜜蝋板の端に、小さな雫がつく。


「泣くな。文字が読めなくなる」


「泣いてません」


「嘘が下手だな」


「でも、書けます」


フィーネは涙を拭い、針筆を構えた。


「……なら、書け。間違えるな」


「はい」


「第一弁は朝に開く。夜は閉じろ。女王の魔力循環が落ちる時間帯に流しすぎるな」


フィーネの針筆が、蜜蝋板を削る。


「第一弁、朝。夜は閉じる……」


「第二管は詰まりやすい。王蜜に結晶が混じったら温める。燃やすな。温めるだけだ」


「第二管、結晶、温める……燃やさない……」


「神獣ボーロ粉末は入れすぎるな。安定材は薬ではない。過ぎれば毒になる」


震える文字が、蜜蝋に刻まれていく。


「第三目盛りを超えたら、一度止めろ。女王の呼吸を見ろ。翅の色が薄ければ、王蜜を流すな。休ませろ」


「はい……」


「異音がしたら第二管だ。叩くな。外せ。温めろ。戻す前に、必ず結晶を払え」


「はい……!」


「……よし」


私は、王蜜補助機から手を離した。


視界が、ほとんど黒に近い。


だが、言うべきことは言った。

最低限、運用はできる。


「……これで、女王は次の花を見られるだろう」


言えたかどうかは分からない。


フィーネの顔が、滲んで見えた。


泣きそうな顔。

昔、私を責めた少女と、少しだけ似た顔。


だが、違う。


この顔は、まだ絶望していない。


なら、十分だ。


あの顔を、もう一度見ずに済むなら。

研究者としては、悪くない仕事だった。


体から力が抜けた。


膝が崩れる。床が近づく。

指一本、自由に動かせない。


薄れゆく意識の中で、ふと思った。


命は、素材ではない。

巡って、繋がるものなのかもしれない。


認めるには、あまりに不愉快な仮説だ。


だが。


もし私の命も、巡るのなら。


せめて、未知なる研究の礎くらいにはなれ。


そう結論づけた瞬間、意識が途切れた。


***


「トキシード!」


俺は、倒れたトキシードの体を抱え込んだ。


軽い。


さっきまで嫌味を吐いていた男の体が、ぞっとするほど軽かった。


「トキシード様、いやです、起きてください……!」


フィーネが泣きじゃくっていた。


王蜜補助機の前に、血が落ちている。

もう、小さな池のようになっていた。


俺は傷口を押さえた。


止まらない。


包帯を重ねても、圧迫しても、赤が滲み出してくる。


「くそ……!」


黒爪の凝血阻害が、血を固まらせない。

縫おうにも、血が止まらなければ視界が確保できない。


このままでは、縫う前に死ぬ。


「先生」


弱い声がした。


振り返ると、アウレリアがフィーネに支えられて立っていた。


その手に、蜜蝋で封じた小さな器がある。


「女王様、それは……!」


フィーネの顔が青ざめた。


「未来を残された者として、見捨てるわけにはいきません」


アウレリアは、静かに言った。


俺は器を見た。

中に、濃い金色の蜜が揺れている。


「それは?」


「王蜜の雫です」


アウレリアが答えた。


「女王の体が傷ついた時、巣が最後に使う蜜です。流れ出る命を、少しだけ留めるもの」


フィーネの顔が青ざめた。


「それは、女王様の命綱です。今使えば、次に女王様を支えるものがなくなります」


「ええ」


アウレリアは頷いた。


「だから、命を繋ぐために使います」


「女王様の未来が、削れてしまいます……」


アウレリアは、倒れたトキシードを見た。


「私は、この方に未来をもらった女王です」


その声は弱い。

けれど、揺れなかった。


「ならば、その未来の使い道を選ぶのも、女王である私の役目です」


フィーネは涙を拭った。


「……わかりました」


蜜蝋の封が割れる。


「筋が通らないと、叱られそうですね」


それでも、フィーネは王蜜の雫を傷口へ落とした。


王蜜の雫は、傷口の上に薄い膜を作った。

流れ続けていた血が、ようやくそこで留まる。


「止まった……!」


俺はトキシードの顔を見た。


唇が白い。

呼吸が浅い。

皮膚の下から、命の色が抜けている。


「血が足りない」


王蜜は、流れ出る命を留めてくれた。

でも、失った血までは戻らない。


「このままだと、血管を縫えても持たない」


「きゅ……」


くーちゃんが、トキシードの顔を見た。

それから、花洞窟の入口を振り返る。


「くーちゃん?」


次の瞬間、小さな体が走り出した。


数分後、くーちゃんはカゲツを引っ張るようにして戻ってきた。


「神獣様が、すごい剣幕で鳴くから来てみたんだが」


「キャン!」


くーちゃんが、カゲツの膝を前足でちょんちょんと叩いた。


カゲツは、倒れているトキシードを見た。


「……なるほど。俺の血を使え、ということか」


「適合するか分からない」


「神獣様が選んだんだろう?」


カゲツは袖をまくった。


「なら、賭ける理由には十分だ」


フィーネが、蜜針と補助管を取った。


「王蜜補助機の管を使います。血も、通せるはずです」


「上等だ」


カゲツが腕を差し出す。


「優しく頼む」


「無理です」


蜜針が、カゲツの腕に入った。


細い管の中を、赤が流れ始める。


「ここから縫う」


俺は針を取った。


王蜜の膜を崩さないように、傷の奥へ針を入れる。


裂けた血管を探す。

結ぶ。

筋を寄せる。


血が滲む。

だが、溢れない。


カゲツの血が流れ、王蜜が膜を保っている。


「耐えてくれよ……」


俺は息を殺して、最後の糸を結んだ。


***


裂けた血管と筋を、どうにか縫い合わせた。

血は、かろうじて止まった。


呼吸は浅い。顔色は悪い。

それでも、トキシードはまだ生きていた。


「トキシード様……」


フィーネが、震える声で呼んだ。


トキシードのまぶたが、わずかに動く。


「……私は、生きているのか」


声は、ほとんど息だった。


「一応な」


「そろいもそろって、私を治すとは」


トキシードは、薄く目を開けた。

焦点は合っていない。


「君たちには……呆れたものだ」


「トキシード様……!」


フィーネが泣きながら笑った。


その横から、くーちゃんがそっと近づいた。


「きゅ」


小さな舌が、トキシードの指先をぺろりと舐める。


トキシードは、わずかに眉を寄せた。


「……犬に喜ばれる理由が分からない」


「生きてたからだろ」


「理由として雑すぎる」


「でも、くーちゃんには十分なんだよ」


けれど、指は引っ込めなかった。


俺は、その様子を見て、ようやく息を吐いた。


「言っただろ。お前には、生きて償わせるって」


トキシードは、かすかに目を細めた。


「……そうだったな」


「忘れるなよ」


「忘れたい宣告ほど、記憶に残るものだ」


「知るか」


フィーネが、涙を拭いながら笑った。


「……フィーネ。その顔はやめろ」


「無理です。生きているので」


「理由になっていない」


「なっています」


アウレリアも、静かに息を吐いた。

翅の色は薄い。それでも、表情は穏やかだった。


「あなたが残した未来が、あなたを繋ぎ止めました」


「……実に、非効率な循環だ」


「けれど、命は残りました」


トキシードは答えなかった。


カゲツが腕の蜜針を見下ろし、苦笑する。


「俺の血まで使ったんだ。高くつくぞ」


「請求書は後にしろ」


「安心しろ。利子をつけておく」


「最悪だな」


トキシードは、生きている。


命を素材にしてきた男が、誰かの命の循環に繋ぎ止められている。


その事実が、どうしようもなく救いだった。


「だが……」


そこで、トキシードの視線がわずかに揺れた。


俺ではない。

もっと遠くを見ようとしている。


「私などに、かまっている場合ではない」


胸が、嫌な音を立てた。


「何?」


「あのダークエルフのところへ行け」


「リュシアのことか」


「彼女は、最後まで……君との約束を気にしていた」


トキシードの息が、途切れかける。


「工房を守ると、言っていた。君に……褒めてもらうのだと」


喉が詰まった。


リュシア。


あいつは、笑っていた。

いつものように、余裕のあるふりをして。


「急げ。あれは、肉体の損傷ではない」


「どういうことだ」


「幻影の核が砕かれた。意識が戻っていないなら……非常にまずい」


ただの気絶じゃない。


その言葉が、頭の中で遅れて形になった。


「行け」


最後の一言だけは、妙にはっきりしていた。


それを最後に、トキシードは目を閉じた。


呼吸は浅い。

けれど、続いている。


「先生」


フィーネが、涙を拭った。


「ここは、私が見ます」


くーちゃんが、小さく鳴いた。


「きゅーん……」


リュシア。


血が流れていないから。

傷が見えないから。


大丈夫だと、思おうとしていた。


「ここは頼む」


俺は立ち上がった。


足は震えていた。

けれど、止まっている時間はなかった。


「リュシア、ごめん」


俺は花洞窟を飛び出した。


領地へ戻る通路を、全力で駆ける。


リュシアが倒れた場所へ。


あいつは、まだ帰ってきていない。

トキシードは、命を素材にしてきた男でした。


けれど最後に、王蜜補助機の記録を残し、

アウレリアの王蜜と、カゲツの血と、くーちゃんの導きに繋ぎ止められました。


許されたわけではありません。

それでも、命は残りました。


そして、まだ終わっていません。


次回。

トーマは、リュシアのもとへ走ります。


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