第45話 トキシードは、最後に未来を残す(前編)
ヴァルガルの背は、熱を持っていた。
黒い毛並みを掴みながら、俺はもふもふ領地へ向かう通路を駆け抜けていた。
隣では、くーちゃんが俺の腕の中で小さく震えている。
「きゅ……」
「分かってる」
俺は、喉の奥で答えた。
通信石越しに聞こえたリュシアの声が、何度も頭の中で響いていた。
『……約束、守るわ』
あの声は、いつもの余裕を装っていた。
けれど、かすかに震えていた。
だからこそ、怖かった。
「ヴァルガル、急いでくれ」
「分かっている」
魔狼王が低く唸り、さらに速度を上げた。
風が顔を叩く。
くーちゃんの毛が、腕の中でふわりと揺れる。
通路を抜け、工房区画の灯りが見えた。
ボーロ工房は、燃えていなかった。
窯の火も、棚も、壁も残っている。
その光景を見た瞬間、俺は肺の奥に溜まっていた息を吐いた。
間に合った。
そう思ったのは、一瞬だけだった。
工房の外で、黒い巨大な竜が沈黙していた。
倒れているわけではない。
死んでいるわけでもない。
ただ、動きを止めている。
その異様な静けさに、胸がざわついた。
「先生、竜は大丈夫だ」
カゲツが、低く言った。
「姫さんと王様が抑える。あっちは任せろ」
「リュシアは」
自分の声が、思ったより掠れていた。
「リュシアは、どこだ」
返事を待つ前に、俺はヴァルガルの背から飛び降りた。
くーちゃんも地面に降り、俺の後を追ってくる。
工房区画の中へ踏み込んだ瞬間、息が止まった。
リュシアが倒れていた。
魔力で編まれていた黒蝶は、もう蝶の形をしていない。砕けた翅の欠片が、淡い光の粒子になって、彼女の周囲に漂っている。
「リュシア……?」
声が掠れた。
彼女は動かなかった。
ほんの少し笑ったような顔のまま、目を閉じている。
まるで、壊れた人形みたいに。
一歩、そちらへ向かいかけた。
「トキシードもだ!」
カゲツの声で、意識が引き戻された。
少し離れた場所で、トキシードが倒れていた。
白衣が、赤い。
肩から胸にかけて血が広がり、床にまで落ちている。
「リュシア、トキシード……」
どちらに行く。
一瞬、足が止まった。
その迷いが、たまらなく嫌だった。
まず、リュシアを見た。
大きな傷はない。呼吸もある。
体の命は、まだ消えていない。
次に、トキシードを見た。
傷口から、血が流れ続けている。
止まっていない。
今この瞬間も、命が床へこぼれている。
選ぶしかなかった。
「トキシード!」
俺は駆け寄った。
くーちゃんも後を追ってくる。
肩から胸にかけての裂傷。血が白衣を赤く染めている。俺は傷口を押さえた。
止まらない。
圧迫しても、包帯を重ねても、血がじわじわと滲み続ける。
「くーちゃん、頼む!」
「キャン!」
くーちゃんが、ボーロを噛んだ。
光が小さな体から広がり、俺の視界が切り替わる。
だが、見えない。
トキシードの傷口には、黒い鎖はなかった。
命を歪める類のものじゃない。
ただの外傷。
なのに、血だけが止まらない。
「凝血阻害の黒爪だ」
トキシードが薄く笑った。
「喋るな、出血が増える」
「喋らなければ、君は間違える。止血は、難しい」
それでも、俺はトキシードの傷口を押さえ続けるしかなかった。
***
実に面倒だ。
肩から流れ出る血を見ながら、私はそう思った。
ぽたり、と血が床を打つ。
一滴。二滴。
音の間隔が、少しずつ短くなっている。
研究資源を抱えたミルナを守るために、このような傷を負うとは。
金蜜蜂族の研究は有益だ。
王蜜補助機は、まだ運用段階に入ったばかり。
神獣ボーロ粉末も、ミルナの配合感覚も、失うには惜しい。
感化されたわけではない。
情に流されたわけでもない。
ただ、失う損失が大きいだけだ。
そう結論づけようとして、古い声がよぎった。
――助かるって、言ったのに。
床に広がる血の色が、忘れたはずの記憶を引きずり出す。
若い頃の私は、今より少しだけ愚かだった。
毒とは、殺すためのものではなかった。
少なくとも、最初はそうだった。
暴走した魔獣。
痛みで暴れ、自分の体を傷つける患者。
魔力過剰で周囲を壊しながら、自分自身も壊れていく命。
それらを殺さずに止めるために、私は神経伝達を遮断する薬を作っていた。
救うためではない。
被害を止めるためだ。
当時の私も、そう言っていたはずだ。
だが、一度だけ間違えた。
泣きながら問いかけてきたその少女に、私は言った。
助かる、と。
私の薬なら止められる、と。
実際、魔物の暴走は止まった。
だが、命も止まった。
薬は成功した。
そして、患者は死んだ。
その時の少女の顔だけは、今でも鮮明に思い出せる。
絶望に歪んだ顔。
希望を裏切られた顔。
私が、二度と見たくない顔。
それ以来、私はその手の言葉を使わなくなった。
助ける。救う。大丈夫。
どれも、結果を保証しない、曖昧で不愉快な音だ。
だから私は、約束をしない。
「トキシード!」
誰かが叫んでいる。
獣医の声だ。
耳障りなほど必死だった。
肩の痛みで、意識が現在へ引き戻される。
血が床に落ちている。
ミルナが近くで泣いている。
フィーネも騒ぎを聞きつけてきたようだ。
そして、あの獣医と犬が私の前にいる。
誰もが、私を助けようとしている。
実に、不愉快だ。
手を伸ばせば、命が残るとでも思っているのか。
強く願えば、救えるとでも思っているのか。
そういう希望が、どれほど残酷かも知らずに。
だが、凝血阻害の黒爪の傷は甘くない。
黒翼竜の黒爪は、裂いた血を固まらせない。
爪痕に残った性質そのものが、凝血を阻害し、私の命を容赦なく削っていく。
指先の感覚が鈍い。
呼吸が浅い。
視界の端が、暗く欠け始めている。
私は医師ではない。
だが、この程度の診断ならできる。
出血多量で、私は死ぬ。
視界が歪む。
その中で、フィーネの顔が見えた。
泣きそうな顔だった。
一瞬だけ、昔の少女と重なる。
――助かるって、言ったのに。
不快だ。
あの顔は、もう見たくない。
アウレリアの王蜜循環を落とすわけにはいかない。
フィーネに、あの顔をさせるわけにはいかない。
約束はしない。助けるとも言わない。
だが、手順は残す。
論理が破綻している気はした。
女王の延命と、フィーネの顔を同じ秤に乗せるなど、研究者として実に雑だ。
だが、優秀な私とて、血が抜ければこの程度らしい。
王蜜補助機の第二管。
あの詰まり癖を、まだフィーネに教えていない。
知らずに運用すれば、三日以内に女王の循環が乱れる。
アウレリアは気づいた時にはもう遅い。
それでは困る。
ならば、動けるうちに残すしかない。
そのための手順を、研究者として残さなければならない。
祈るつもりはない。
だが、停止寸前の体にも、まだ使い道はある。
私は血の落ちる床に手をつき、立ち上がった。
王蜜補助機の手順を残す。
それが、この体に残された最後の仕事だった。




