第44話 血染めの白衣と、砕ける黒蝶
黒翼竜の喉に、黒い光が膨れ上がっていた。
狙いは、工房区画。
リュシアは、考えるより先に黒蝶を放った。
「操られているのなら」
黒い蝶の群れが、黒翼竜の視界へ殺到する。
「その命令ごと、私の悪夢で塗り潰す」
「《黒蝶夢幻》」
蝶が、竜の赤い瞳へ触れようとした。
だが、届かなかった。
黒翼竜の全身を覆う黒い魔力が、黒蝶を弾く。
触れる前に焦げ、入り込む前に押し返される。
「……弾かれた」
リュシアの声が、わずかに揺れた。
それでも、残った黒蝶が舞った。
焼け残った翅が、竜の視界を一瞬だけ覆う。
赤い目が、ほんのわずかに揺れた。
次の瞬間。
――ゴォッ。
黒いブレスが放たれた。
工房を貫くはずだった光が、わずかに逸れる。
ブレスは領地の外壁をかすめ、大空洞の壁面を焼き、はるか上の岩盤へ突き刺さった。
轟音。
天井から砕けた石が降る。
工房区画の灯りが一斉に揺れ、棚の小瓶が跳ねた。
「きゃっ!」
ミルナの悲鳴が聞こえた。
直撃は、していない。
けれど、外壁に張りついていた黒蝶はまとめて焼け落ちていた。
石壁の表面が赤黒く焦げ、結界の光が硝子のようにひび割れている。
失敗した。
黒翼竜の意識には、届かなかった。
それでも、工房はまだ燃えていない。
「……なるほどな」
トキシードが、場違いなほど冷静に言った。
「何を感心しているの」
「効いていない。だが、無駄ではない」
リュシアは、黒翼竜を睨んだ。
竜の赤い目は揺れていない。
首筋の黒い制御針だけが、ぎちぎちと脈打っている。
「神経系も魔力循環も閉じている。幻術を差し込む隙がない」
「今、それを言う?」
「今だから言っている」
黒翼竜が、工房区画へ向けて一歩踏み出した。
背後では、窯の火が揺れている。
誰かを焼く火じゃない。
誰かに食べてもらうための火。
「その火には、触れさせない」
リュシアは、黒翼竜を見上げた。
黒翼竜の喉が、再び黒く光る。
「また、ブレスが来る」
トキシードが言った。
「射線は、工房だ」
ミルナが守り、ガルド爺が整え、先生が戻ってくる場所。
「……もう、使うしかないわね」
リュシアは、小さく息を吐いた。
背中に黒い魔力が集まり、蝶の翅の形を取る。
薄く、脆く、美しい。
けれどその表面は、鏡のように光っていた。
「これは、幻を見せる魔法じゃない」
リュシアは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「夢を映す核を、翅の表面に張って、反射する鏡に変える魔法よ」
トキシードの目が細くなった。
「幻影の中枢を、反射膜にする気か」
「それしかないでしょう?」
「馬鹿げている。核がダメージを受ければ、君自身も無傷では済まん」
「知ってるわ」
リュシアは、ゆっくり息を吸った。
「映るだけの月に、牙は立たない」
「触れられぬ夢に、炎は届かない」
「鏡翅幻壁」
背に開いた黒い翅が、鏡のように淡く輝いた。
リュシアは、背後の窯火を感じながら、床を踏みしめる。
――ゴォッ。
黒いブレスが、蝶の翅に突き刺さった。
「跳ね返す……!」
黒い光が、鏡の翅で反射した。
ブレスは軌道を逸らされ、黒翼竜の胸を灼く。
「グォォッ……!」
竜が、初めて後退する。
黒翼竜の赤い目が、さらに濃くなる。
首筋に打ち込まれた黒い制御針が、ぎちぎちと脈打った。
次の瞬間、黒翼竜が苦しげに身をよじった。
怒りに任せた動きだった。
巨体が壁を擦り、尾が工房の入口へ流れる。
ボーロ工房の棚が大きく揺れた。
ミルナが、小瓶を抱えて立っていた。
神獣ボーロの粉末だ。
「ミルナ、下がれ!」
ガルド爺が叫んだ。
「で、でも、これが——!」
黒翼竜の尾が、工房の入口を削りながら迫った。
ミルナは、小瓶を抱えたまま動けなかった。
「何をしている。伏せろ!」
白衣が、割り込んだ。
トキシードはミルナの腕を掴み、棚の陰へ押し込む。
同時に、自分の体を半歩ずらした。
尾が、目の前を通り過ぎる。
風圧で白衣の裾が跳ねた。
棚の角が砕け、粉塵が舞う。
直撃はしていない。
避けた。そう見えた。
「トキシード様……」
「様をつけるな」
トキシードは、ミルナの腕の中にある小瓶を見た。
「瓶は無事か?」
「え……?」
「割れていないな。なら下がれ」
ミルナは動かなかった。
「どうして、私を庇ったんですか」
「その瓶には、私の研究資材が入っている」
「……私も、一緒に守られました」
「副次的な結果にすぎん」
ミルナが、何かを言い返そうとした。
その視線が、止まった。
トキシードの肩。
白衣の布が、裂けていた。
「その、肩……」
トキシードが、ようやく自分の肩を見た。
赤いものが、落ちていた。
一滴。二滴。
白衣の肩口に、血がじわりと広がっていく。
傷は深くない。
だが、血が止まらない。
トキシードは、指先で傷口に触れた。
血で濡れた指を見る。
「……尾に棘がある。避けたつもりだったが、かすったか」
「血が……止まっていません」
「凝血阻害だ。血が固まる過程を壊されている」
トキシードは、肩を押さえた。
それでも、血は指の隙間から溢れ続けた。
「潰すだけではない。避けた相手も、後から削る。実に悪趣味だ」
リュシアが、黒翼竜から目を離さないまま言った。
「……立っていられるの?」
「まだ、体は動く」
トキシードは、血の滲む肩を押さえた。
「だが、猶予は長くない」
そのとき、黒翼竜の喉が、再び黒く光った。
「……また来るわ」
「君の反射に、私の毒を乗せたまえ」
「……何を言っているの?」
「ブレスの射線上に毒を撒く。君は、それごと反射しろ」
「そんなこと、できると思っているの?」
一度は返せた。でも次は分からない。
「できなければ、我々は死ぬ」
「……最悪ね。だけど乗るわ」
トキシードが、血の滲む手で薬瓶を投げた。
瓶が、ブレスの射線上で割れる。
青黒い毒霧が、空中に広がった。
リュシアは息を吸った。
先生。
帰る場所は、残すから。
「あと一撃」
黒い蝶の翅が、震えながら開いた。
「あと一撃だけでいい。私に力を貸して」
さっきより薄い。
それでも、翅は鏡の光を宿していた。
「あの人が帰る場所だけは、燃やさせない」
「鏡翅幻壁」
黒いブレスと、青黒い毒霧が、同時に翅へ触れた。
翅が軋む。
リュシアの内側で、何かが削られていく。
幻影を映すための核。
自分と幻を分ける境界。
砕かれてはいけないものが、黒い光に押し潰されていく。
「っ、返れ……!」
それでも、リュシアは翅を開いた。
黒い光が、折り返す。
毒を含んだブレスが、黒翼竜の喉元へ逆流した。
首筋の制御針が、青黒く明滅する。
「グ、ォ……ッ」
竜の咆哮が、途中で歪んだ。
黒い翼が震え、巨体が一歩、二歩とよろめく。
喉の奥で、黒い光が乱れた。
そして、止まった。
工房区画に、重い静寂が落ちた。
「止まった……?」
ミルナが、震える声で言った。
「……停止したか」
トキシードが、荒く息を吐いた。
肩から血を流しながら、それでも目だけは異様に冴えていた。
「君の反射と、私の毒。黒翼竜のブレスを利用し、毒を魔力循環へ噛ませた。命令系も麻痺している」
トキシードの口元が、わずかに綻ぶ。
「竜を、停止させた。これは、価値のある検証だ」
だが、リュシアは何も答えなかった。
「……どうした、ダークエルフ」
トキシードが、わずかに眉をひそめる。
「君ならここで、皮肉の一つでも返す場面だろう」
返事はない。
リュシアの指先から、黒い蝶が一枚、剥がれるように落ちた。
羽ばたく前に、粉のように砕ける。
「……おい」
トキシードの声から、研究者の熱が消えた。
もう一枚。
さらに一枚。
黒い蝶が、彼女の周囲で崩れていく。
リュシアの体が、ぐらりと傾いた。
膝が落ちる。
床についた手も、力を失っていく。
黒い蝶が、彼女の周囲で一枚、また一枚と崩れていった。
トキシードは魔道レンズに手を当てた。
「……まさか」
その声は、さっきまでより低かった。
「幻影の核が、砕かれたのか」
リュシアは答えなかった。
ただ、工房を見た。
窯の火。棚。ミルナが抱えた小瓶。
帰る場所は、壊れていない。
「……ちゃんと」
ようやく、声が漏れた。
ほとんど息だった。
「約束は、守ったわ」
言葉が、途中でほどける。
「帰る場所は……燃やさなかった」
「……だから」
リュシアは、ほんの少しだけ笑った。
「褒めてね」
最後の黒蝶が、指先で砕けた。
「私の、先生」
その言葉を最後に、リュシアの指先から力が抜けた。
砕けた黒蝶の粉が、月明かりのように舞う。
彼女は、ほんの少し笑ったまま、床へ崩れ落ちた。
それきり、動かなかった。




