第43話 白衣の毒と、黒蝶の約束
清泉村の夜に、水音が戻っていた。
水車が、ゆっくりと回り始める。
避難していた村人たちが、小屋の外へ出てきた。
俺は、くーちゃんを抱き直した。
傷ついた者はいる。
それでも、今この場で失われた命はなかった。
だが、その時だった。
通信石が震えた。
戻りかけた水音を、その震えが切り裂いた。
「リュシア?」
『先生』
返ってきた声に、いつもの余裕はなかった。
胸の奥が、嫌な形で冷える。
「どうした」
『こっちにも来たわ』
「……敵か?」
通信の向こうで、轟音が響いた。
何かが崩れる音。
岩が砕け、巨大なものが地面に降り立つ音。
『竜よ』
リュシアの声が、そこで大きく揺れた。
『黒い翼の、竜が来た』
「リュシア、状況を言え!」
返事は、すぐには来なかった。
代わりに、通信石の奥で、石が砕けるような轟音が響いた。
『先生、聞こえ――』
声が、ざらついた雑音に呑まれる。
『――入口が、もう――』
「リュシア!」
遠くで、竜の咆哮が響いた。
通信石が、びりびりと震える。
『……約束、守るわ』
「待て。リュシア、応答しろ!」
返事はなかった。
通信石から聞こえたのは、竜の咆哮だけだった。
***
もふもふ領地の入口は、黒い蝶の迷宮に護られていた。
黒蝶幻廊。
敵の目を欺き、道を迷わせ、帰る場所を隠すための幻影結界。
リュシアはその中心で、息を潜めていた。
幻廊は、崩れていない。
入口に近づいた者は、同じ扉を何度も見せられる。曲がったはずの道は、元の場所へ戻る。
下手な魔物なら、拠点の場所に気づくことすらできない。
それでも、リュシアの胸には嫌な重さがあった。
先生たちは、清泉村へ向かった。
ヴァルガルも、ヴァルフェリアも、カゲツもいない。
残っているのは、数体の魔狼。
ガルド爺とミルナ。
そして、白衣の男、トキシード。
先生は、ここにいない。
守るものに対して、手札が少なすぎる。
そう思った瞬間だった。
はるか頭上で、岩盤が砕けた。
「……上から?」
リュシアは顔を上げた。
もふもふ領地の頭上には、ダンジョン上層へ続く大空洞が口を開けている。
上部は、厚い岩盤と結界で塞がれている。深層へ直接降りられる場所ではない。
そのはずだった。
だが、天井の闇に、大きな穴が開いていた。
砕けた岩の向こうで、黒い翼が広がる。
黒翼竜だった。
魔光を吸い込むような黒い鱗。
濁った金色の瞳。
首筋を走る、黒い制御針の痕。
黒翼竜は、大空洞の壁を爪で削りながら、ゆっくりと降りてくる。
「先生たちが清泉村へ向かった直後に、ここを直接狙うなんて」
リュシアは、唇を噛んだ。
「本当に、嫌な手を打つわね」
それでも、突破させるわけにはいかない。
「迷いなさい。ここへ来たいなら」
黒い蝶が舞い上がった。
領地の入口だけではない。
工房区画へ向かう道も、大空洞から降りてくる壁面も、黒い蝶の翅で塗り潰されていく。
ここから先は、夢の中だ。
そう思った矢先。
黒翼竜の喉が、黒く光った。
空気が沈む。
――ゴォッ。
黒い光が、大空洞を裂いた。
「――っ!」
遅れて、轟音が来る。
領地の外壁に張りついていた黒蝶が、まとめて焼け落ちた。
石壁の表面が赤黒く焦げ、結界の光が硝子のようにひび割れる。
迷わせるはずの回廊が、幻ごと削られていく。
帰る場所を隠していた黒い蝶が、一枚、また一枚と燃え尽きた。
「……そんな」
完璧だったはずの迷宮が、たった一撃で崩れていく。
砕けた闇の向こうから、黒翼竜がこちらを見下ろしていた。
砕けた幻廊の隙間から、赤い目が滑り込んできた。
一つ。二つ。三つ。
ナイトハウンド。清泉村へ向かった群れの、残りだった。
「魔狼たちは入口を塞いで! 工房区画には近づけさせないで!」
魔狼たちが前に出た。
ナイトハウンドと激突する。噛みついた。押し倒した。
だが、首輪が赤く光る。
折れた脚のまま、ナイトハウンドが跳ねた。痛みを、感じていない。
「厄介ね……!」
リュシアの黒蝶が赤い目を覆う。
幻影が、視界を塞ぐ。だが首輪で動く獣は、止まらない。
一体が、戦線を抜けた。
狙いは魔狼ではない。人でもない。
ボーロ工房だった。
窯の火。神獣ボーロの粉末。王蜜補助機へ繋ぐ調整器具。そこへ、赤い目が向いていた。
「させない……!」
黒い蝶を放ち、視界を塞ぐ。
ナイトハウンドの軌道が一瞬ずれる。だが止まらない。
首輪が赤く光る。
幻影を振り切って、また走り出す。
間に合わない。
その赤い牙が、工房の扉へ届こうとした瞬間。
ぱきん、と乾いた音がした。
ナイトハウンドの足元で、小さな薬瓶が砕けていた。
青黒い霧が、床を這うように広がる。
霧が爪を包み、脚を包み、喉元へまとわりついた。
ナイトハウンドの体が、びくりと跳ねた。
次の瞬間、四肢が硬直する。
爪が床を抉ったまま止まり、その巨体が工房の扉の手前で崩れ落ちた。
「……まさか」
リュシアが振り返る。
工房の前に、いるはずのない男が立っていた。
白衣の男、トキシード。
魔力封じの枷はついたまま。
だが、その指先には細い薬瓶が挟まれている。
「やはり神経伝達の遮断は効く。改造魔獣でも、足は足だ」
トキシードは、崩れ落ちたナイトハウンドを見下ろした。
「そこには私の研究機材がある。損耗されては困る」
不愉快そうに、そう言った。
「……助かったわ」
リュシアは、短く息を吐いた。
それから、トキシードの指先を見た。
「で、貴方。捕虜なのに毒を持っていたの?」
「神経毒だ。殺す毒ではない」
「そういう問題じゃないわ」
残ったナイトハウンドが二体、こちらへ向き直る。
「協力しなさい! トキシード」
「協力するつもりはない」
トキシードは、指先の薬瓶を軽く弾いた。
「だが、私の研究資源を守るために、最適な処置をする」
「……癪だけど、それで構わない」
リュシアは黒蝶を飛ばした。
残ったナイトハウンドの視界を、黒い翅が覆う。
赤い目が一瞬だけ揺れた。
「今よ!」
「私に指図しないでもらおう」
そう言いながら、トキシードはもう投げていた。
薬瓶が、ナイトハウンドの鼻先で割れる。
青黒い霧が、喉へ、鼻へ、傷口へ入り込む。
ナイトハウンドの四肢が硬直した。
爪が床を抉ったまま、動きが止まる。
「……まさか貴方に助けられるとはね」
「繰り返すが、私は助けたわけではない。研究資源を損耗から守っただけだ」
「……本当に面倒な男ね」
「面倒なのではない。精密なのだ」
黒翼竜が、砕けた幻廊の向こうからゆっくり歩いてきた。
一歩ごとに、床が沈む。
黒い鱗が、工房の灯りを吸い込む。
濁った金色の瞳には、意思がない。
命令だけで、こちらを見ていた。
「あれは、今の戦力で止められる相手ではない」
「……言われなくても分かってる」
「竜には幻術は効かんだろう。毒も、普通に撒いた程度では足止めにもならん」
リュシアは、砕けた黒蝶の欠片を見た。
完璧だったはずの迷宮は、もうない。
残っているのは、薄い羽音と、守るべき工房の火だけだった。
「それでも、退けないわ」
「合理性に欠ける判断だな」
「約束したの」
リュシアは、黒翼竜を見上げた。
「ここは、私が護るって。先生と」
トキシードは、すぐには答えなかった。
「……約束は、破れた時が厄介だ」
「破らなければいいわ」
リュシアは、少しだけ目を細めた。
「……ずいぶん実感のある言い方ね」
「気のせいだ」
「トキシード。あなたは逃げてもいいわ。あなたは捕虜で、私たちは仲間じゃない」
「私に指図をするな」
トキシードは、魔道レンズに指を添えた。
「検証途中の研究資源を、竜ごときに損耗させる気はない」
「……そう。なら、好きにしなさい」
黒翼竜の咆哮が、大空洞の底を叩いた。
黒い巨体が一歩踏み出すだけで、工房区画の灯りが震え、リュシアの幻影が紙のように剥がれていく。
止めなければ、帰る場所が消える。
リュシアは前に出た。
トキシードが、その横に立った。
黒蝶と白衣。
昨日までなら、絶対に並ばなかった二人が、同じ竜を見上げていた。
「先生が戻るまで、ここを燃やさせない」
「竜を相手に、どこまで時間稼ぎが成立するか。興味深い検証だ」
「可能性を見つけてみせる」
「可能性とは、祈るものではない。条件を削って残すものだ」
信頼ではない。
それでも今だけは、同じ場所を守るしかない。
黒翼竜が、二人を見下ろした。
その喉の奥で、黒い光が膨れ上がる。




