第42話 偽物の王と、本物の群れ
最初に崩れたのは、偽物の方だった。
六体の黒い獣が旧河道へ飛び込んだ瞬間、左右の闇から本物の魔狼たちが降りた。
吠え声はない。命令もない。
ただ、ヴァルガルが一歩前へ出た。
それだけで、群れが動いた。
「……ナイトハウンドか」
カゲツが低く言った。
「知ってるのか?」
「王国の夜襲用だ。魔狼に似せた、悪趣味な改造猟犬だよ」
ヴァルガルの金色の目が、静かに細くなった。
「……我らに似せて、村を襲わせたか」
六体のナイトハウンドは、旧河道の中で分断されていく。進路を塞がれ、逃げ道を失う。
本物の群れに、命令の声はいらなかった。
だが、旧河道の奥で赤い光が増えた。
一つ。二つ。三つ。
数えきれない。
その中心から、ひときわ大きな黒い獣が歩いてくる。
「……キングハウンド」
カゲツの声が低くなった。
「群れを動かすための個体だ。たぶん、王の代用品として作ったんだろうな」
そいつは、ヴァルガルに似ていた。
黒い毛並み。大きな体。
金色に似せた、濁った瞳。
首には二重の改造首輪がはめられ、首の下の毛が首輪で擦り切れていた。
「……我に似せたつもりか」
ヴァルガルの声が低くなった。
キングハウンドは答えない。首輪の命令だけで動いている。
それでも唸った。低い、腹に響く唸り声。
「ならば、見せてやる」
ヴァルガルが前に出た。
「群れを率いるということを」
***
旧河道が、戦場になった。
ナイトハウンドの群れは、気味が悪いほど揃っていた。
赤い目が同時に光り、同じ角度で跳び、同じ速度で噛みつく。
命令が、そうさせている。
一体が魔狼の喉を狙った。
だが、魔狼は半歩だけ体を流した。
爪が空を切る。
次の瞬間、別の魔狼が横から肩を払い、さらに後ろの一体が退路を塞ぐ。
誰も同じ動きをしていない。なのに、隙がなかった。
ヴァルガルの呼吸に合わせて、群れが動いている。
ナイトハウンドの赤い目が、一斉に光った。
だが、ヴァルガルは動かなかった。
「よく揃っている」
低い声だった。
「だが、揃いすぎだ」
一体の魔狼が、わざと後ろへ跳んだ。
追える距離だった。
だから、ナイトハウンドたちは追った。
六体すべてが、同じ命令に従って。
次の瞬間、左右の岩場から本物の魔狼が降りた。
退路が閉じる。
追ったはずの獣たちは、いつの間にか追い込まれていた。
そのうち一体が、包囲を破ろうと跳ぶ。
速い。
だが、一直線だった。
岩場の上にいた魔狼が、真横から落ちてくる。
肩を打つ。
黒い体が傾く。
さらに別の魔狼が、背後から体重をかけた。
ナイトハウンドの巨体が、旧河道の壁へ叩きつけられる。
「ギャッ!」
濁った声。
首輪の赤い光が、強く瞬いた。
それでも立ち上がろうとする。
痛みを感じていないのか。
「カゲツ!」
「分かってる!」
カゲツの影が泥の上を走り、ナイトハウンドの四肢へ絡みついた。
「三十秒だ。それ以上は影がもたねえ」
「無茶言うな」
「先生ならできる」
「きゅーん!」
くーちゃんがボーロを食べる。
白い光が広がり、視界が切り替わった。
首輪の内側から、針のような魔力が伸びている。
喉へ。背骨へ。心臓の近くへ。
細い根が、命に食い込んでいた。
だが、命と混ざりきってはいない。
外せる。
「診断完了。処置する」
俺は首輪に手をかけた。
根を一本ずつ引き抜く。
断ち切る。
ナイトハウンドが唸り、暴れようとした。
「押さえろ!」
「分かってる!」
カゲツの影が締まる。
泥の上で、ナイトハウンドの爪が軋んだ。
「残り十秒!」
最後の根を、ねじ切った。
ぷつん、と何かが切れる。
首輪が外れた。
赤い目の光が、ふっと消える。
ナイトハウンドは泥の中で震えた。
もう、どこかへ向かおうとはしなかった。
一度流れができれば、次は早かった。
二体目も、魔狼が押さえ、カゲツが影で縛り、くーちゃんが光を灯す。
「診断完了。外せる」
「処置する」
二体目の赤い光も、消えた。
三体目は、違った。
首輪の根が深すぎる。
光を当てても、先が見えない。
もう、命そのものに食い込んでいた。
「……診断完了」
声が、かすれた。
「これは、外せない」
「……きゅーん」
くーちゃんが悲しそうに鳴いた。
その鳴き声の向こうで、低い唸りが響いた。
顔を上げる。
旧河道の中央で、ヴァルガルとキングハウンドが対峙していた。
キングハウンドが低く唸った。
二重の首輪が、赤く光る。
次の瞬間だった。
周囲にいたナイトハウンドたちの目が、一斉に赤く灯った。
「……来るぞ」
カゲツが低く言った。
ナイトハウンドたちが、ヴァルガルへ殺到した。
前脚に牙が食い込む。
後脚に、肩に、首の下に。
黒い爪が毛並みに沈み、巨体を押さえ込もうとする。
攻撃ではない。拘束だった。
ヴァルガルの動きを止めるためだけに、同族の体を使い潰す命令。
キングハウンドは、その後ろで身を沈めていた。
濁った金色の目が、ヴァルガルの喉を見ている。
仲間に噛みつかせる。
動きを止める。
その隙に、自分だけがとどめを刺す。
……それは、群れではなかった。
ヴァルガルの声が、低く落ちた。
「群れを、己の牙代わりに使うか」
怒鳴ってはいない。
だが、旧河道の泥が震えた。
キングハウンドが跳んだ。
狙いは、喉。
ヴァルガルは、動かなかった。
ただ、睨んだ。
金色の目に、静かな怒りが宿る。
「……ギュル」
キングハウンドの喉から、かすれた声が漏れた。
濁った金色の目が揺れる。
突き立てられるはずだった牙が、わずかに逸れた。
獣の本能が、逃げろと叫んでいる。
だが、命令が逃がさない。
首輪の赤い光が、激しく瞬いた。
逸れた牙が、命令に引き戻される。
キングハウンドの体が、無理やり前へ出た。
その瞬間、ヴァルガルの前脚が首元を泥へ押さえ込んだ。
「王ならば」
ヴァルガルの金色の目が、燃えるように光った。
「群れを捨て駒にするな」
次の瞬間。
ヴァルガルが、咆哮した。
旧河道の空気が弾ける。
泥が波打つ。
水たまりが砕け、岩壁の水滴が霧になった。
ヴァルガルの全身から、金色の魔力が噴き上がる。
噛みついていたナイトハウンドたちが、まとめて吹き飛ばされた。
黒い体が岩壁へ叩きつけられ、泥の中へ転がる。
キングハウンドだけが、ヴァルガルの爪の下に残った。
二重の首輪が、赤く明滅している。
まだ命令に従おうとしているのか、泥の中で牙を剥いた。
ヴァルガルが、静かに言った。
「群れは、首輪ではなく、信で動く」
前脚が、さらに沈む。
キングハウンドの巨体が、泥へ叩きつけられた。
衝撃が、旧河道を走る。
それでも、ヴァルガルは殺していなかった。
キングハウンドは倒れた。
まだ息をしている。
二重の首輪だけが、赤く光り続けていた。
俺は、倒れたキングハウンドへ駆け寄った。
「診る」
くーちゃんが光った。
視界が切り替わる。
黒い鎖が、見えた。
二つの首輪から、何本もの鎖が、背骨へ、心臓へ食い込んでいる。
首輪が、命そのものと絡み合っていた。
「……診断完了」
声が、少し掠れた。
「外せない。根が深すぎる。もう、命に食い込んでる」
くーちゃんが、小さく鳴いた。
「きゅ……」
ヴァルガルが、俺の横に来た。
倒れたキングハウンドは、まだヴァルガルを見ていた。
濁った金色の目で。
命令に焼かれたまま、それでも何かを探すように。
「お前は、魔狼ではない」
ヴァルガルは、静かに言った。
「だが、獣として苦しんだことは分かる」
「せめて、一撃で終わらせる」
牙が、二重の首輪ごと喉を貫いた。
赤い光が、一度だけ大きく瞬いて、消えた。
キングハウンドの喉から、低い息が漏れる。
それは、命令に焼かれた唸りではなかった。
痛みから解かれた獣の、最後の声だった。
巨体から力が抜け、泥の中へ静かに沈んでいく。
その瞬間、群れを繋いでいた命令が乱れた。
ナイトハウンドたちの赤い目が、ちらつく。
走りかけて止まる者。
伏せたまま震える者。
行き先を失い、その場で泥を掻く者。
偽物の群れは、王を失った瞬間、群れではなくなった。
高台から見ていた村人の誰かが、震える声で言った。
「……魔狼王が、村を守ってくれたぞ」
その声が、水車小屋の方へ広がっていく。
村の灯りは、消えていなかった。
湧き水も、濁っていなかった。
首輪を外せた二体のナイトハウンドが、泥の中で静かに息をしている。
まだ怯えていた。
それでも、その目はもう赤くなかった。
俺は、くーちゃんを抱き直した。
清泉村の夜に、ようやく水音が戻っていた。
けれど、胸の奥に、小さな違和感が残っている。
掲示板にあった、もう一つの情報。
竜の鳴き声。
清泉村には、まだ竜は現れていない。
その事実だけが、夜の水音の中で、いつまでも消えなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、魔狼王ヴァルガルが「王であること」を見せる回でした。
首輪で命令される偽物の群れ。
信頼で動く本物の群れ。
この作品では、強さだけではなく、
誰かを捨て駒にしないこと、苦しんだ命にも最後まで向き合うことを、王の強さとして書いていきたいです。
清泉村の夜に、少しだけ水音が戻りました。
けれど、まだ竜の鳴き声だけが残っています。
次回、その違和感の先へ。
くーちゃん「……群れは、信で動くワン」




