第41話 王は、村を見捨てない
清泉村の水車小屋には、まだ灯りが残っていた。
ヴァルガルの背に乗ったまま見下ろす村は、昨日に見た村とは別物だった。
水車は止まり、村人たちは小屋へ避難している。
魔狼たちが外周を固め、街道には泥と爪痕が残っていた。
その奥に、荷車があった。
審査用の小箱は、まだ荷台の上にある。
白木の蓋に刻まれた銀の術式も、消えていない。
その横に、カゲツが崩れるように座り込んでいた。
ニナは、ヴァルフェリアのそばにいた。
小さな手で、ヴァルフェリアの服の端を握っている。
……間に合ったのか。
「先生、神獣様。降りられるか」
「大丈夫だ。くーちゃん、行くぞ」
「きゅ」
俺はくーちゃんを抱えたまま、ヴァルガルの背から飛び降りた。
「カゲツ!」
「先生か」
カゲツは、顔だけこちらへ向けた。
「……ようやくお出ましかよ」
審査用の小箱は、まだそこにあった。
ニナも、村人たちも生きている。
「……守ってくれたんだな」
カゲツは、少しだけ目を逸らした。
「こいつを潰されたら、もふもふ領地は終わりだからな。星も信用も、まとめて消える」
「でも、箱だけじゃない」
俺はニナを見た。
「村人も、ニナも生きてる」
カゲツの顔が、一瞬だけ止まった。
「今度は、両方守れたな」
カゲツは、いつもの軽い顔に戻ろうとして、少し失敗した。
「……俺一人じゃねえよ」
カゲツは、泥の中で倒れているバルグレイを見た。
「あのうるさい村長と」
次に、ヴァルフェリアを見た。
「腹ペコ姫のおかげだ」
「誰が腹ペコ」
ヴァルフェリアが、低く言った。
「今そこに食いつくのかよ」
カゲツが小さく笑った。
「それでも、お前が繋いだ」
言ってから、俺はポーチを開いた。
「だから今度は、俺の番だ。診せろ」
「……獣医に診られる商人って何だよ」
処置を始めると、くーちゃんがカゲツの顔を嗅いだ。
「きゅ……」
「神獣様まで、そんな顔するな。大丈夫だ」
ニナは膝を抱え、赤い目でカゲツを見ていた。
「おにいさん、痛い?」
「痛くない。かすり傷だ」
「でも血が沢山出てた」
「そんなもんは勝手に止まる」
「止まらなかったら?」
「……止まる」
ヴァルフェリアが横から言った。
「カゲツは大丈夫」
「そうなの?」
「うん。いつも、なんとかする」
「根拠があるようで雑だな」
そのとき、泥の中から、くぐもった声がした。
「私も……帰りたい……足が動かん……」
バルグレイが、水路の端で大の字になっていた。
「立て。自分で歩け」
「カゲツ殿は心が鬼である! この選ばれし疲労(全力逃走の代償)が分からぬか!」
バルグレイが、よろよろと立ち上がった。
泥を払おうとして、また泥を踏んだ。
諦めて歩き始めた。
その視線が、ふと止まった。
水車小屋の前に立つ、巨大な魔狼王。
ヴァルガルだった。
バルグレイは、ヴァルガルを見上げて固まった。
騒ぎの中では気づかなかったのだろう。
バルグレイは一歩だけ後ずさった。
……あの顔は分かる。本物の王の圧だ。
「……これが、王」
バルグレイが、泥まみれのまま呟いた。
「なんという威厳。なんという存在感。なんという……」
そこで、なぜか胸を押さえた。
「この選ばれし胸の痛み(ジェラシー)は……!」
「ルビで嫉妬を漏らすな」
カゲツが即座に突っ込んだ。
バルグレイは、それでもヴァルガルを見上げたままだった。
「私も、いつか……あなたのような王に、いや、長に、なれるだろうか」
その声だけは、少し真面目だった。
ヴァルガルの金色の目が、細く光った。
泥まみれの外套。
震えの残る膝。
それでも、村人の前に出た男。
その全部を見てから、魔狼王は低く言った。
「貴様が民を逃がしたと聞いた」
「は、はい」
「魔物を恐れながらも、前に出たのだろう」
「……はい」
「ならば、貴様も立派な長だ」
バルグレイの目が、無駄に輝いた。
「聞いたか、カゲツ殿! 王に認められたぞ!」
「調子に乗るな」
カゲツの声に、少しだけ空気が緩んだ。
だが、水車は止まったままだった。
そのとき。
ヴァルガルが、低く唸り声をあげた。
傷ついた仲間。
泥に残る爪痕。
小屋の中で震える村人たち。
そのすべてを、金色の目が静かに見ていた。
「……信を削り、荷を狙い、今度は村か」
低い声だった。
魔狼たちの耳が一斉に伏せられた。
「自らの民に、改造された獣を放つ。治める者のすることではない」
ヴァルガルの爪が、泥を静かに踏み砕いた。
「これ以上、この村を削らせぬ」
金色の目が、俺を見る。
「先生。傷ついた者を診ろ。立てる者を集めよ」
「任せてくれ。順に見る」
「我は外周を見る。まだ終わってはおらぬ」
***
応急処置を終える頃には、村の灯りは水車小屋に集まっていた。
カゲツの話では、敵は最初に六体。後から三体が追加された。
全員、黒い金属輪をつけていたらしい。
「カゲツ、敵の話を続けてくれ」
カゲツは、肩を回した。痛そうだったが、黙って口を開いた。
「敵は、魔狼に似た黒い魔物だ。不利になったところで、命令で戻されたように見えた」
「命令?」
「首輪が赤く光った。あれは逃げたんじゃねえ。命令が切り替わった動きだ」
俺は、くーちゃんを抱き直した。
「また、命令術式か。だったら、俺とくーちゃんで診る」
「外せるのか?」
「うまく、黒い鎖が断ち切れれば、だけどな」
くーちゃんが、真剣な顔で俺を見た。
「きゅ」
「頼むぞ、くーちゃん」
「だが次は、おそらく数を増やして来る。村で迎え撃つのは、悪手だ」
ヴァルガルが低く言った。
「ならば、村の外で止める」
カゲツが地面に指で線を引いた。
「迎え撃つなら、村外れの旧河道だ」
カゲツが泥の上に地図を描く。
「両側が高く、逃げ道が少ない。村からも離れてる。清泉水の匂いで誘導できる」
「罠にかけるのか?」
「ああ。清泉水を染み込ませた布と、神獣ボーロの粉末を使う」
カゲツが、バルグレイを見た。
「それから、村長の包帯の切れ端も使う」
「む?」
「血の匂いが残ってる。あいつらは、さっきやたら村長に反応していた」
「……この選ばれし傷の匂い(ほぼただの囮素材)か」
バルグレイは少し考えた。それから胸を張った。
ヴァルフェリアが、立ち上がった。
「私も行く」
ヴァルガルが、首を振った。
「フェリア。お前は村に残れ」
「……なぜ」
「村へ回り込む敵が出る。ニナもいる。負傷者もいる」
ヴァルガルは静かに続けた。
「村を壊さず守れる者が必要だ」
ヴァルフェリアは少しだけ黙った。
「村を、壊さず」
「そうだ」
ニナを見た。それから、カゲツを見た。
「分かった。村は、私が守る」
カゲツが、小さく言った。
「姫さんが残るなら、村は抜かれねえな」
「抜かせない」
「頼もしいことで」
軽く言ったつもりなのだろう。
でも、少しだけ本気が混じっていた。
***
旧河道は、村から少し離れた古い窪地だった。
両側が高く、足元は泥で、音が吸われる。
そこに罠を仕掛けた。
風下に、清泉水を染み込ませた布を置く。
そこへ神獣ボーロの粉末と、バルグレイの包帯の切れ端を重ねた。
「……罠というより、料理の下ごしらえだな」
「食いつけば同じだ」
くーちゃんが、不満そうに俺を見た。
「きゅう……」
「お前のボーロを餌にして悪かった」
くーちゃんは、納得していない顔で鼻を鳴らした。
ヴァルガルが、旧河道の奥を見た。
金色の目が、夜の闇の中で静かに光っていた。
「我らの姿を借り、村を襲うか」
低い声だった。
「ならば、本物の群れを見せてやる」
魔狼たちが、左右に散った。
音がない。気配もない。
闇に溶けるように、両側の高みへ消えていく。
旧河道に、静寂が落ちた。
くーちゃんの耳が、ぴくりと動く。
「きゅ……」
闇の奥に、赤い目が浮かんだ。
一つではない。
六つ。
黒い獣が、泥を蹴って走ってくる。
魔狼に似ている。
でも、違う。
首には、黒い金属の首輪。
「罠に入ったぞ」
カゲツが低く言った。
ヴァルガルが、一歩前に出る。
「狩りを始める」
その瞬間、左右の闇が動いた。
改造魔獣の群れへ向けて、
本物の魔狼たちが、一斉に牙を剥いた。




